長崎師範学校
長崎師範学校 (ながさきしはんがっこう) は、1874年(明治7年)長崎県に官立師範学校を設置した(ウィキペディアに1943年(昭和18年)設置とあるのは間違いである)。現在の長崎大学の母体の一つである<[1]。
沿革
1874年(明治7年)2月19日、日本全国 7大学区に設置された師範学校の一つとして、官立長崎師範学校を設置した。修業年限を2年とし、入学生徒定員を各100人(新潟のみ40人)とした。初等学校教員の養成(師範教育)を目的としていた。初代校長は長崎英語学校校長の渡辺温であった。同時に小学教則講習所も設置した。同年6月30日、 長崎市桶屋町光永寺を仮校舎とし、70名の応募者の中から入学試験により37名に入学を許可した。1874年(明治7年)7月15日に長崎英語学校を仮教場として開講した。教員は東京師範学校の卒業生が主力であった。教科は授業法、作文、数学、画学、習字、体操、諸科などであった。明治8年中の進退数は入学者92名、卒業者12名、進級19名、退学23名であった[2]。相当数の退学者がいた。
1878年(明治11年)2月に国の財政悪化から、官立長崎師範学校を廃止し、建物・備品は長崎県に移管された。 同年、勝山小学校に「小学教則講習所」(小学校教則教習所)を開設した[2]。
1878年(明治11年)崎陽師範学校を県立「長崎師範学校」と改称した。1886年(明治19年)、 師範教育令により「長崎県師範学校」と改称した。1943年(昭和18年)4月1日 長崎県師範学校と長崎県女子師範学校を統合し、「官立長崎師範学校」を設置した。旧長崎県師範学校校舎(長崎西浦上)に男子部、旧長崎県女子師範学校校舎(大村下久原)に女子部を設置した。1945年(昭和20年)8月9日、男子部校舎は原子爆弾投下により壊滅し、生徒54名が死亡した。
1949年(昭和24年)5月31日、 新制「長崎大学学芸学部」が発足し、長崎師範学校は長崎大学に統合され、在籍生徒が卒業するまで存続することとなった。1951年(昭和26年)3月、最後の卒業生を送り出し、長崎師範学校 (旧制)は廃止となった[3]。
出身の著名人
- 久保勘一(長崎県知事や参議院議員)
- 多比良久人1935年(昭和10年) 卒業 (画家)
- 杉山貞 明治6年(1873)入学 (小倉高等女学校長)
- 藤堂融 大阪控訴院検事長
- 細見保 久留米高等女学校長、久留米高女三大恩人の一人