フリッツ・ラング
フリッツ・ラング(Friedrich Christian Anton "Fritz" Lang( 1890年12月5日 - 1976年8月2日 )は、オーストラリア・ドイツ・アメリカ合衆国の映画製作者、脚本家、時にはプロデューサー、俳優であった。ドイツ表現派の巨匠として知られ、イギリス映画協会からは「暗黒の巨匠」と呼ばれている。
経歴
1890年にウィーンでアントン・ラング (1860–1940)の次男として生まれた。オーストリアのショッテン修道院で1890年12月21日に洗礼を受けた。両親はモラヴィアの出身で、ローマンカトリックであった。母(旧姓シュレージンガー)はユダヤ教からの改宗者だったが、宗教を重要なものと考え、息子をカトリックに入信させた。ラングの映画には、時々カソリックの影響が表れている。自身は後年「カソリックに生まれた」と述べている。
学校を卒業後、短期間だがウィーン工科大学で土木工学を学び、その後、芸術学に転じた。1910年から1914年にかけて、世界を見るためにウィーンを立ち、全ヨーロッパとアフリカを旅行した。後年にはアジアと太平洋地域にも回った。パリ滞在時に第一次世界大戦が勃発し、 敵性外国人として収容所に入れられたが脱出した。
その後、ウィーンに戻り、オーストリア軍の義勇兵として活動したが、戦争中に4回負傷している。中尉となったあと退役し、1918年から役者をしていた。陸軍病院入院中に暇つぶしに映画用のストーリーや脚本を書いたものがドイツの大手映画会社ウーファのプロデューサーのエーリッヒ・ポマー目に留まり、の制作会社ウーファに雇われた。ドイツの映画会社ウーファで監督として働き始めたときに、表現主義運動が開始された。
1919年の『Halbblut』で監督デビューし、1920年には将来の妻となる作家のテア・フォン・ハルボウと出会った。1921年のサイレント映画Destiny(ドイツ語:Der müde Tod)は人気を博したスリラー映画となり、ドイツ映画界の第一線に躍り出た。日本でのタイトルは公開時『死滅の谷』であったが、『死神の谷』に変更されている。本作品にルイス・ブニュエルは強く影響を受け、後に映画監督となるきっかけとなったという。
1922年には世界犯罪映画史に残る古典となった『ドクトル・マブゼ』、1927年にはSF映画の古典的大作『メトロポリス』、1931年にはトーキー初期のサスペンス映画『M』などドイツ映画を代表する作品を送り出した。中でも『ドクトル・マブゼ』は世界中から絶賛され、興行的にも大成功を収めた。1922年にテア・フォン・ハルボウと結婚した。 『メトロポリス』は公開当時の評価が低く、興行面でも奮わず、製作会社ウーファは新聞社に身売りすることになった。殺人事件をモデルにした1931年の犯罪ドラマ『M』では、殺人鬼を主人公にしてその内面心理を深く追求した。1933年に政権を握ったナチス宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルスは、『怪人マブゼ博士』のラストに反ナチの精神を読み取り、出頭を命じるが、 母親がユダヤ人のラングは、熱烈なナチス党員だった妻ハルボウに別れも告げずに、その日のうちに荷物をまとめてフランスに逃亡した。 パリでシャルル・ボワイエ主演のファンタジー映画『リリオム』(1934)を手掛けた後、1934年6月に渡米した。
アメリカではデヴィッド・O・セルズニックと契約し、スペンサー・トレイシー主演の『激怒』(36)を監督した。 1937年にはボニーとクライドをモデルに男女の逃避行を描いた『暗黒街の弾痕』を発表。 『死刑執行人もまた死す』(1943)ではナチスの恐怖を描き、 1941年にウェスタン『西部魂』(1941)、1944年にフィルム・ノワール『飾り窓の女』、1946年にスパイ映画『外套と短剣』などを監督した。 アメリカ時代に20年間で22本の作品を演出した。1950年代末に西ドイツへ戻り、リメイク版『怪人マブゼ博士』(1960年)を撮った。 1963年にはゴダールの依頼で映画産業を舞台にした『軽蔑』に俳優として出演した。晩年はアメリカで過ごし、1976年8月2日にビバリーヒルズの自宅で永眠した。
作品評価
- ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらフランスのヌーヴェル・ヴァーグの若い批評家、ピーター・ボグダノビッチらはドイツ時代よりもアメリカ時代のラング作品を絶賛している。