ムンバイ
'ムンバイ(マラーティー語:मुंबई)はインドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都である。インド最大の都市であり、南アジアを代表する世界都市の一つである。
市域人口は1,248万と世界でも有数。2011年の近郊を含む都市圏人口は2,129万人であり、世界第6位である。2008年のムンバイの域内GDPは2090億ドルで、世界第29位である。2012年には、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第45位の都市と評価されており、インドでは首都ニューデリーを凌ぎ第1位であった。天然の良港に恵まれていることもあり、国全体の海上貨物の半数以上を担う港湾都市でもある。
ムンバイは国内随一の商業及び娯楽の中心都市であり、国全体のGDPのうち5%、工業製品の25%、海運の40%、資本取引の70%を計上する。国際金融フローにおいては、アジア有数の金融センターとして、インド準備銀行、ボンベイ証券取引所、インド国立証券取引所といった金融機関や、多くのインド企業の本社、多国籍企業の拠点が置かれる。ビジネス機会が豊富なムンバイには、事業機会や比較的高い生活水準を求め国内各地から多くの人が集まり、様々な宗教・文化の集積地ともなっている。
1995年に英語での公式名称がボンベイ (Bombay) から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづくムンバイへと変更された。なお原語では「イ」が長母音のため「ムンバイー」の表記がより正確とも言えるが、日本国内での表記は「ムンバイ」が大半であり、慣用という意味も含めて当記事内でも後者に統一する。
地理
ムンバイは、インド西海岸のアラビア海に注ぎ込むウルハース川の河口付近にあるボンベイ島、およびその北に広がるサーシュティー島(サルセット島)にある。この両島は現在は埋め立てによって繋がっており、ボンベイ島はサーシュティー島の南に向かって伸びる半島となっている。かつての両島の境界には、両側に細い入り江が伸びるのみとなっている。中心部は南のボンベイ島の南部にあるフォート地区で、そこから北に向かって市街地が伸びていった。フォート地区の南にあるコラバ地区も19世紀以降開発の進んだ古いエリアで、インド門やタージマハル・ホテルはこの地区にある。フォート地区の東側がボンベイ港であり、ボンベイの発展の原動力となってきた。フォート地区の西側にもバック・ベイと呼ばれる湾が広がっている。バックベイを挟んでフォート地区の反対側にあるマラバールの丘はボンベイ有数の高級住宅街となっている。沈黙の塔が立っているのもマラバールの丘である。
ムンバイは行政的にはマハーラーシュトラ州に属し、ムンバイ市地区とムンバイ郊外地区の2つの地区からなっており、このうち郊外地区が437.71 km2 、ムンバイ市地区が67.79 km2である。この二つはBrihanmumbai Municipal Corporation(大ムンバイコーポレーション、BMC)の管轄下にあるが、残りの地域は防衛地域、ムンバイ港トラスト、原子力委員会、ボリバリ国立公園などに属し、BMCの管轄下には入っていない。
ムンバイはコンカン海岸と呼ばれるインドの西海岸に位置し、サーシューティー島の南部を市域に含むが、島の北部はターネー県に属する。市の西部はアラビア海に面している。南部の半島上に位置するムンバイ市街の大部分は海面程度の低地にあるが、北部の郊外地区には10〜15m程度のところも多い。ムンバイ市全体の平均標高は14mである。北部郊外には丘が多く、最高地点は海抜450mである。北部郊外にはサンジャイ・ガンディー国立公園(ボリバリ国立公園)があり、103.09 km2の広さを持っている。
気候
ムンバイは熱帯に属し、ケッペンの気候区分においてはサバナ気候に属する。ムンバイの季節は、明瞭な雨季と乾季に区分される。雨季はおおよそ6月から9月までで、湿度が高く、気温は30 °Cを超える。6月から9月の間は南西からのモンスーンによる雨が降り、年間2200mmの降雨量はこの時期にほとんどが降る。乾季はおおよそ11月から5月で、湿度は雨季よりはやや下がるものの極度に乾燥はしない。温暖な気候であるものの、降雨はほとんどない。1月と2月はやや冷たい北風が吹く。年間平均気温は27.5℃である。平均最高気温は31.7°C、平均最低気温は22.1°Cである。年間平均降水量は2,167㎜である。最高気温記録は1982年3月28日に記録された40.2℃、最低気温記録は1962年1月27日に記録された7.4℃である。
歴史
ムンバイの都市としての歴史は、1534年にポルトガルがグジャラートの土侯からこの地域を譲り受けたことに始まる。ポルトガル人はこの地に、ゴアの補助港としての城塞都市を築き、ここを「ボンベイ」と呼んだ。この名はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれるが、それ以前からこの地の呼称として使用されていた「ムンバイ」という名は、当時漁民の信仰をあつめていたシヴァ神妃パールヴァティーの異名、ムンバによるとの説がある。当時は北からパレル、マヒーム、ウォルリ、マザガオン、ボンベイ、小コラバ、コラバの7つの島からなっていた。
1661年、ポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは持参金としてイギリス側に委譲された。その植民地時代にはボンベイ管区の中枢として、城塞の中に公会堂・税関などさまざまなイギリス風の施設が建設された。1668年、英国王家はこれを10ポンドでイギリス東インド会社に貸し付け、対岸に良港があったことから1687年にはインドにおける拠点となり、それまでの海軍の基地であったスラトから東インド会社の海軍が移され、ボンベイ海軍と名付けられた。ボンベイ海軍はインド洋の海賊討伐を行い、また1735年にはスラトから造船所もボンベイに移転した。こうして、18世紀末にはインド最大の造船業を持つようになったボンベイはインドの西海岸における海運や貿易の要衝となっていった。ボンベイ海軍は1830年にインド海軍と改称され、1863年にイギリス海軍に統合され消滅するまでボンベイを拠点とし続けた。こうしてボンベイが重要性を増していくにつれ、すこしずつ島の間の埋め立てが進められて市街地として発展した。最終的には1845年にHornby Vellardの計画した大規模な干拓が行われ、これによってムンバイの7つの島は完全に大陸の一部となった。
1820年代に入ると、汽船の航行能力が向上したことによりイギリス・インド間の汽船航路開設が叫ばれるようになった。この航路をめぐってはカルカッタ財界の支持する喜望峰ルートとボンベイ財界の支持するスエズ地峡ルートの間で競争となったが、結局ボンベイの推すスエズルートが勝利して、1837年にスエズとの間に定期蒸気船航路が開設されるようになった。これによってボンベイはインドの玄関口となり、以降インド最大の貿易港として発展していった。1854年には東インド会社に代わりP&O社がボンベイ・スエズ航路を担当することとなった。1853年にはボンベイと北郊の都市ターナーとの間にインド初の鉄道が開通し、やがてインド全土に張り巡らされた鉄道によってボンベイは貿易港としてますます発展していった。1850年代には多くの綿紡績工場も建設され、この地の産業を大きく発展させた。とくに1861年 - 1865年のアメリカ南北戦争では、アメリカからイギリスへの綿花輸出が停止したことから、ボンベイの綿織物業は飛躍的に拡大する。1869年のスエズ運河開通によってボンベイは直接ヨーロッパと結ばれることとなり、ボンベイ港の重要性はさらに高まった。
ボンベイ財界はカルカッタやマドラス財界と異なり、綿織物工業を基盤としたインド人資本家が多数存在した。ジャムシェトジー・タタが拠点としたのもボンベイである。1903年にはタタの手によってタージマハル・ホテルが建設され、世界有数の高級ホテルとなった。こうしたインド人による経済の発展は労働運動や民族運動をも生み出し、インド国民会議派の創立大会も1885年にボンベイにて行われ、以後も活発な民族運動が行われた。
20世紀、二度の世界大戦を通じてボンベイはコルカタ(カルカッタ)を抜く商工業都市となり、1947年のインド独立後もボンベイ州の州都として発展を続けた。インド独立に際しては、ティラクやマハトマ・ガンディーらの民族運動の拠点ともなった。しかしインド政府が言語ごとに州を再編する、いわゆる言語州の政策を打ち出すと、ボンベイの帰属が問題となった。ボンベイ自体は歴史的に西のデカン高原地域とのつながりが深かったものの、ボンベイ市におけるデカン高原地域のマラーティー語を話す住民は4割にすぎず、残りは非マラーティー語系住民であるうえ、経済の実権は非マラーティー語系住民が握っていたためである。結局、他の言語州から4年遅れて、1960年にボンベイ州は北部がグジャラート州、南部がマハーラーシュトラ州へと分割され、ボンベイは後者の州都となった。しかし、それでもマラーティー人住民がこの町では主導権を握っていないことには変わりなく、この不満を受ける形でマラーティー至上主義を掲げる極右政党シヴ・セーナーが勢力を拡大していった。1985年の選挙で、シヴ・セーナーは国民会議派を破ってボンベイ市議会の与党となり、市の呼称をマラーティー語のムンバイへと変更する運動を展開し、1995年には、英語での公式名称がボンベイからムンバイへと正式に変更された。
現在もムンバイは、西インドのみならず国全体の産業や文化の一大中心地として機能している。2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロが起こり多数の死傷者が出た。
経済
インドの最大都市ムンバイは、国内経済の中心都市として重要拠点となっている。2013年のアメリカのダウ・ジョーンズらの調査によると、世界第27位の金融センターと評価されており、インドでは第1位である。
ムンバイは、国全体の全工場雇用者数の40%、全所得税収入の40%、関税収入の60%を計上する。中心市街地には、インド準備銀行、ボンベイ証券取引所、インド国立証券取引所、インド造幣局といった国内の金融機関を初め、タタ・グループ (Tata Group)、ゴドレージ・グループ (Godrej Group)、リライアンス (Reliance) など多くのインド企業の本社、国外の金融機関、多国籍企業の拠点が置かれてる。また、ムンバイはマハーラーシュトラ州の州都であり、連邦政府と州政府の職員数も多い。
現在では金融都市となったムンバイも、1980年代までは繊維工業および港湾貿易に大きく依存していた。しかしその後、地域経済の基盤は工業、ダイヤモンド加工業、ヘルスケア、IT産業といった分野へと大きく裾野を広げて現在に至った。
娯楽産業もムンバイの重要な産業の一つである。ほとんどの国内主要テレビ局や衛星ネット局、出版社はムンバイに本社を置いている。インド映画業界のうち、国内最大のヒンディー語娯楽映画産業の中心地でもあり、ハリウッドをもじって「ボリウッド」として現在世界的に知られる。マラーティー語のテレビ映画産業も、ここムンバイにある。
人口統計
2011年センサスによると、ムンバイの人口は12,479,608人だった。人口密度は1平方キロメートルあたり約20,482人と推定されている。これは1人につき4.5平方メートルの生活空間があるという計算になる。このセンサスではムンバイの識字率は94.7%であり、86.7%の全国平均よりも高くなっている。人口の性比は男性1000人に対し、ムンバイ市街県で女性が838人、ムンバイ郊外県で857人であり、ムンバイ市域全体では848人となる。これはインドの全国平均である男性1000人に対し女性914人という数値に対して、明らかに男性が過大となっている。これはムンバイがインド最大の都市であり、仕事を求めてやってくる男性労働者が非常に多いことに由来する。
ムンバイ市民の宗教は、ヒンドゥー教が最も多く67.39%を占め、以下イスラム教徒(18.56%)、仏教徒(5.22%)、ジャイナ教徒(3.99%)、キリスト教徒(4.2%)、シク教徒(0.58%)、他にわずかなパールシー(ゾロアスター教徒)やユダヤ教徒が存在する。言語・民族別で最も多いのはマラーティー語(42%)で、グジャラート語(19%)が続き、残りはインド各地や世界各国から流入してきた各種言語・民族が占めている。地元のキリスト教徒には、ポルトガル人の布教によって18世紀から19世紀に改宗した東インド人が含まれる。ムンバイには約80000人のパールシーが居住しており、インド最大のコミュニティを形成している。
人口問題
1991年から2001年までの10年間で、マハーラーシュトラ州域外からムンバイへと移住してきた人々の数は112万人におよぶ。この経済成長に伴う急激な人口増加に伴い、他の著しい経済成長を見せている発展途上国の都市と同様、ムンバイは貧困、失業、医療、生活水準、教育水準などの面で広範囲に及ぶ問題を抱えている。居住地の不足も深刻で、住民は住環境が悪いにも関わらず高価な住宅に住まざるをえない状況にある。さらにこの人口増加にインフラ整備が追いついていないため、住民は異常に混雑した鉄道や道路での長時間の通勤を強いられている。交通環境は、極めて悪く、日本領事館では、自身で自動車を運転しないよう呼びかけている。鉄道でも2008年のムンバイの郊外路線で1日平均17人が死亡しているが、多くは線路を歩いていてはねられるケースとされている。
2001年のインドの国勢調査によれば、ムンバイの人口の約54%はスラムに居住している。ムンバイ中心部のダーラーヴィー地区は、アジア第2の規模を持つスラム街であり、100万人以上の住民がここに暮らしている。
校外の森林地帯も切り拓き、多数のビルが建設されているが、多くが違法建築物であり、トラブルが多発している。2013年4月4日には、違法建築である建設途中のビルが崩壊、作業員など70名以上が死亡する惨事が発生している。
観光
ムンバイ市内の主な観光地は下記の通り。
- エレファンタ石窟群 - ユネスコの世界遺産に登録されているヒンドゥー教石窟寺院。
- インド門 - 高さ26m。港町ムンバイのシンボル。1911年にイギリスの当時の国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して、16世紀のグジャラート様式で建造された。
- タージマハル・ホテル
- チャットラパティ・シヴァージー駅(旧ヴィクトリア・ターミナス) - ユネスコの世界遺産に登録されている
- チョウパーティー海岸
- プリンス・オブ・ウェールズ博物館
- チャーチゲート駅
- マニ・バヴァン - インド建国の父マハトマ・ガンディーが1917年から1934年まで住んでいた家。現在はガンディー博物館となっている。
- ムンバイ高等裁判所 - ゴシック様式で1878年建造の建築。
- ジュフー海岸
- 国立現代美術館 - ジャハーンギール公会堂にある
- ドービーガート - マハラクシュミ駅の横にある世界最大の洗濯場。観光名所とは言いがたいが、多くのツアーに組み込まれている。
交通
ムンバイの公共交通機関には、ムンバイ近郊鉄道、BESTバス、タクシー、オート・リクシャー、フェリー、航空機がある。さらに近年の急速な経済成長に伴い、現在地下鉄やモノレールも建設中である。
ムンバイ近郊鉄道は、セントラル鉄道 (CR) およびウェスタン鉄道 (WR) の二つの鉄道網をムンバイに敷いている。セントラル鉄道はチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅を本部にしており、カバーエリアは市内中央部、北東部、東南部、近郊地域である。ウェスタン鉄道はチャーチゲート駅を本部とし、市内西部を中心に近郊地域もカバーしている。現在建設中の地下鉄ムンバイ・メトロは、2009年に一部先行して開通する。長距離鉄道では、インド国鉄がムンバイと国内各都市を結んでいる。
BEST(ブリハンムンバイ電力交通公社)は市バスを運行しており、市内の大部分をカバーする。2階建てバスやエアコンバスを運行しており、市民は短中距離通勤にバスを利用する。なぜならば、鉄道が長距離通勤の際に運賃を抑えられるのに対し、短中距離通勤の際にはバスの方が交通費を抑えられるためである。また、タクシー(黒と黄色のツートンに塗り分けられた車体)とオート・リクシャーも市民の足となっている。
チャットラパティー・シヴァージー国際空港は市内から34kmのところにある空の玄関口であり、南アジアで最も乗降客数の多い空港である。ムンバイはインド全体の旅客空輸のうち、国内便は25%、国際便では38%を担っている。
文化
ムンバイはインドにおける国内各地の様々な集団や宗教・文化の集積地となっている。映画やテレビなどメディア産業における国内有数の拠点ともなっており、特に北インドを中心に国内各地で上映されているヒンディー語による娯楽映画はこの街にある巨大な撮影所(通称フィルム・シティー)で多く制作されているため、街の旧名「ボンベイ」とハリウッドをもじった「ボリウッド」という映画の街としても知られている。
ペルシアやアラビアに由来するムンバイのユダヤ人は、長い共存の歴史を持っており、迫害されたことはない。
その他
- 血液型(ABO型分類)で、型が存在する。これはムンバイで最初に発見された事に由来する。
- ボンベイ・サファイアというジンは、英国統治下のインドでジンが薬として飲まれていたことからの連想で、名付けられたとされている。
関連項目
外部リンク
公式
日本政府
観光