宇野宗佑
宇野 宗佑 (うの そうすけ)
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在任期間 | 1989年6月3日 - 1989年8月10日 |
生没年月日 | 1922年(大正11年)8月27日 |
出生地 | 滋賀県野洲郡守山町(現守山市) |
出身校 | 神戸商業大学(現神戸大学)(中退) |
学位・資格 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
前職 | 衆議院議員 外務大臣 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選挙区 | 滋賀県全県区(現在は廃止) |
当選回数 | 衆12回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年(大正11年)8月27日 - 1998年(平成10年)5月19日)は、日本の政治家、第75代内閣総理大臣。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
目次
人物
旧制神戸商業大学(現神戸大学)在学中に学徒出陣、シベリア抑留を経験する。帰国後滋賀県議会議員、河野一郎の議員秘書を勤め、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区に出馬し初当選。防衛庁長官、科学技術庁長官、行政管理庁長官、通商産業大臣、外務大臣などを歴任した。
1989年に竹下登の後継者として内閣総理大臣に就任した。今上天皇によって任命された最初の内閣総理大臣となった。
しかし、内閣総理大臣就任直後に女性スキャンダルが発覚して世間の指弾を受け、第15回参議院議員通常選挙で惨敗した後に退陣した。
2009年現在、歴代で唯一の滋賀県出身の内閣総理大臣である。
青少年期
生い立ち
1922年8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に、宇野長司と民子の長男として生まれる。家は造り酒屋「酒長(あらちょう)」で、前任の竹下に似ている。明治以後の政治史では、地方名望家と呼ばれる階層が重要な役割を演じ、中でも酒造を家業とした者が多い(佐藤栄作、池田勇人、金丸信、井出一太郎ら)。総理就任時は実家製造の酒は縁起物として持て囃されたこともあるが、スキャンダルと共に直ぐにブームは去った。
宇野の生家は、地元の町年寄を務め、祖父・生蔵は守山町長を2期勤めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父・宇野豊蔵は、教科書出版社・実教出版の元名誉会長だった。
学歴
1929年に吉身尋常小学校に入学。宇野はこのころから成績がよかった。絵もうまく少年倶楽部に漫画を送ってよく当選し、このころから乗馬も覚えた。
1935年に滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)に入学した。中等学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めるようになった [1]。1940年に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。
宇野は外交官を目指して、1943年10月に旧制神戸商業大学(現神戸大学)に進学した。しかし2か月後に学徒出陣、戦後のシベリア抑留を経て、復学せずそのまま中退した。このため、戦後の首相では田中角栄と並んで、二人だけの「非大卒」の首相経験者ということになる(村山富市の旧制明治大学専門部卒と同様に旧制専門学校卒を新制大学学部卒相当とすれば、宇野を大卒ともみなせる。また、鈴木善幸は卒業校である農林省水産講習所がのちの東京水産大学、現在の東京海洋大学であるため、大卒ともみなせる)。
シベリア抑留
1943年2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。宇野は主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。
1945年、日本敗戦後、8月23日にソ連軍に武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。宇野は2年間ソ連に抑留された。
1947年7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。1948年11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語で「東京に帰る」の意味)を出版した。この本は1952年に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ。
1949年2月22日に裏千家13世円能斎の姪・広瀬弘子と結婚する。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を、北野天満宮に祈願していたことからだった。
初期の政治活動
地方での活動
1947年に守山市(当時:野洲郡守山町)の商工会が初めて行った会長選挙で商工会長に当選し、芝居などの企画を手がけた。
1951年4月に、滋賀県議会議員(野洲郡選挙区)で初当選した。最年少で守山町から二番目(最初は祖父・正蔵)の当選だった。宇野は最初に自由党に入党したが、民主党の森幸太郎が知事になると民主党に入った。1955年にトップ当選で二期当選し、5月21日に県議会副議長に就任した。1956年3月24日に県会選出の教育委員となった。
1958年の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党の候補として初出馬するが落選。宇野は河野派(春秋会)に入る約束をしており、河野一郎が選挙の応援に訪れていた。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の議員秘書となった。
1960年の衆院選挙で再び出馬した。河野派は宇野を自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず、無所属で立候補した。宇野は社会党の西村関一についで二番目の得票で当選した。当選後、11月25日に自民党に入党した。
初期の議員活動
1961年に自由民主党青年局部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の竹下登とともにインド・パキスタンや東南アジアを歴訪して青年海外協力隊発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、青年の家を創設した。
1966年8月1日に第1次佐藤内閣第2次改造内閣・第3次改造内閣で三木武夫通商産業大臣の下で通産政務次官に就任した。1967年の選挙では初のトップ当選を果たした。
1968年に河野派を引き継いでいた森清が死ぬと、森派から中曽根派に合流し、若手議員らと佐藤栄作首相の再選に抵抗した。
閣僚として
1974年11月に第2次田中角榮内閣第2次改造内閣で、防衛庁長官として初入閣した。宇野は防衛庁長官として、第十雄洋丸事件では海難事故で炎上した石油タンカーを撃沈する指令を出した。この内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した。
1974年12月に田中に代わり、三木武夫が自由民主党総裁に就任すると、自民党国対委員長に就任した。まもなくロッキード事件が発覚、追求され、国対委員長の仕事は非常に多忙であった。
1976年に福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任した。宇野は科学技術庁長官として、日米原子力交渉を担当、核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使ジェラルド・スミスらと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミス大使は宇野を「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した。
1979年に第2次大平内閣で行政管理庁長官に就任した。行政管理庁長官として特殊法人1割削減を計画。その計画において、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否をする徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した。行政管理庁長官時代の宇野には、「ふんぞり返っていた」との批判もあるが、任命者である大平は後に宇野の手腕を讃えている。
1982年の自由民主党総裁選で、出馬した中曽根康弘の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、自民党幹事長代理に就任した。1983年1月の中曽根の訪韓に同伴。6月に山中貞則が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。
宇野内閣
首相になった経緯
リクルート事件の関与と消費税導入により、支持率が急落した竹下登首相が1989年(平成元年)4月25日に辞意を表明した。しかし、軒並み同事件に関わっていた安倍晋太郎、宮沢喜一、渡辺美智雄らの自民党有力者は身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、伊東正義や坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継選びは難航する。
その結果、主要閣僚中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近かったこともあり外相であった宇野が急遽後継総裁に擁立される事になった。6月2日、宇野外相は自民党両院議員総会で全会一致に出来ずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてである(鈴木善幸は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている)。
内閣発足と女性スキャンダル
同年6月3日、宇野内閣が発足。党三役の経験も無く知名度が低かった宇野だけに、就任当初はメディアで宇野について紹介する特集が組まれたこともあった。閣内にはリクルート事件と関係の薄い人物を優先的に登用し、クリーンな内閣というイメージを作ろうと奔走する。
しかし、この急造内閣も、宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなる。宇野が首相に就任した3日後に、サンデー毎日(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発を掲載。神楽坂の芸妓の中でも凄い美貌の持ち主だった告発者に、宇野が「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と言って自分の指を三本出した(30万という意味)。告発者は当然300万円だと思ったが、宇野は30万円のつもりだった。
これに憤慨した告発者は、マスコミにこの事実をリークしたという。スキャンダルそのものの内容や、告発者の告発内容に対する検証がなされず、ただ批判だけが先行する状態であったが、女性票が離れるとして候補者から応援演説の要請がほとんどなかった。また当事者である宇野がこの問題についてノーコメントを通したことも、世論特に女性層の批判を強めた。初めは国内の他のマスコミは無視したが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントンポスト紙)等と掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。
また同年6月28日には宇野が進退について言及したとの憶測が飛びメディアに辞意表明と報道される。大下英治によると、この騒動の原因は、当時自民党国会対策副委員長を務めていた糸山英太郎が、記者懇談で愛嬌のつもりで言ったオフレコ発言が一人歩きした結果だという。また急造内閣だったため、総理と執行部の連携がうまくいかなかったことも原因として挙げられる。
選挙惨敗と退陣
同年7月の第15回参議院議員通常選挙は、いわゆる3点セット(リクルート問題、消費税問題、宇野首相の女性問題)が争点となり、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席、特に一人区では3勝23敗と惨敗した。参議院では結党以来初めての過半数割れとなる(これ以降2008年8月現在まで自民党は参院選後の単独過半数を確保できていない)。
翌日、宇野は敗北の責任をとり退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が有名になった。当初はここまで敗北したからには宇野一人の責任にできないと言う意見も党内にはあったが、結局同年8月8日には自民党両院議員総会で海部俊樹が新総裁に選出された。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった(当時は3番目の短命内閣)。
退陣後
その後自民党最高顧問に就任したが、1996年の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退。また、1995年11月に森口華弘と共に初の守山市名誉市民に表彰された。
1998年2月から体調不良となって通院を繰り返し、5月18日に滋賀県立成人病センターに入院。翌5月19日午前11時4分に死去、(1998-1922)+((5-8)*100+(19-27)>=0)-1歳没。死因は肺癌だったが、怖がりの本人には知らされなかった。「今何時だ」が最後の言葉だった。
2002年11月30日に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では、女婿の宇野治が自民党公認で初当選した。
エピソード
自民党派閥では河野派に属し、河野死去後、派閥が分裂した際は森派へと参加した。しかし、間もなく派閥会長の森清が亡くなり園田直が派閥を継ぐと、「森との縁で派閥に参加したが、園田とはこれといった接点がないから」と、中曽根派へと移籍した。その中曽根派では幹部に上り詰めたが、派内では子分もおらず、一匹狼であった。多くの子分を抱え、先輩議員からも受けの良い一期下の渡辺美智雄にライバル心を燃やし、渡辺が入閣すると機嫌が悪くなったという。
政策通で俳句を嗜み、俳号は犂子(れいし)。小説や歴史書を書き、ピアノやハーモニカもたしなむ才人としても知られた。美術品の鑑賞を好み、骨董品や民芸品などを収集していた。総理就任時にはピアノ演奏も披露し、堅物でない宇野の趣味の広さや遊びごころが好意的に報道された。結果的にはこの面で足をすくわれたことになる。
渡部昇一は著書「ローマ人の知恵」で、「皇帝になるまでは誰もが皇帝にふさわしい大物だと思っていた」ローマ皇帝ガルバになぞらえて「宇野宗佑氏も首相になりさえしなければ深い教養をもった政治家として尊敬されて終われたであろう」と述べている。
1988年3月26日における参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦の北朝鮮による日本人拉致問題に関する質問が出て梶山静六国家公安委員長が北朝鮮による拉致が濃厚であると答弁した時、宇野は外務大臣として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。
外務大臣在任中の外遊先で昭和天皇崩御の報に接し、テレビカメラの前で涙を見せた。
妻子を含む閣僚の資産公開は宇野内閣から。
没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、宇野が国内の視察先や外遊先などで購入・収集した美術品や民芸品などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖。土地・建物は売却された。
略歴
- 1922年(大正11年)8月27日 - 滋賀県野洲郡守山町(現在の守山市)に生まれる。
- 1943年(昭和18年) - 神戸商業大学(現神戸大学)在学中に学徒出陣となり、2年間シベリア抑留になる。帰国後、滋賀県議会議員、河野一郎秘書
- 1960年(昭和35年) - 衆議院議員(自民党・河野派)
- 1961年(昭和36年) - 自民党青年局部長(局長・竹下登) 東南アジアを歴訪。青年海外協力隊発足に尽力する。
- 1974年(昭和49年)11月11日〜12月9日 - 防衛庁長官(第2次田中角栄内閣)
- 1976年(昭和51年)12月24日〜1977年(昭和52年)11月28日 - 科学技術庁長官・原子力委員会委員長(福田赳夫内閣)
- 1979年(昭和54年)11月9日〜1980年(昭和55年)7月17日 - 行政管理庁長官(第2次大平正芳内閣)
- 1983年(昭和58年)6月10日〜1983年(昭和58年)12月27日 - 通商産業大臣(第1次中曽根康弘内閣)
- 1987年(昭和62年)11月6日〜1989年(平成元年)6月3日 - 外務大臣(竹下登内閣)
- 1989年(平成元年)6月2日〜8月8日 - 第13代自民党総裁
- 1989年(平成元年)6月3日〜8月10日 - 第75代内閣総理大臣
- 6月 - 女性スキャンダル発覚
- 7月14日〜16日 - アルシュ・サミットに出席
- 7月24日 - 参議院選で惨敗(33議席減)し引責辞任を表明。表明時、心境を「明鏡止水」と表現した。
- 1994年(平成6年)4月 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。
- 1996年(平成8年)6月 - 政界引退を表明。
- 1998年(平成10年)5月19日 - 肺癌のため75歳で死去。
著作
- 「ダモイ・トウキョウ」(国書刊行会)
- 「庄屋平兵衛獄門記」(青蛙房)
- 「中仙道守山宿」(青蛙房)
脚注
- ↑ 『宇野宗佑・全人像』62-65頁
参考文献
- 柚木弘志、沼田大介『宇野宗佑・全人像』(行研、1988年) ISBN 4905786673
関連項目
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第75代:1989年
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次代: |
先代: | 外務大臣 第15代:1987年 - 1989年
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次代: |
先代: | 通商産業大臣 第44代:1983年
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次代: |
先代: | 行政管理庁長官 第44代:1979年 - 1980年
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次代: |
先代: | 科学技術庁長官 第31代:1976年 - 1977年
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次代: |
先代: | 防衛庁長官 第32代:1974年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第13代 : 1989年
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次代: |
先代: | 自由民主党国会対策委員長 第20代 : 1974年 - 1976年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第74代 竹下登 |
第75代 1989年 |
第76・77代 海部俊樹 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |