小泉又次郎
{{政治家 |各国語表記 = こいずみ またじろう | 画像=Matajiro Koizumi.jpg | 説明= |国旗 = 日本 | 職名=[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]] | 代数=第33 | 内閣=[[濱口内閣]]<br />[[第2次若槻内閣]] | 任期=[[1929年]][[7月2日]]-[[1931年]][[12月13日]] | 他政歴=[[神奈川県]][[議会]][[議員]]<br />神奈川県[[横須賀市]]議会議員<br />[[衆議院]][[副議長]]<br />神奈川県横須賀[[市長]] | 生年=[[慶応]]元年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]([[1865年]][[6月10日]]) | 生地=[[武蔵国]][[久良岐郡]]六浦荘村<br />(現・神奈川県[[横浜市]]) | 没年=[[1951年]][[9月24日]] | 没地=神奈川県横浜市 | 政党=[[憲政会]]→<br />[[民政党]] | 称号=[[正二位]]<br />[[勲一等瑞宝章]] | 母校= | 職業=[[鳶職|とび職人]]<!-- 鳶という漢字が難しく読めない人もいると思うのでひらがなの方が良いと思う 小学生や中学生がぱっとみてすぐに理解できるようなわかりやすさが必要-->、新聞[[記者]]、政治家 | 配偶=小泉ナオ |}} '''小泉 又次郎'''(こいずみ またじろう、[[慶応]]元年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]([[1865年]][[6月10日]]) - [[昭和]]26年([[1951年]])[[9月24日]])は、日本の[[政治家]]。[[正二位]][[勲一等]]。第87-89代[[内閣総理大臣]][[小泉純一郎]]の祖父。日本の公職追放者。戦争犯罪人。 [[横須賀市|横須賀市長]]、[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]、[[衆議院副議長]]などを歴任した。[[ヤクザ]]まがいで、全身に[[入れ墨]]があったことから「いれずみ大臣」の異名をとった。<!-- すでに鍵括弧に入っている語をさらに太字でマークアップする必要はありません --> == 来歴・人物 == [[慶応]]元年(1865年)[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]、[[武蔵国]][[久良岐郡]]六浦荘村大道(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]大道)に[[鳶職|とび職人]]の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、[[鎌倉街道]]に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であったという。父・小泉由兵衛は[[村]]の代々の[[鳶職]]だったが、のちに軍港[[横須賀市|横須賀]]に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の[[手配師|請負師]]になった」とある</ref>。又次郎が[[小学校]]へ入学する頃、一家は[[横須賀市|横須賀]]に移り、[[海軍工廠]]に[[大工]]、[[左官]]、人夫、等を送り込む[[手配師|人入れ業]]を始める<ref>当時の横須賀では[[沖仲仕]]の[[手配師]]として目兼の大親分と[[小泉組 (請負業)|小泉組]]が縄張りを競い合い、[[博徒]]たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという(藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。[[宮崎学]]の著書『[[ヤクザ]]と日本―近代の無頼』54-55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、[[日清戦争]](1894~1895年)から[[日露戦争]](1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負から[[やくざ]]組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、[[博徒]]の目兼組と鳶の[[小泉組 (請負業)|小泉組]]であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の[[小泉組 (請負業)|小泉組]]が制していく。そして、この[[小泉組 (請負業)|小泉組]]を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、[[小泉組 (請負業)|小泉組]]は軍港の[[やくざ]]として一台組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・[[小泉純一郎]]の祖父であった。この[[小泉組 (請負業)|小泉組]]も、[[吉田磯吉]]と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代[[ヤクザ]]のひとつにほかならない。」とある</ref>。14歳で横須賀学校(横須賀小学校の前身)を卒業<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』29頁</ref>。 又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の予備校に入るが、父に連れ戻される。故郷に戻り小学校代用教員となるが、またしても家族に内緒で家を飛び出した。 今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入る。上京中に[[板垣退助]]の演説を聴いて[[普通選挙|普選]]論者になった<ref>又次郎は「ぼくは小学校を出てそこの助教員をやっていたが、陸軍を志願して上京中に[[板垣退助|板垣]]の演説で、[[普通選挙|普選]]論者になっちまったんだ」と述べている(梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』59頁)</ref>。兄が急死したため、父に連れ戻され「なんとしても家業を継げ」と厳命される。その際、こんどこそ軍人を諦め[[鳶職|とび職人]]になることを決意した証に、全身に[[入れ墨]]を彫った<ref>[[入れ墨]]を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「[[水滸伝]]」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる([[佐野眞一]] 著『小泉純一郎――血脈の王朝』140頁)。藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』39-40頁に「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話はつくり話であり、やはり[[テキ屋]]の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」とある。彫り師[[凡天太郎]]は「とくに[[港町]]ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、[[刺青]]を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」と述べている(岩崎大輔 著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』58頁)</ref>。又次郎はあちこちの仕事場をまわり、職人に指図をした。そのうち周囲からは“親分(おやぶん)”と呼ばれた<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』34頁</ref>。 憲法発布の年、明治22年([[1889年]])、[[東京横浜毎日新聞]]の記者になる。30歳のころに[[芸者]]だった綾部ナオと[[結婚]]した。 [[明治]]40年([[1907年]])横須賀市議会議員に当選、後議長をつとめる。[[神奈川県議会]]議員を経て、明治41年([[1908年]])[[第10回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]に立候補して初当選、以来戦後の[[公職追放]]となるまで連続当選12回、通算38年間の代議士生活を過ごす。[[政治家]]として本領を発揮した又次郎は「[[野人]]の又さん」としてその名を轟(とどろ)かせるようになっていく<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』43頁</ref>。<!--[[憲政会]]、[[立憲民政党]]など非政友会系の[[政党]]に所属する。--><!-- 憲政会 = 立憲民政党--> [[護憲運動#第二次憲政擁護運動|第二次護憲運動]]では憲政会幹事長として活躍。大正13年([[1924年]])に衆議院副議長に選出される<ref>又次郎が衆議院副議長に選出された三日後、[[朝日新聞]]は一面に漫画家[[岡本一平]]が描く又次郎のコミカルな漫画を掲載している。[[ゴリラ]]が[[背広]]を着たようなその絵はまさに「[[野人]]」を表現したものだった(梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』55頁)</ref>。 昭和3年([[1928年]])から翌4年と、昭和12年([[1937年]])から翌13年には、立憲民政党幹事長をつとめる。 昭和4年([[1929年]])から[[浜口内閣]]と[[第2次若槻内閣|第二次若槻内閣]]で[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる<ref> [[浜口内閣]]で又次郎自身は、はじめ入閣するとは思っていなかった。又次郎は「[[野人]]に[[名誉]]は要らん。おれは大臣などにはならん。今度の内閣は、よほどうまくやってくれんと困る。だから、おれは[[大久保彦左衛門]]になって、悪いことでもあったら、すぐねじこんでやる。もう年寄りだから、いくら憎まれても、いいからな」などと、記者たちにたんかを切っていたが、その又次郎に大臣のポストが出された。「自分は入閣を辞退する」とまでいいはったが、延々一時間、浜口に誠意をこめて説かれて、折れた。そして、又さんもまた大臣を受けた。頭をかきながら、前言を取り消し、「どうも仕様がなくて、大臣にされてしまった。[[野人]]の歴史をけがして残念だが、山王台のように、どなってばかりもいられねえからな」と述べた(梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』56-57頁)</ref>。 その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての[[親任式]]で参内した際には、守衛に一緒に参内した[[安達謙蔵]]の従者と間違われて押し問答をしている。 <!-- その他、横須賀市長、内閣顧問を歴任する。--><!-- 時系列を要確認 -->昭和17年([[1942年]])に[[翼賛政治会]]代議士会長に就任。昭和19年([[1944年]])から翌20年まで[[小磯内閣]]の[[内閣顧問]]を務めた。昭和20年([[1945年]])には[[貴族院 (日本)|貴族院議員に勅選]]され、翌21年に[[公職追放]]されるまで務めた。 昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった<ref>[[佐野眞一]] 著『小泉純一郎―血脈の王朝』153頁に「又次郎は生誕地近くの陋屋(ろうおく)で[[妾|愛妾]]の寿々英に看取られながら、[[公職追放]]解除となった昭和二十六年(一九五一)年、八十六歳の生涯を閉じた」とある</ref>。[[戒名|法名]]は民政院殿任誉普徳大居士。墓は[[横浜市]][[金沢区]]の宝樹院にある。 == 人物像 == [[日露戦争]]後の[[ポーツマス条約]]に反対して、[[日比谷焼き討ち事件]]では大暴れした<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』57頁</ref>。 又次郎は[[普通選挙]]推進運動の闘士だった。ある支持者が、[[政府]]から“扇動政治家”と批判される又次郎を心配して「又さんよ、[[普通選挙|普選]]運動なんか熱心にやったって、得にはならんよ。あんたの[[選挙]]にも不利になる。」と諭した。黙って耳を傾ける又次郎だったが彼は国会で[[貴族院 (日本)|貴族院]]が公言した「貧乏人に[[選挙権]]を与えるのは国家に反逆するに等しい」という考え方に猛烈に反発心を抱いていた。のちに又次郎はこう述懐している。「特権の牙城(がじょう)から民衆を睥睨(へいげい)していた特権階級を正義、平等の一線まで引き下ろす。それとともに虐げられた下層階級の地位を正義、平等まで引き上げる。両者の均衡と握手の間に幸福なる社会、健全なる国家を建設しようというところに希望の焦点がある」(『普選運動秘史』)<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』49-50頁</ref>。 [[大正]]9年([[1920年]])2月、芝公園のデモを仕掛けた又次郎は[[選挙]]期間中さまざまな妨害にあった。「危険な[[社会主義]]者」「過激[[思想]]の持ち主の扇動政治家」「社会組織を脅威する危険分子」等又次郎を誹謗中傷する宣伝がなされた<ref>梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』53-54頁</ref> [[昭和]]6年([[1931年]])娘の芳江と[[小泉純也|純也]]が[[駆け落ち]]したとき、又次郎は『帰って来い』と、[[新聞]]の尋ね人欄に[[広告]]までだしている<ref>梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』87頁</ref> 家は清貧だった。40円の[[家賃]][[滞納]]で伊皿子の[[借家]]を追い立てられたことがあった<ref>梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』58-59頁</ref> == 略年譜 == *[[慶応]]元年([[1865年]]) :[[5月17日 (旧暦)|5月17日]] - [[武蔵国]][[久良岐郡]]六浦荘村大道(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]大道)に生まれる。 *[[明治]]11年([[1878年]]) : - 横須賀学校(横須賀小学校の前身)を卒業。家出をして上京、海軍士官予備学校に入る。 *[[明治]]12年([[1879年]]) : - 横須賀学校(横須賀小学校の前身)の代用教員になる。 *[[明治]]13年([[1880年]]) : - 再び上京、陸軍士官予備学校に入る。 *[[明治]]20年([[1887年]]) : - [[立憲改進党]]に入党。 *[[明治]]22年([[1889年]]) : - [[東京横浜毎日新聞]]に入社。 *[[明治]]31年([[1898年]]) : - 日刊「公正新聞」創刊。 *[[明治]]36年([[1903年]]) : - [[神奈川県議会]]議員に当選。 *[[明治]]38年([[1905年]]) : - [[日比谷焼き討ち事件]]に参加。 *[[明治]]40年([[1907年]]) : - 横須賀市議会議員に当選。 *[[明治]]41年([[1908年]]) : - [[衆議院議員]]に当選。 *[[大正]]8年([[1919年]]) : - [[普通選挙]]獲得運動を起こし、[[大衆]]運動の[[リーダー]]として先頭に立つ。 *[[大正]]13年([[1924年]]) : - 衆議院副議長に就任。 *[[昭和]]3年([[1928年]]) : - [[立憲民政党]][[幹事長]]に就任。 *[[昭和]]4年([[1929年]]) : - [[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]に就任。 *[[昭和]]9年([[1934年]]) : - [[横須賀市|横須賀市長]]に就任。 *[[昭和]]12年([[1937年]]) : - [[立憲民政党]][[幹事長]]に就任。 *[[昭和]]19年([[1944年]]) : - [[小磯内閣]]の[[顧問]]となる。 *[[昭和]]26年([[1951年]]) :[[9月24日]] - 死去。 == 栄典 == * 昭和26年9月24日:[[勲一等瑞宝章]] == 家族・親族 == [[Image:Koizumi family.jpg|thumb|200px|又次郎と家族 左から<br />・[[小泉純一郎|純一郎]](孫)<br />・'''又次郎'''<br />・正也(孫)<br />・[[小泉純也|純也]](婿)]] ; 実家 * 父 由兵衛([[鳶職|とび職人]]、[[手配師]]) * 母 徳 ** 弟 岩吉<ref>小泉家の苦しい[[家計]]を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった。兄・又次郎同様、背中にみごとな[[入れ墨]]を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な[[お金|金]]を必ず用立てたという([[佐野眞一]] 著『小泉純一郎―血脈の王朝』150頁)。</ref>、金三 ; 自家 * 妻 ナオ(元[[芸者]]) * [[妾]] 石川ハツ<ref>正妻ナオとの間に子がなかったので、石川ハツが芳江([[小泉純一郎]]元首相の母)を産んだ。ハツの末娘・竹田綾子によると、ハツは[[富山県]]の[[滑川市|滑川]]出身で、ハツの兄が[[横須賀市|横須賀]]に出て[[仕出し|仕出し屋]]を開き、鳶の又次郎のところに出入りするようになったのが、ハツが又次郎のところに奉公するきっかけになったという。ハツはその後、又次郎の紹介で[[神輿|みこし]]などを造る[[宮大工]]の山口忠蔵と結婚し、3人の子を産んだ。忠蔵の背中にも[[入れ墨]]があったといい、[[佐野眞一]]は「又次郎と山口はいわば “[[入れ墨]]兄弟” の関係ではなかったか」と想像している([[佐野眞一]] 著『小泉純一郎―血脈の王朝』139-143頁)。</ref>、寿々英(すずえ)など ** [[養子縁組|養子]] コウ(鈴木徳三郎四女) 、ちよ(鈴木亮一姉)など ** 女([[庶子]]) 芳江(母は石川ハツ) ** 婿 [[小泉純也|純也]](芳江の夫) *** 孫 [[小泉純一郎|純一郎]]、正也など == 系譜 == ;小泉家<!-- http://episode.kingendaikeizu.net/27.htm 系図でみる近現代 ※アフィリエイト多用の個人サイトにつきコメントアウト--> <pre> 綾部幸吉━━━━ナオ (旧姓鮫島) ┃ 小泉純也 小泉由兵衛━┳━小泉又次郎 ┣━━━━━━┳━小泉純一郎 ┃ *━━━━━━━芳江 ┗━小泉正也 ┃ 石川ハツ ┃ ┗小泉岩吉 </pre> [[Image:Matajiro Koizumi 2.jpg|thumb|200px|大礼服姿の小泉又次郎<br />(宝樹院所蔵)]] [[画像:Beato, Felice (1834 – 1907) - Tattooed japanese men - ca. 1870.jpg|thumb|入れ墨を施した江戸時代の人、1870年]] == 著書 == * 『普選運動秘史』 == 参考文献 == * [[梅田功]] 『変革者 小泉家の3人の男たち』 2001年 [[角川書店]] * 『小泉純一郎―血脈の王朝』139-146頁([[佐野眞一]] 著、文藝春秋、2004年) * 『小泉純一郎と日本の病理』29-34、39-43頁(藤原肇 著、光文社、2005年) * 『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』179-185頁(岩崎大輔 著、洋泉社、2006年) * 『[[ヤクザ]]と日本―近代の無頼』([[宮崎学]] 著、筑摩書房、2008年) == 関連項目 == * [[小泉組 (請負業)|小泉組]] * [[小泉純]] * [[普通選挙]] == 注釈 == {{reflist|2}} == 外部リンク == * [http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%8F%88%E6%AC%A1%E9%83%8E 小泉又次郎 とは - コトバンク] * [http://www.town.agui.lg.jp/kouhou-H17/060101/topic_003.htm その昔、首相の祖父と親交あり(『阿久比町広報Web版 1月1日号』)] {{先代次代|[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]|1929 - 1931|[[久原房之助]]|[[三土忠造]]}} {{DEFAULTSORT:こいすみ またしろう}} [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] [[Category:貴族院勅選議員]] [[Category:神奈川県の政治家]] [[Category:神奈川県の市町村長]] [[Category:1865年生]] [[Category:1951年没]]