石田三成
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名である。豊臣政権の五奉行の一人でもある。
テンプレート:武士/開始 テンプレート:武士/肖像 テンプレート:武士/時代 テンプレート:武士/生誕 テンプレート:武士/死没 テンプレート:武士/別名 テンプレート:武士/官位 テンプレート:武士/戒名 テンプレート:武士/氏族 テンプレート:武士/父母 テンプレート:武士/兄弟 |- | style="border-style:none none solid" | 妻 | style="border-style:none none solid solid" | 正室:宇多頼忠の娘 テンプレート:武士/子 テンプレート:武士/終了
目次
生涯
織田家臣時代
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて生まれる。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
三成は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城主となった頃の天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕えたと言われている(これには天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍したと言われている。
豊臣秀吉の家臣時代
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成は秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、秀吉が織田氏筆頭家老である柴田勝家と対立した賤ヶ岳の戦いに従軍し、柴田軍の動向を探る偵察行動や、先駈衆として一番槍の功名をあげたと、一柳家記には記されている。
天正12年(1584年)、秀吉が徳川家康・織田信雄連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いにも従軍する。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。天正13年(1585年)7月11日、秀吉が関白に就任したのに伴い、従五位下、治部少輔に叙任される。また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられた。この頃までには宇多下野守頼忠の娘を妻に迎えており、のちに三男三女をもうけている。
天正14年(1586年)1月、三成は当時、智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうちの半分の2万石の知行を与えて召抱えた。秀吉はこれを驚愕、そして賞賛し、島左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えたという(佐和山19万石を得た時に家臣とした説、それとは別に秀吉からの寄騎であったとする説もある)。同年、越後の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から堺奉行に任じられている。
天正15年(1587年)、三成は九州征伐に参陣する。しかし三成は武功を挙げたわけではなく、後方の兵糧・武具などの輜重を担当していたと言われている。ただし、先年の四国征伐でもそうであるが、秀吉の四国征伐・九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が、輜重を担当していたからであるとも言われている。九州征伐後、博多奉行となり、博多を復興させた。天正16年(1588年)、島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。
天正17年(1589年)美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加する。このとき、三成は秀吉から後北条氏の支城である館林城、忍城攻撃を命じられている。忍城攻めにおいては、元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が周囲に残っている。忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いたため、この戦いは三成の戦下手を示したものとする書物が多いが、これには異説もある。また常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋したり、奥州仕置の後、奥州の検地奉行を務めるなど、武功は皆無だが、有能な行政官僚としての功績は相変わらず大きかった。
文禄元年(1592年)、秀吉の命令で朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、三成はこれに従って朝鮮に渡海し、増田長盛、大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行に任命される。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いにも参加する。その後、三成は明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前・名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしていた。
文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、秀次の旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講話使節を接待する。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを静め処刑されないようにと奔走したという情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると、三成はまた、明・朝鮮との講和交渉に奔走するが、不調に終わった。そして慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、三成は朝鮮に在陣していた諸大名の撤兵に尽力したと言われている。
豊臣秀頼の家臣時代
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし秀吉の死去により、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。家康は覇権奪取のため、三成と敵対関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと縁戚関係を豊臣氏に無断で次々と結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を、秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反するとして、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も、豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を誇っていた大老・前田利家が病死する。すると三成と敵対関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(史料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れた。この後7将と三成は伏見にて睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した(なおこの事件時、三成は単身で向島の家康屋敷に難を逃れた、とする書物が多いが、これらの典拠となっている資料は、明治期以降の「日本戦史・関原役」などであり、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものは無い)。
しかし利家の死去、ならびに三成の蟄居により、家康の専横はとどまるところを知らなくなる。9月、家康は重陽の節句による祝意を秀頼に述べるため、大坂に上坂した。このとき、家康は三成の屋敷を宿所としたと言われている。
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の密議を図る。そして上杉景勝が公然と家康に対して叛旗を翻すと、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを好機として、三成は大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継ははじめ、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成の友誼などもあって、遂に承諾した。
7月12日、三成は兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に後発する西国大名の鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に西軍に与させた。7月13日、三成は家康に与した諸大名の大坂にあった妻子を人質として捕縛すべく、軍勢を送り込んだが、加藤清正の妻をはじめとしてほとんど全員に脱出され、細川忠興の正室・細川ガラシャ(明智光秀の娘)には人質となることを拒絶されて、屋敷に火を放って死ぬという壮烈な最期を見せられ、人質作戦は失敗してしまった。
7月17日、三成は毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた。しかし、伏見城は堅固で、しかも鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。甲賀衆は三成の要求に従って裏切り、城門を内側から開けた。こうして8月1日、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めた。しかし家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決める。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田軍は6900人で、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵相手に、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りにより、西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。しかしこのとき、三成は極度の空腹から沢の水を飲み、生米を食べたため、痢病にかかってしまったと言われている。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出た。そして、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。
三成は9月22日、大津城に護送され、家康によって大津城の門前で生き曝しとされた。そして家康と会見した。9月27日、三成は大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、三成は京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、三成は家康により、六条河原で斬首された。享年41。その首は家康により、晒し首とされたという。
墓所:京都大徳寺の三玄院。
挿話
三杯の茶(三献茶)
近江国観音寺にのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り茶を所望したのを出会いとするもの。史料が江戸時代のものであること等から、創作とされる。
旧主の姫?
一般的に言われている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたとある。だが、本人同士が親しかったかどうかはともかく、「旧主の姫」だからという理由はあり得ない。そもそも、三成の石田家は近江の土豪であるが、浅井家とは敵対関係にあった。むしろ、その意味では「仇敵の姫」と言うべきであろう。また、一説には秀頼が秀吉の実子ではなく、石田三成か大野治長が淀殿と密通して生ませた子であるという噂が秀吉没後から囁かれたと言われていたが、この話の出典が江戸中期以降ということもあり、現在では後世に三成を奸臣としてまつり上げた幕府の御用学者の作り話であるとされている。そもそも、秀頼は1593年8月生まれであり、前年より朝鮮半島に赴いていた(文禄の役)三成が淀殿に子どもを産ませたなど、物理的に不可能である。従って、淀殿と三成を結びつける物的証拠はない。その一方で近年では、三成が秀吉の正室である北政所(高台院)とは親密であり、逆に秀頼の母ということで政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとするこれまでの通説とは全く正反対の説も浮上している(三成の三女は北政所の養女である【杉山家由緒書・岡家由緒書】また、側近の筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で、関ヶ原でも三成のために大津城の開城交渉を行っている。さらに同じく側近の東殿局は大谷吉継の母と伝えられている。これらに対し、清正ら武断派の縁者が側近に一人もいないし、三成派の縁者が淀殿の側近に全くいないことなどが証拠として挙げられる。詳しくは高台院の項を参照)。
肖像画
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。三成の首と胴体は三条河原に晒された後、生前建立した大徳寺三玄院に葬られた。
- この三玄院の門は、三成の伏見屋敷の門が移築されたという説がある。
約300余年を経た1907年、東京帝國大学の渡辺世佑が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って1976年、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、1980年3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大阪城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156センチメートルと試算された。
子供・子孫
重家、重成の他に娘が5人いたと言われている。(三男三女という説もあり) 重家は関ヶ原の折には佐和山城にいたが、敗戦を知るや正継の命令で妙心寺に逃げ込み出家。妙心寺の住持が家康に助命を嘆願し許された。後に妙心寺内の寿聖院の三代目となり、貞享3年(1686年)に104歳で入寂した。
重成は豊臣秀頼の小姓として大坂城にいたが、小姓仲間で津軽為信の嫡男であった津軽信建の案内で津軽弘前藩に逃げ込んだ。慶長15年(1610年)に25歳の若さで死んだとされる(寛永18年(1641年)に死んだという伝承もある)。子孫は弘前藩重臣となり、姓を「杉山」と改めた。
娘のうち重家と母を同じにする長姫(辰子)と某はそれぞれ、津軽信牧(信建の弟。弘前藩第2代藩主)と岡重政(会津藩・蒲生秀行および蒲生忠郷家老)に嫁いだ。後、長姫は満天姫降嫁のために側室に降格となるが、第3代藩主となった津軽信義を産んだ。
重政に嫁いだ方は、徳川家光の側室となったお振の方の父岡吉右衛門を産んだ。お振の方は千代姫を産み、千代姫は徳川御三家の尾張藩二代藩主徳川光友の正室となった。その後、千代姫は徳川綱誠を産み、その子から徳川吉通、徳川継友、そして徳川吉宗に相反する政策を採った事で知られる徳川宗春を輩出。綱誠の弟である松平友著からは徳川宗勝(松平義敦)→徳川宗睦→徳川斉朝と続いた。また、綱誠の娘・松姫が金沢藩六代目藩主前田吉徳に嫁いだ。
大河ドラマ
大河ドラマで三成を演じた俳優には
- 石坂浩二(「太閤記」、1965年)
- 中村敦夫(「春の坂道」、1971年)
- 近藤正臣(「黄金の日日」、1978年)
- 宅麻伸(「おんな太閤記」、1981年)
- 鹿賀丈史(「徳川家康」、1983年)
- 奥田瑛二(「独眼竜政宗」、1987年)
- 伊武雅刀(「春日局」、1989年)
- 真田広之(「秀吉」、1996年)
- 江守徹(「葵徳川三代」、2000年)
- 原田龍二(「利家とまつ~加賀百万石物語~」、2002年)
- 三代目中村橋之助(「功名が辻」、2006年)
など、比較的スリムな二枚目俳優が多い。しかし実際は「葵徳川三代」(2000年)での江守徹が史実の三成に最も近いとされる。これは江守が龍譚寺所蔵の三成の肖像画に似ていたからだと言われ、また、江守が関ヶ原のシーンで着用していた甲冑も、三成所用と伝えられている「大角横立頭形兜」「革包二枚仏胴具足」をコピーしたものである。どちらも、「史実に忠実」をモットーに掲げていたジェームス三木の意向とされる。 2006年の「功名が辻」では、三代目中村橋之助が豊臣家への忠義を貫く三成を重厚に演じている。
また大河ドラマではないが、TBSの開局30周年記念に制作された正月ドラマ「関ヶ原」(原作司馬遼太郎:脚本早坂暁)で、加藤剛が演じた豊臣家への忠義に厚い、正義感溢れる三成役も今なお評価が高い。「関ヶ原」の7年後の1988年、同じTBSの正月時代劇「徳川家康」(脚本高田宏治、監督降旗康男)では、真田広之が三成の苦悩や忠誠心を力強い演技で鮮やかに表現した。
逸話
- 関ヶ原の戦いで敗走した三成は近江(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。そのときに村人たちに「このように逃れてきたのは関ヶ原でふたたび一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人たちはこの言葉にひかれて石田三成をかくまった。しかし隣村出身の与次郎太夫という者が裏切ったため三成は捕らえられた。この事件のあと村には七つの掟が生まれ、また不思議な現象が起きるようになった。
- 前田利家の死後、加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・池田輝政・浅野幸長・加藤嘉明が三成の屋敷を襲撃するという事件が起こったが、家康は襲撃した諸将を叱り、三成は奉行を辞めて佐和山城に蟄居するということで一件落着した。三成は佐和山城への護送役をつとめた結城秀康に「無銘正宗」を贈った。秀康は喜び、これを「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。
- 徳川家康が三成に側室として送り込んだくノ一といわれるのが初芽局である。しかし彼女はまっすぐな性格の三成に惚れてしまい、徳川を裏切り「裏切り者は死あるのみ」とされ殺されたといわれている(モデルとなった女性は実在するらしい(子孫を自称する人物がいるという)初芽という名前は北野源治の創作か?))。また別に落城の際には生きていて、城から脱出し墓前を弔ったと言う説もある。
- 三成は秀吉から初めて200石(400石とも)の知行を賜った時、その全てを投げ打って渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)を召し抱え、家臣である彼の屋敷に起居した。勘兵衛は秀吉や柴田勝家から2万石の誘いを受けても「10万石でなければ仕える気はない」と断っていたほどの人物であり、秀吉を大いに驚かせたという。その後、勘兵衛は三成から何度も加増の話を受けるが、すべて断って終生200石(400石?)で仕えたという。島左近召し抱えのエピソードは、この話が入り交じって伝えられたとされている。また手塚治虫も後藤又兵衛のエピソードとして、これに似た話を描いている。
- 文禄の役の際、幸州山城の戦いで負傷したとされる。朝鮮の役には参加しないで日本国内の安全な場所にいたと誤解される彼だが、意外にも激戦の真っ直中にいたのである。(余談だが、武功派とされた福島正則は、文禄の役でも殆ど戦いには参加せず、慶長の役では日本国内にいた)
- 斬首される前に三成は柿を勧められたが「柿を食べると身体に障る」と言って食べなかったとされる。
評価
名臣・忠臣説
- 三成は後世に、五人組の制度を残した。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
- 江戸時代では過小に、明治期では過大にその人物を批評された。水戸光圀が大日本史に「石田三成は非常に立派な人物だ。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。徳川家の敵といって三成の事を悪く言うのは良くない。君臣とも三成のように心がけるべきだ」と記述したことも、現代と江戸時代では評価が大きく異なったことを示している。
- 豊臣秀吉の右腕として、その治世の間に敏腕を振るった。徳川家康における本多正純的な役割を担った実務家であったとされる(小和田哲男は、三成のことを官房長官と評している)。
- 文禄の役の際、無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎をつくりあげた。少なくとも、兵站を重視した戦略家であったことがみてとれる。
- 三成は佐和山で善政を敷いた。そのため、領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。余談だが、家康の重臣で三成死後に佐和山に入った井伊直政は慶長7年(1602年)に死去したが、これが原因で三成に祟り殺されたと噂されたとも言われたという。
- 三成は領内の古橋村が飢饉に襲われたとき、年貢を免祖したといわれている。ちなみに古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があったが、三成は手厚い保護を与えていたという。
- 豊臣秀吉が短期間で天下統一ができた理由のひとつとして、三成らが常に後方補給などの輜重役を担当していたからだとも言われている。三成は有能な行政官僚だったと言えるだろう。
- 文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚時には豊臣諸将が秀次を見限る中、石田三成は「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次助命に動いた。秀次の家臣であった前野忠康(舞兵庫)ら若江八人衆はその三成の姿に感激し、以後、三成の麾下に加わった。この際、細川藤孝と共同しようとするも、三成が遠方の検地に赴いていた為、思うように動けなかったとする逸話がある。
- 三成は大一大万大吉と記された家紋を用いた。意味は「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味だったが、皮肉なことに関ヶ原の戦いでは小早川秀秋らに裏切られこの世を去ってしまった。
奸臣説
- 三成は「奸臣である」という説もある。これは勝者である徳川氏によって作り出されたイメージが強いとも言われている。
- 三成は不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を司っていた。ところが、そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得ることができなかった。加藤清正ら武功派諸将が三成を襲撃したのも、これが一因しているものと思われる。また、他には当時武功派と吏僚派の間での政権争いの結果、後者の勢力拡大に努めていたから恨まれたのだとする説もある。
- 三成と同時代の人物の評価がある。毛利輝元は、「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」と評し、島津義弘は、「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」と評し、高野山の木食応其上人は、「治少、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」と評した。これらは、先に記したように、三成が融通のきかない傲岸不遜、横柄な人物と映る周囲から、三成は秀吉から寵愛されているから権勢をほしいままにする奸臣と映ったためと思われる。ただし、このような同時代の三成に対する評価があるということは、必ずしも徳川側による史書の一方的な編修と決め付けるべきではないと思われる。
- 豊臣秀次事件のとき、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとも言われている。ただし、現在において秀次の謀反説、及び讒言説はほぼ否定されている。秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成であるというのも嘘である。(2006年大河ドラマの功名が辻においては、秀吉と共に秀次排除に積極的に動いた人物とされているようである)。だがしかし、石田三成は豊臣秀吉の意向を受けて働いただけであり、結果として事務処理をせざるをえなかった三成が、秀吉の代わりに憎しみを買ったという事実があったにしろ、それをもって「秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成」と断言できるかどうかについては意見がわかれるところである。(ただ、秀次事件の1週間前まで三成は関東・次いで九州の検地に赴いていた。秀次に関わる殆どの人間が一門を除いて連座を免れている為、周到な根回しが必要だったのではないかとする説もある。これに従えば、三成には「アリバイ」が成立する)。
- 関ヶ原の戦いのとき、東軍諸大名の人質を取ろうとした行為は明らかに心情を逆なでする行為、もしくは戦国期とはいえ卑劣な行為であり、これは三成の評価を低くさせる一因となっている。
- 横柄・傲慢だった性格は関ヶ原の戦いのとき、味方であり無二の親友である大谷吉継からも「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」とまで諫言され(親友だからこそここまではっきりと直言できたものと思われる)、更に三成が立案した作戦を「それは作戦などではなく博打というものだ」と言われたと言われている。しかし三成ははじめのうちしか、この貴重な諫言に従わず、後に横柄さを取り戻したとされている(ただし、吉継は最後まで三成の味方を貫いている。人間的魅力はあったと思われる)
- 関ヶ原は七月一日の宇喜多秀家の独断での出陣式がきっかけであり、三成はそのために準備不足であったことが指摘されている(義兄弟の真田昌幸でさえ、「どうして事前に相談してくれなかった」と三成に文句を言う手紙が現存しているし、佐竹義宣、津軽為信、大谷吉継などその他の三成派も事前の相談を受けていない点が挙げられる)。むろん、事実上の総責任者で中心人物は三成であるが、秀家の独断を家康が御家騒動を仲介したからと言って否定するのは間違いである。なぜならば、当初仲裁していた榊原康政に手を引かせたのは主君の家康であり、他家にお預けの処分を受けた宇喜多左京亮(秀家の従兄弟。のちの坂崎出羽守直盛)ら4人の重臣は結局すべて家康の旗本になっており、家康が宇喜多家の弱体化を図ったことは明白であるからである。また、助命されたから秀家が首謀者の一人であることを否定するのも間違っている。事実、家康を挑発した直江兼続も、三成の盟友で東軍に大損害を与えた真田昌幸でさえ助命されているくらいで、真田信之の助命嘆願を受け入れた以上、合戦から1年以上も経ってから秀家が薩摩にいることを知った家康が島津だけならともかく、秀家の妻豪姫の兄前田利長の助命嘆願を無視できるはずがない。
- 慶長4年(1599年)1月19日に、三成が徳川家康暗殺を計画している旨を、藤堂高虎が家康に注進した。同年3月に暗殺に失敗した…という説もある(重臣の島左近が勝手に計画したともされる)。
- 蒲生氏郷を毒殺したという説は現在、ほとんど否定されているが、その後に蒲生家の騒動(蒲生騒動)を裏で操り、蒲生家の弱体化を図るなどの陰謀を仕組んだという説もある。だが、これも蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、彼のために死んでいることによって否定できる。
- 小説・ドラマ等においては、秀吉の側室・淀と不義の関係にあり、豊臣秀頼は三成の子という話もある(ただし淀殿不行跡の史料的根拠である「萩藩閥閲録」においても、その風聞があったのは秀吉の死後であり、かつ相手も大野治長となっており、淀と三成を結びつける史料は全く無い。また豊臣秀頼誕生時より逆算すると、淀の妊娠時期には石田三成は朝鮮かせいぜい九州名護屋にいたので、どう考えても妊娠させるのは不可能である)。
辞世の句
- 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
関連
参考文献
- 石田多加幸「忠節無比に仕えた股肱の臣 石田三成」『歴史群像シリーズ 豪壮 秀吉軍団』、学習研究社、1992年。
- 中井俊一郎「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション 決戦 関ヶ原』、学習研究社、2000年。
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