論語
論語(ろんご)は、中国古代、春秋時代の孔子とその弟子たちの言行を記録した書物である。儒教における「四書五経」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。
内容
孔子自身が自分の思想を体系的に記したものとはいえず、孔子の死後に弟子たちが孔子の言行や門人たちとの対話を編纂し、成立年代は不明であるものの、漢代頃に成立したとされている。日本には、応神天皇の16年(西暦28年)に、百済から伝来したといわれる。
江戸時代の伊藤仁斎は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、前者の成立が古いとした[1]。伊藤仁斎は初めに朱子学を学んだが、のちに朱子学を批判し、「論語」や「孟子」の原義にたちもどるべきであると主張した。宮川康子は、近世において論語自体ではなく、論語をどのように解釈するかが思想表現になったとする[2]。
孔子は周王朝の基礎を築いた周公の政治を理想と考え。「徳治」と「仁政」を政治の原理とした。最も重視したのは「仁」である。。「仁」の正確な定義はないものの、人と人との間に自然に発する親愛の情であり、徳を徳たらしめるものとして思想の中心とした。「礼」は単なる形式ではなく、人間関係を維持するための規範と考え、「礼」を人間の内面の具体的な外形表現として位置付けた。
子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。(学而 第一)
孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。
道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。
子曰、巧言令色、鮮矣仁(学而 第一)
子のたまわく、巧言令色、 鮮(すくな)し仁。 先生が言われた。人に気に入られるように、口先だけでうまいことを言って中身が伴わない人間には仁の徳はほとんどないのだと。
子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。(為政 第二)
孔子いわく、われ十五で学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従い則を超えず。
私・孔子は十五歳のときに学問を志し始め、三十歳にして独立し、四十歳で迷わなくなった。五十歳のときに自分の天命を知り、六十歳では人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなった。
顔淵問仁。子曰克己復礼為仁(顔淵 第十二)
顔淵、仁を問う。子曰わく、己れを克せめて礼に復えるを仁と為す。 顔淵が仁は何かとたずねた。先生はわが身をつつしんで、礼の規範にたちもどるのが仁であると言われた。
構成
全部で20編の構成である。
- 学而第一(がくじ)
- 為政第二(いせい)
- 八佾第三(はちいつ)
- 里仁第四(りじん)
- 公冶長第五(こうやちょう)
- 雍也第六(ようや)
- 述而第七(じゅつじ)
- 泰伯第八(たいはく)
- 子罕第九(しかん)
- 郷党第十(きょうとう)
- 先進第十一(せんしん)
- 顔淵第十二(がんえん)
- 子路第十三(しろ)
- 憲問第十四(けんもん)
- 衛霊公第十五(えいれいこう)
- 季氏第十六(きし)
- 陽貨第十七(ようか)
- 微子第十八(びし)
- 子張第十九(しちょう)
- 堯曰第二十(ぎょうえつ)