クタパン県
クタパン県(インドネシア語:Kabupaten Ketapang)は、インドネシアの西カリマンタン地方(旧蘭領ボルネオ西部)の県。
1945年頃、四国ほどの面積で、人口は10数万人だった[1]。
占領初期
日本による占領期間中の1942年9月頃、県内に日本人は2人しか居らず、住友ボルネオ殖産の社員だった保田克己が臨時で県知事になり、オランダ時代の役所や公舎・調度品をそのまま使って執務していた[2]。
クタパンの役所では、毎日職員全員を庭に整列させて、皆で声高らかに聖戦遂行の宣誓をした[3]。
奥地にはダイヤック族の集落があり、オランダ時代の先例にならって保田が集落を巡視したことがあった[4]。
クタパンのラジャはオランダの大学を卒業したインテリで、保田はテニスを教えてもらったり、政治経済の知識にも明るく、行政面でも助言を受けていたが、のちにポンティアナク事件で殺害された[5]。
半年ほどで県知事は篠原某(1975年頃、千葉共同サイロ株式会社常務取締役)に交代した[5]。
占領後期
1945年頃、県監理官の事務所はクタパンの町にあり、海軍特別警備隊も駐在していた[1]。電信電話会社があり、日本の商社の駐在員が活動していた[1]。公立の病院や造船所もあった[1]。
1945年頃、大林知治が県監理官として赴任したとき、前任の監理官から事務の引き継ぎを受けた際に、金庫の中に重い小袋があり、中に没収品と思しき金で造った何十個もの軍服用のボタンが入れてあった[1]。他に巨額の軍票と倉庫に収蔵された衣料品の引き継ぎを受けた。軍票と衣料品は、供出米の購入資金とそれに対する褒賞物資として使われていた[1]。
当時の管理官事務所の職員は、総務:今野孝三、文教:赤松多利蔵、農林:渡辺某[1]。
大林の赴任後、何度か米軍機による空襲を受けたが、いずれも大事には至らなかった[1]。