マイヤ・プリセツカヤ

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マイヤ・ミハイロフナ・プリセツカヤ: Майя Михайловна Плисецкая、1925年11月20日生まれ)はロシアバレエダンサー。しばしば現代最高のバレリーナと呼ばれる。

生い立ち

モスクワの芸術家を多く輩出する有名なユダヤ人一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、スピッツベルゲン島の学校へ通う。1938年、父親はスターリンの粛正により処刑され、サイレント映画女優だった母親はカザフスタンへ強制送致され、母方のおばにあたるバレリーナスラミフィ・メッセレルの養子となった。

1934年、一家は休暇のためモスクワに帰りその期間中に、帝室バレエ学校のエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入する。バレエを始めて1年目で「軍縮会議」という演目の中国人役で舞台に舞台に立つ。その後再びモスクワに戻り、教師は変わりバレリーナであったエリザヴェータ・ゲルトのもとで6年間学ぶ。1943年にバレエ学校を卒業し、ボリショイ・バレエに入団した。

活動歴

バレエ学校卒業後、ボリショイバレエ団にコール・ド・バレエ(群舞を担当するダンサー集団)として入団。ボリショイ劇場以外での公演に積極的に出演し経験を積む。入団1年目を終えるころに、欠員のため「くるみ割り人形」のマーシャ役に抜擢された。

アンナ・パヴロワの代表作「瀕死の白鳥」を演じ、当たり役とする。また最大の当たり役は、「白鳥の湖」のオデット/オディール(1947年)、「眠れる森の美女」のオーロラ姫(1961年)である。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性すべてにおいて高く評価されたが、劇場上層部の彼女への待遇はあまりよいものではなかった。反ユダヤ主義的風潮のなかで1956年の国外公演には同行が許されなかった。1958年、作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚、翌年にはソ連人民芸術家として表彰される。1959年に彼女が西側世界に初めて登場すると、バレエ界は大きな衝撃を受けた。

1960年、ガリーナ・ウラノワが引退すると、ボリショイ劇場のプリマ・バレリーナ(首席バレリーナ)に任命される。1967年ソヴィエトで制作された『アンナ・カレーニナ』の映画版では、トヴェルスコイ公爵夫人(ヴェッツィ)を演じ、1971年には、シチェドリンの作曲、自身の振り付けによるバレエ版「アンナ・カレーニナ」を発表し、主役アンナを演じた。他にユーリー・グリゴローヴィチローラン・プティアルベルト・アロンソモーリス・ベジャールなどの著名な振り付け師が彼女のために作品を振り付けている。

1980年代には、シチェドリンとともに海外で過ごすことが多くなり、ローマ・オペラ・バレエや、マドリッドのスペイン国立バレエの芸術監督を務める。65歳で、ついにボリショイ劇場のソリストから引退したが、その後も芸術活動を続けている。70歳の誕生日には、ベジャールの振り付けによる「アヴェ・マイヤ」を初演。

1994年からは自身の名を冠したマイヤ・プリセツカヤ国際バレエコンクールの審査員長を務めている。

2003年、宝塚歌劇星組公演「王家に捧ぐ歌」の振付を担当し話題になった。

2006年、第18回高松宮殿下記念世界文化賞の演劇・映像部門を受賞した。

DVD・書籍

  • 「闘う白鳥」(自伝)
  • 「アンナ・カレーニナ」(1967年モスフィルム製作 - DVD出版元 RUSCICO(ロシア映画評議会))

外部リンク

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