バトゥアンパル (クブ・ラヤ)
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バトゥアンパル(インドネシア語:Batu Ampar)は、西カリマンタン地方の地名。ポンティアナク市の南方数十kmのカプアス河の河口に位置する[1]。
歴史
日本による占領時期には、1944年にSKK昭和組工作所が原野に造船工場を建設し、200トン船の建造を行うなど[2]、日本企業の工場地帯となった場所で[3]、ポンチアナク市の周辺では(日本以外の)外国権益が最も少ない島だった[4]。
1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した後、西ボルネオに赴任していた日本人は、バトゥアンパルに集結し、バタンチカル(Padang Tikar)からジャワ行きの船に乗船したが、民間人約200人の乗船した船は出航後まもなくトラブルがあってバタンチカルに引き返し、バトゥアンパルのトロアエル(Teluk Air)に日本人の避難場所として建設してあった住宅で同年10月10日まで過ごしていた[5]。
付録
関連リンク
脚注
参考文献
- 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073