川上賢三
川上 賢三(かわかみ けんぞう、1864年9月18日 - 1933年6月)は、日本・旧満洲の政商的起業家・特殊工作員。1883年に18歳でウラジオストクへ渡り、ロシア語を学んでロシア領の沿海州の各地で建築請負業などに従事。1904年の日露戦争開戦にあたって、ロシア海軍の東洋艦隊の旅順出航の情報を日本に伝えた。戦後は大連に住み、ロシアから接収した満鉄の付属地だった土地を管理し、植民地主義的農場を開設する業務にあたっていたとみられ、自身も復県の関子で農場を経営。商工業者向けの相互金融業を営み、1917年に創立した「満洲貯金信託株式会社」の社長を務めた。1915年に市制施行された大連市の市会議員に選出。1910年代末の好況期に東洋石材・満洲機械工業など複数企業の経営に関与したが、1920年の戦後恐慌の後、諸会社を整理。1927年の昭和金融恐慌の後の時期は、皇道同志会の活動に没頭するようになったといい、また時期不定で東京心霊科学協会の満洲支部長を務めるなどした。晩年は日本に帰国し、郷里で療養生活を送った。
目次
経歴
生い立ち
元治元年(1864)8月18日、肥前唐津の生まれ[1][2][3][4]。原籍は長崎県長崎市[5]。唐津神社の宮司の三男だった[6][7]。
大陸渡航
1883年(明治16)11月、18歳のとき、唐津中学を卒業し[8]、ウラジオストクへ渡航[1][3][9][10]。
1898年(明治31)まで、ロシア領の沿海州の各地で建築請負業などに従事[2][3][9]。
日露戦争
1898年(明治31)9月から、ロシア統治下の旅順口で土木建築請負業を営む[1][2][3][9]。
1904(明治37)の日露戦争開戦にあたっては、開戦間際まで旅順にあって、商用電報で芝罘に駐在していた外務省の水野領事、陸軍の特務機関の森田少佐や海軍の特務機関の山下少佐と密に連絡を取り、「何んな秘密な情報でも暗合電報で通信して」いた[12]。
- 特に同年2月1日付で水野領事あてに発した最後の電報は、旅順に入港してマストを下ろして多量の石炭を積み込んでいたロシアの東洋艦隊が「行先不明」で出動したことを伝える内容で、川上自身の評価によれば、電報が戦機を早める結果になったという。このとき川上は、自宅へ遊びに来ていたロシア海軍の軍人らから、艦隊は鎮海湾に行って馬山を占領しようとしているとの情報を得ていたが、「余りに重大で確証がない」ため「行先不明」として情報を発信した。[12]
- 既に2月7日には仁川で海戦が行われていたが、旅順や芝罘の居留民には情報が伝わっておらず、2月8日に芝罘から水野領事が汽船を借り切ってやって来て旅順の居留民を引揚げさせた後、なおも旅順に止まっていた川上は、同日夜の砲声で開戦を察知した[13]。
- 旅順に残って居た居留民は翌9日に退去を命じられたが、引揚げ船が出港せず、結局川上が旅順を離れたのは同月14日だった[13]。
その後の日露戦争中の川上の事蹟について、東方拓殖協会 (1926 40)や伊藤 (1916 104-105)は、大連へ移住しそのまま戦後も大連に留まった、とし、竹中 (2012 437)は、戦争開始後に大連に移って不動産業と農園経営を始めた、としているが、川上 (1928 86-87)によると、川上は開戦後に芝罘へ引揚げている。
戦後、勲6等の叙勲を受けて一時金を下賜された[9]。
- 松本 (1927 130)や伊藤 (1916 104-105)は、叙勲の理由を、ロシア語やロシア事情に通じていたことから、満洲軍に属して大連で特別任務に服したため、としている。
- 後年、川上の長女・初枝は、その子供たち(川上の孫)に、川上はロシア海軍の依頼を受けてウラジオストクの同軍基地や旅順港の建設にあたっていたため、日露戦争が勃発するとロシア海軍に軟禁されたが、中国人の漁師を抱き込んで漁船で旅順を脱出し、青島の日本領事館に逃げ込んだ。川上が旅順軍港の見取図を渡し、東郷元帥にバルチック艦隊の出動を打電したことが、日露戦争で日本が勝利する一因になった、と話して聞かせていたという[6]。
- 川上 (1928 87)によると、ロシア軍の軍人は開戦後に至るまで旅順の日本人居留民の活動を厳しく制限したりせず、情報の管理も緩かったといい、旅順からの脱出の経緯もそれほど冒険的ではなかったようであるが、ロシア海軍の動静に関する重要な情報を打電した話や、青島ならぬ芝罘へ引揚げた話などが、上記の川上家の昔話に伝えられていたようである。
大連市建設
日露戦争後は大連に住み[2][3][9]、ロシア人の私有財産の管理やその他の事業に従事[9][14]。実業界の有力者と目されるようになった[9]。
- 大連市 (2004 127-128)によると、日露戦争の後、ロシアから接収した、満鉄の付属地だった多くの土地を管理し、植民地主義的な農場(プランテーション)を開設する業務にあたっていたといい、自身も復県の関子で果樹園を主とする農場を経営した。
1909年(明治42)10月から1年間、大連実業会(のちの商業会議所[2])の会長をつとめる[9]。
1911年(明治44)10月、同会幹事。1915年(大正4)7月の解散まで、同会の事業を鞅掌し、解散時には同会から功績を表彰され銀盃一組を贈られた。[9]
1915年10月、大連市市制施行後の市議会議員に選任された[1][9]。
- 川上は、市制施行に先立つ、自治組織の設置を求める住民運動に対して、租借地では住民自治よりも官庁主導の政治の方が適切だと主張していた[15]。
同年4月、1913年(大正2)6月に創立された合資会社・共立貯金会社(資本金:5万円、本店:福岡市)の大連支店の業務を継承して管理・運営にあたり、会員を募集して積立を行う一方で貸付を行う、商工業者向けの相互金融を営んだ[9]。
大連支店の事業の拡大と会員数の増加に伴い、1916年(大正5)までに「満洲貯金合資会社」が共立貯金会社の営業を継承。川上は業務担当社員として同社を経営した。[9]
1917年(大正6)11月、「満洲貯金信託株式会社」を創立し、社長に就任[2][16]。
1910年代末の好況期には、満州貯金信託(株)・東洋石材(株)・満州澱粉(株)・満州機械工業(株)の社長、大連米穀(株)・大連木材(株)・満州産業(株)・満州麦酒(株)・満州燐寸(株)の取締役に就任していた[17]。
恐慌期
1921年(大正10)頃から諸会社を整理[17]。同年、大連市会議員を離任した[1]。
1923年(大正12)、長女・初枝の婿として渡満した若林不比等に農場の経営を引き継ぐ[18]。
東方拓殖協会 (1926 40)によると、1926年当時(?)、満洲貯金信託のほかにも多数の関連会社を経営[3]。また日露協会の幹事を務めていた[3]。
松本 (1927 130)は、好況期には大連米穀(株)や大連木材(株)など各事業に関連したと紹介しつつも、当時の職業を「果樹園経営」と紹介しており、皇道同志会の活動を「畢生の大業と心得て宣伝に没頭して居」た、としている。柳沢 (1999 53)は、1927年頃の役職は満洲澱粉(株)社長と農園経営のみ、としている。
1928年(昭和3)に結成された南満洲農業金融機関設置期成同盟会の会長となり、満鉄や関東庁から援助を受けて農業者向けの金融機関を設立する予定だったが、張作霖爆殺事件によって計画が頓挫した[19]。
晩年
(時期不定で)浅野和三郎が主催した心霊研究団体・東京心霊科学協会の満洲支部長をしていた[20]。
晩年は日本に帰国し、郷里で療養生活を送った[1]。
1933年(昭和8)6月頃に急死。同月22日に東京の成城学園で葬儀が行われた。[21]
住所地
1927年当時、大連市越後町28[2]。
家族
著作物
- 川上 (1915) 川上賢三「寧ろ之れ贅疣」『大陸』v.26[23]
- ― (1927) ――「発刊の辞」農業の満洲社『農業の満洲』v.1 n.1、1927年4月、NDLJP 1520233/15
- ― (1928) ――ほか(述)「満州昔話の会記事(第1回)露治時代から佐渡丸遭難まで」満蒙社『満蒙』v.9 n.12、1928年10月、pp.82-96、NDLJP 3564684/50
評価
- 柳沢 (1999 48-50)は、川上を1920年代の大連の日本人商工業者の中で、1920年の戦後恐慌の後、1930年までの間に閉店・休業に至ったタイプの実業家に分類し、その中でも、1910年代末の企業ブーム期に本業以外の複数の企業の設立に関与し、その会社役員や株主に就任したものの、1920年代前半に休業・閉鎖・解散に追い込まれたり、事業縮小・資本金減資を余儀なくされた「好況期多企業投資型」実業家に分類している。特に川上は「政商的起業家」型大連商業会議所常議員の典型的事例の1人と位置付けられている。
付録
関連文献
- 柳沢 (1992) 柳沢遊「大連商業会議所常議員の構成と活動 - 1910~1920年代大連財界変遷史」大石嘉一郎(編)『戦間期日本の対外経済関係』日本経済評論社、1992年、ISBN 4818806153、pp.309-339
- 『昭和4年度満洲会社年鑑』満州商業新報社、1929年[17]
- 『在満二十年記念誌』遼東新報社、1927年[17]
- 松坂甫『満洲商工事情並紳士録』1927年[17]
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 竹中 2012 437
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 松本 1927 130
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 東方拓殖協会 1926 40
- ↑ 伊藤 1916 104-105は、長崎県生まれ、としている。
- ↑ 東方拓殖協会 (1926 40)は「長崎県高野平107」、松本 (1927 130)は「長崎県長崎市高手町127」と記しているが、「長崎市高平町」で旧地名が「高野平村」のようである(国立国会図書館サーチ > こうやびらむら【高野平村】長崎県:長崎市 (日本歴史地名大系))。
- ↑ 6.0 6.1 富永 1986 334-335
- ↑ 松本 1927 130は、「親父が神官であつた」としている。
- ↑ 小峰 2010 132
- ↑ 9.00 9.01 9.02 9.03 9.04 9.05 9.06 9.07 9.08 9.09 9.10 9.11 9.12 伊藤 1916 104-105
- ↑ 富永 1986 334-335では、年不詳で16歳のときにウラジオストクに渡った、としている。
- ↑ 満洲日報社 1929 補11
- ↑ 12.0 12.1 川上 1928 84-85
- ↑ 13.0 13.1 川上 1928 85-86
- ↑ 松本 1927 130は、「土地家屋の経営に携」った、としている。
- ↑ 塚瀬 2004 83-84 - 川上 (1915 )による。
- ↑ 東方拓殖協会 1926 40は、「社長に推選せらる」としている。
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 柳沢 1999 53
- ↑ 大連市 2004 127-128
- ↑ 「満洲農業金融機関 設置期成同盟会を組織」『満洲日日新聞』1930年12月2日、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 農業金融及其機関(2-122)
- ↑ 小田 1985 89
- ↑ 妹尾 1974d 165
- ↑ 妹尾 1974b 219
- ↑ 塚瀬 2004 218
参考文献
- 竹中 (2012) 竹中憲一(編著)『人名事典「満州」に渡った一万人』皓星社、2012年、ISBN 978-4-7744-0459-2
- 小峰 (2010) 小峰和夫『満洲紳士録の研究』吉川弘文館、2010年、ISBN 978-4-642-03795-2
- 大連市 (2004) 大連市史辨公室『大連市志・公安志』方志出版社、2004年、ISBN 7801921321
- 塚瀬 (2004) 塚瀬進『満洲の日本人』吉川弘文館、2004年、ISBN 4642079335
- 柳沢 (1999) 柳沢遊「在「満洲」日本人商工業者の衰退過程 - 1921年大連商業会議所会員分析」慶應義塾経済学会『三田学会雑誌』v.92, n.1, 1999年4月、pp.47-80
- 富永 (1986) 富永孝子『大連・空白の六百日』新評論、1986年、JPNO 86050293
- 小田 (1985) 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291
- 妹尾 (1974b) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138
- 妹尾 (1974d) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第4巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
- 満洲日報社 (1929) 満洲日報社臨時紳士録編纂部(編)『満蒙日本人紳士録』満洲日報社、1929年 - 内容は松本(1927)とほぼ同じ。
- 影印版:芳賀登ほか(編)『日本人物情報大系 第12巻』皓星社、1999年、ISBN 4774402699
- 松本 (1927) 松本万蔵(編)『満洲紳士縉商録』日清興信所、1927年
- 影印版:芳賀登ほか(編)『日本人物情報大系 第12巻』皓星社、1999年、ISBN 4774402699
- 東方拓殖協会 (1926) 東方拓殖協会『支那在留邦人興信録』1926年
- 影印版:芳賀登ほか(編)『日本人物情報大系 第11巻』皓星社、1999年、ISBN 4774402699
- 伊藤 (1916) 伊藤武一郎「成功せる事業と人物」『満洲十年史』付録、満洲十年史刊行会、1916年
- 影印版:芳賀登ほか(編)『日本人物情報大系 第20巻』皓星社、1999年、ISBN 4774402699
外部リンク
- 神保町系オタオタ日記 - 関連記事がいくつかあり、文献調査の際に参考にした。