スルタン・ポンティアナク
スルタン・ポンティアナク(インドネシア語:Sultan Pontianak)は、西カリマンタンのポンティアナク市周辺を領地としたスルタン[1]。
日本による占領期間中の1943年頃、ポンチアナク州知事庁に赴任した佐藤正二は、同州に散在した12のスルタンの多くは「名目だけのもの」だったが、ポンティアナクのスルタンは「小規模ながら王宮を構え、豪華なダイヤモンドをちりばめた金色燦然たる帽子をかぶり、きらびやかな王衣をまとった姿」をしていて印象的だった、と回想している[2]。
この王宮には、子供の結婚式とか、孫の割礼式などに時々招かれたが、私達の一行が到着すると、にぎやかな楽隊で迎え、城門から宮殿まで約80mのアプローチを先導者に従って進むときは、柄の長い大きな日傘をさしかけてくれたり、開宴中は数人の侍女が、背後から美しい大きなウチワでゆるやかに扇ぐといった風習があり、お伽の国へ迷い込んだような思いをしたものであった。
– 佐藤正二 ポンチアナク州知事庁時代の回顧 [2]
同年、ポンティアナクのスルタンは、ポンティアナク事件で日本軍により殺害された[3][1]。
遺族となったスルタン・ポンティアナックの夫人たちは、しばしば娘たちとともにポンティアナク市役所の官舎を訪問して、米、塩、唐辛子など主要食糧品の特配を願い出ることがあり、市役所は、彼女達の世話をして、遺族から宝石類を買い上げていた[3][4]。
ポンティアナク事件の後、スルタンの継位は認められていなかったが、1945年5月に、現地住民の官吏の中で最高位の係長だったアシキンから州知事庁に対し、一族に成年に達した男子が出たため、スルタンの就任を認めるよう要請があり、州知事庁の政務課長だった三ツ井卯三男は、海軍特別警察隊の岡島隊長とも相談して認めることにした。即位が実現したのは終戦後の同年9月2日なってからで、即位式では加藤澄蔵州知事の代理で三ツ井が司祭役を務めた。[5]
1945年末頃、クチンのリンタン収容所から戦犯容疑者としてポンティアナクに連れ戻された平塚道雄・元ポンチアナク市長、海軍警備隊長・岡島大尉と特警隊補佐官・山本中尉の3人は、ポンチアナク刑務所に入所して間もなく、ポンティアナクのスルタンの宮殿へ連行され、新しいスルタンに、階段の下に順番に跪坐(して謝罪を)させられた[6][7]。
戦後、GHQ/SCAPの指令によって、日本政府による略奪財産の略奪元への返還が実施され、1946年8月15日に東京で「ポンティアナクのスルタンのダイヤモンドを散りばめた王冠」が蘭領東インド政府に返還された[8]。
付録
脚注
参考文献
- 竹前 (2015) 竹前榮治「略奪財産とくに略奪貴金属・宝石類の処理」『東京経済大学 人文自然科学論集』No.136、pp.153-185
- 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
- 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073