本多忠勝
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
目次
生涯
出生・初陣と初首
安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として[1]天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれる[2]。天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育つ。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する[2]。このとき、同時に元服した[注釈 1]。初首は15歳の時で、今川氏真の武将の小原備前と戦った長沢の戦いの時、叔父の忠真が倒した敵の武将の首を忠勝に与えて武功を飾らせようとしたが、忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」[注釈 2]と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げたので、忠真をはじめとする諸将は忠勝を只者ではないと感じ入った[2]。
徳川四天王としての武勲
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして同年齢の榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した[3]。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した[注釈 3]。
元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝は味方を退却させるために敵と味方両軍の間に割って入り、蜻蛉切を頭上高く振り回して踏み止まり、さらに武田軍が追撃しようとするたびに数度馬首を返し、見事な進退で殿軍を務めた[4][注釈 4]。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加する[3]。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され[4]、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ面白い川柳もある[5]。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って織田信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという[注釈 5]。
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍は苦戦して崩れたかに見えたが、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500メートル)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った[5]。この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され[6]、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日(天正16年(1588年)4月とも[7])、従五位下・中務大輔に叙位・任官された[8]。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる[7]。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。榊原康政は北の真田氏や上杉氏に対する備え、忠勝は安房国の里見氏に対する備えである[9]。ただし、近年の研究では大多喜城が居城に定められたのは、天正19年(1591年)初頭ごろで、それまでの半年ほどの間は同じ夷隅郡の万喜城(現在のいすみ市)を居城にしていたとされている[注釈 6][10]。
関ヶ原から最期まで
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、吉川広家など諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石(一説に15万石。または12万石[7])に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた[3][7]。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている[7]。
忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し民政を行なって桑名藩創設の名君と仰がれている[11]。しかし晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭してきたため[9]、忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、不遇であった。
慶長14年(1609年)6月、嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居する[12]。慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した[11][7][12]。享年63[1]。この際に重臣の中根忠実と梶原忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された[7]。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している[7][注釈 7]。
忠勝の子孫は、その後転封を繰り返して、姫路藩などを経由し、三河岡崎藩5万石に落ち着いた。
人物
装具
- 愛槍は「蜻蛉切」。
- 兜は「鹿角脇立兜」。鹿の角をあしらった脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。
- 鎧は当世具足「黒糸威胴丸具足」[14]。自らが葬った敵を弔うため、肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。動きやすさを重視し軽装を好んだという。
- 愛馬は「三国黒」で、後の二代将軍・秀忠より贈られた。関ヶ原の戦いで島津勢の銃撃により死亡した。
武勇
- 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている[15][6][5][注釈 8]。
- 永禄5年(1562年)の鳥屋根城の戦いに於いて若き日の忠勝は、叔父・本多忠真に敵の首を譲られたが断り、単身別の敵の首級を見事上げてきたという。これが忠勝の初首級となった[2]。
- 一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された(「唐のかしら」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指す)[16][4]。
- 織田信長にその並はずれた武勇を、武田征伐後、信長が安土に戻る前に呼び寄せられ、「花実兼備の勇士」と讃えられた。
- 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された[6]。
- 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。
- 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。
- 桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂で葦を薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。
逸話
- 榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。
- 本多正信のことを快く思わず「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てている。
- 長篠の戦い終了後、忠勝はどこか物憂げであり、家臣がその訳を尋ねると、忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚痴をこぼしたという。
- 小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言した。しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じた[17]。
- 秀吉・家康が和睦した後に秀吉に召しだされたとき、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えた[17]。
- 忠勝は関ヶ原の戦いでは井伊直政と共に誓紙を何枚も発行して西軍武将の切り崩しにも務めており、所領には善政を敷いた。
- 関ヶ原の戦いの際、東軍の兵士達は背後に陣を構えた毛利・長宗我部軍の動向を気にしていた。その時、忠勝は「もし毛利軍に戦う意志があるのならば、山の上ではなく、山を下って陣を構えるはず。今山の上にいるのは、戦う意志がないからである」と言い、味方を安心させたという。
- 関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願したが、両名に散々煮え湯を飲まされている家康は強硬に拒否した。またそれ以上に昌幸により上田城に釘付けにされた挙句に関ヶ原遅参という失態を演じ、家康の勘気を被った秀忠は強硬に死罪を主張した。結局は忠勝らの嘆願に折れる形で真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居という処分に止まり、信濃上田領は信之に与えられることとなった。
- 忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまった。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と呟き、その言葉通りになったという[18]。
遺書・辞世の句
遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている。
家臣
- 織田信照
- 都築秀綱
- 梶勝忠
- 河合政光
- 通称は又五郎。旗本先手役に抜擢された忠勝の与力50騎の1人。忠勝が大名になるとそのまま家老として支えている。知行5000石(内、与力給2500石を含む)を公儀だけから拝領。実弟・政一が又五郎の通称と家督を継いでいる。
墓所・霊廟・神社
- 墓所は浄土寺(三重県桑名市)にある。また、分骨が忠勝が開基した旧領大多喜の良玄寺(千葉県大多喜町)にある。
- 岡崎城本丸にある龍城神社に祭神として祀られている。
- 愛知県岡崎市の岡崎城跡の岡崎公園内と三重県桑名市の桑名城跡の九華公園内に忠勝の銅像がある[19][20]。
脚注
注釈
- ↑ 『徳川実紀』
- ↑ 『名将言行録』。
- ↑ 朝倉方の豪傑真柄十郎左衛門との一騎打ちで有名である。
- ↑ 『名将言行録』では「(忠勝は)黒糸の鎧に鹿角打たる冑を着、蜻蛉切りという鑓を、馬手の脇に抱込みて二反(約22メートル)計に押寄せたり。敵味方の真中に馬を静に歩行ませ入れ、味方に下知して引退き、見附の人家に火を掛て、浜松にこそ帰りけれ」とある。
- ↑ 『藩翰譜』。
- ↑ 天正18年8月7日付で本多忠勝から滝川忠征に出された書状(名古屋大学文学部所蔵「滝川文書」本多忠勝書状)に、自分が万喜城を与えられたのは忠征の口添えのおかげとする趣旨の内容が書かれている。このことから、最初に忠勝に与えられたのは万喜城であったことが判明するとともに、その決定には忠征の主君である秀吉と家康の間の合意があったことがうかがえる(柴論文参照)。
- ↑ 『名将言行録』
- ↑ 『藩翰譜』では「終に一所の手も負わず」とある。
引用元
- ↑ 1.0 1.1 『寛政重修諸家譜』。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 郡 p.13。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 「徳川実紀」
- ↑ 4.0 4.1 4.2 郡 p.14。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 郡 p.15。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 家康忠勝両公三百年祭事務所編 『家康忠勝両公三百年祭紀要』家康忠勝両公三百年祭事務所、1915年。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 7.7 郡 p.16。
- ↑ 「大久保家秘記」。『寛政重修諸家譜』。村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
- ↑ 9.0 9.1 中嶋次太郎 (1966) 中嶋次太郎 [ 徳川家臣団の研究 ] 吉川弘文館 1966 。
- ↑ 柴裕之「豊臣政権の関東仕置と徳川領国-本多忠勝の上総万喜入城を通じて-」( (2012) 佐藤博信 [ 中世房総と東国社会 ] 中世東国論 4 岩田書院 2012 978-4-87294-739-7 )。
- ↑ 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 12.0 12.1 郡 p.18
- ↑ 路蕪村悟道「蜻蛉切の作者はだれ」『刀剣と歴史』664-667号、日本刀剣保存会阪神支部、2005年。
- ↑ () 三河武士のやかた家康館 特別展示室 [ arch. ] 2013年5月13日
- ↑ 朝日新聞社編 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
- ↑ 村上直「徳川四天王」『江戸幕府:その実力者たち』上巻、北島正元編、新人物往来社、1964年。
- ↑ 17.0 17.1 『三河後風土記正説大全』巻42「池田之助討死付本田忠勝勇猛并石川数正不義の事」。同書巻43「本田平八郎忠勝勇猛付 神君御陣替并秀吉 神君を罷感事」。
- ↑ 『戦国武将 群雄ビジュアル百科』(ポプラ社、監修:二木謙一)
- ↑ () 園内マップ 日本語 岡崎公園 [ arch. ] 2010年1月27日
- ↑ () 九華公園 - 本丸跡等 日本語 桑名市 [ arch. ] 2010年1月27日
参考文献
- (1991) 国史大辞典編集委員会 [ 国史大辞典 ] 12 吉川弘文館 出版者所在地 1991 4-6420-0512-9
- 郡義武 (2009-11) 郡義武 [ 桑名藩 ] シリーズ藩物語 現代書館 2009-11 978-4-7684-7117-3