脱構築
脱構築(だつこうちく、独: Abbau(アプバウ)、仏:déconstruction(デコンストリュクシオン)、英:deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション))は、静止的な構造を前提とし、それを想起的に発見しうる、というプラトン以来の哲学の伝統的ドグマに対して、我々自身の哲学の営みそのものが、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成している、とする、20世紀哲学の全体に及ぶ大きな潮流。19世紀まで、論理整合性を重視する英米哲学と、主観性や社会性を問題にする独仏哲学は、独立の議論を重ねてきたが、この問題に至り、活発に相互参照と議論交流が起こる。しかしながら、脱構築という思想においては、脱構築という思想そのものもまた、つねに脱構築され、つねに新たな意味を獲得していく、ということを意味しており、それぞれの哲学者によって、また、その発言の機会によって、主張の主眼が異なる。だが、この不定形さを受容することそのものが、脱構築である。
デリダによる脱構築
あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす、別のパラドキシカルな内容が、中に含まれているとする。
マルティン・ハイデガーの『存在と時間』において西洋の形而上学伝統が論じられる際にあらわれる「Destruktion」の仏語訳として採用されたもの。デリダは、直訳の「解体 Destruction」がもつ破壊的で否定的な意味合いを避け、「脱構築 Déconstruction」(dé-「分離、除去」/construction「構築、建設」)を造語したのである。その意味で、彼の脱構築はハイデガーの試みを継承するものと言える。
脱構築は、言葉の内側から階層的な二項対立を崩していく手法である、といえる。デリダは、プラトン以降の哲学が、ロゴス中心主義に陥っているとし、また、エクリチュール(書き言葉、デリダにおいては二項対立で劣位に位置する概念全てに当てはまる)に対するパロール(話し言葉、エクリチュールとは逆に二項対立の優位に位置する概念)の優越を批判した。とはいえ、この批判は、エクリチュールのパロールに対する優越を意味するのではない。それでは単なる階層的な二項対立の優劣逆転に過ぎない。
デリダは、プラトンの対話篇の一つ『パイドロス』をモティーフに、古代ギリシア語の「パルマコン」という言葉を使って、脱構築を試みている。『パイドロス』では、ソクラテスがエクリチュールを批判し、パロールの優越を掲げているが、その中で登場する言葉が「パルマコン」である。「パルマコン」は「毒」を意味すると同時に「薬」をも意味する点で、決定不可能性をもつ。エクリチュールは文字であるから、人の記憶を保つとともに、記憶しようという意志を奪い取る。ここに、エクリチュールのもつ「薬」でありかつ「毒」のパルマコン的意味合いがある。パロールはエクリチュールに先立って優越するといわれるが、その劣位のエクリチュールが逆にパロールを侵食している事態をデリダは暴き出す。パロール/エクリチュールという階層的二項対立は、原-エクリチュールに先立たれ、それがこの二項対立をむしろ生み出しているのである(しかしこの生み出すものは「根源」ではない)。
ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって崩される。脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者へのまなざしを呼び起こし、更なる哲学の活性化を目指そうとした。従ってデリダの真意は形而上学の転覆にあるのではなく、むしろ真の意味での形而上学の新たな可能性を開くところにあると見るべきである。
脱構築は、哲学のみならず、人文系・社会系の学問でも広く応用され、有力な批評理論の一つともなっている。
広義の意味
以下の内容は著者独自の見解で根拠がないのではないかと言っていた人がいたようです。 |
脱構築という概念は、いうまでもなくポストモダンと強く結びついている。この場合、前述のように、デリダが提唱する形而上学においての脱構築、あるいはその影響を受けアメリカで発展した文学批評理論に留まらず、あらゆる分野に広く用いられており、もはや一般化された感がある。その場合、次のいずれか、あるいは両方の意味に当てはまるといえるだろう。
- ある対象を解体し、それらのうち有用な要素を用いて、新たな、別の何かを建設的に再構築すること。フランス語のdéconstructionには、たんに「解体」という意味が付されており、しばしばその場合のみに使用されることもある。だが「脱構築」というときには、積極的に意義を見出すために行われる作業とみなされる。
- ある対象に隠された、矛盾する(あるいは倒錯している)、無意識下の形而上学を暴き出すための手法。この場合、脱構築された対象は、我々が一般的に認識している観念・概念を揺るがし、覆すものとして現れる。
下記の関連項目の「建築における脱構築主義」に即して一例を述べてみよう。我々が一般的に「建築」として認識している対象は、「人が合理的に住みよい場所」という既成概念に、気付かずに縛られている。この合理性とは、まさにモダニズムの産物であると考えられる。よって、脱構築された建築物は、そのような思い込みが、一つの構築された観念に基づいたものにすぎないことを、一種の違和感を我々に与えつつ暴露する。このとき、いわば、機能性・整合性という合理主義が解体されながら、同時に行き詰まったモダニズムの閉塞感を打破するために、新しい(あるいは極度にボストモダン的な)美学に基いた観念が具体的に形として提示される(あるいは再構築される)のである。
このように、広義の意味での脱構築は、ありとあらゆる対象に向けて行われる、固定化された既成の観念への相対化を促す作業であると同時に、それを乗り越えようとする、新たなるものへの可能性の提示なのだ。
関連項目
文献
- 斎藤慶典『デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか』日本放送出版協会、2006年。 ISBN 4140093358
- 高橋哲哉『デリダ―脱構築』講談社、2003年。
- ジャック=デリダ、サイモン=クリッチリー他『脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義』法政大学出版局、2002年。
- ポール=パットン、テリー=スミス、ジャック=デリダ『デリダ、脱構築を語る―シドニー・セミナーの記録』岩波書店、2005年。 ISBN 4000240161
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