スラム
スラム は、都市部で極貧層が居住する過密化した地区のことであり、都市の他の地区が受けられる公共サービスが受けられないなど荒廃状態にある状況を指す。世界中のほとんどの大都市にスラムがある。スラム街、貧民街などとも表現する。
スラムに住む住民の数は増加傾向にあり、21世紀初頭の時点でおよそ10億人いるとされるが、2030年には倍の20億人に増えると言われる国際連合人間居住計画による統計がある。
概要
スラムの特徴として、高い失業率と貧困が上げられる。このため犯罪や麻薬、アルコール依存症や自殺などが多発する傾向にある。発展途上国の多くでは、非衛生的な環境のため伝染病が流行していることが多い。貧困状態にある少数民族の居住区を指して、ゲットーと呼ぶこともあるが、日本語でのゲットーの意味は主にユダヤ人居住区を指すことが多い。
発展途上国の多くのスラムは、農村部などからの移住者などが首都などの大都市に、必要な労働力を超えて押し寄せること、すなわち労働力超過によって、彼らは行き場を失い、環境の悪い町外れなどの未開発の地域に無秩序に住み着き、スラム街が建設される。そのため、消防車や救急車といった非常用車両の通行ができないほど道が狭く込み入っている。これらは火事が広がって多くの犠牲者を出す、急病患者や怪我人が助からないなど生活環境を悪化させる要因になっている。
ゴミ収集車の立ち入りができないためにゴミの回収から地区全体が外されていることがあり、衛生状態を悪化させる要因になっている。いくつかのスラムは、ゴミ処理場の近くや中に作られており、ゴミのリサイクルで生活費を稼いでいる。
日本のスラム
江戸時代から明治時代にかけて江戸・東京の三大貧民窟と呼ばれていたのは、下谷万年町(現・台東区東上野四丁目)、芝新網町(現・港区浜松町二丁目)、四谷鮫河橋(現・新宿区若葉)であり、いずれも徳川時代の旧非人系の被差別部落に起源があった。明治20年代には、調査された地域においてだけでも、東京には少なくとも115の貧民窟があった。1897年の調査では、下谷万年町で875戸、芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の細民長屋が確認されていたが、日露戦争後に地価が高騰すると貧民は日暮里や三河島など場末の細民街への移転を余儀なくされた。1923年には関東大震災で場末の細民街の多くも壊滅し、東京市外に移る者も現れた。
草間八十雄によると、東京市では、関東大震災以後、区画整理によって貧民窟は変化し、50世帯以上の集団をなす所は以下のとおりであった(昭和3年調査)。
旧東京市内
- 四谷区
- 谷町2丁目16-23番地一帯(118世帯)、1丁目28-40番地一帯(102世帯)、1丁目20-26番地および元町70番地一帯(77世帯)、旭町58-59番地(79世帯)、60番地(56世帯)
- 小石川区
- 白山御殿町50-103番地一帯(510世帯)、西丸町59-63番地(248世帯)、戸崎町96番地および表町82番地にまたがる一帯(164世帯)、氷川下町71番地(91世帯)、白山御殿町20-32番地一帯(88世帯)、初音町2、3、5、9番地一帯(71世帯)
- 本所区
- 請地町33-30番地一帯(122世帯)
- 深川区
- 越中島町8番地(200世帯)
昭和7年以降に新市域になった区域
- 品川区
- 旧称二日五日市(90世帯)、大崎旧称百反(97世帯)、大井旧称鎧ヶ縁(69世帯)
- 蒲田区
- 羽田旧称猟師町(54世帯)
- 板橋区
- 板橋町旧称根村東宿裏俗に岩の坂と称する一帯(477世帯)
- 滝野川区
- 旧称鴻の台(54世帯)、谷津(208世帯)
- 荒川区
- 日暮里俗バタ長屋一帯(536世帯)、三河島町旧称次郎田、中道、釜坪一帯にわたる大きな集団(約500世帯)、旧称前沼(200世帯)、辻元(90世帯)、南千住町旧称三の輪150番地および千住南800番地にわたる一帯(827世帯)
- 豊島区
- 西巣鴨旧称向原2997番地一帯(77世帯)
また、東京以外の主な貧民窟は、大阪の六道ヶ辻(59戸)、釜ヶ崎(420戸)、長柄(243戸)、京都の天部寺裏(422戸)、柳原(1100戸)、神戸の新川部落(389戸)、番町部落(537戸)、名古屋の水車(347戸)、玄海(253戸)などであった(大正10年社会局調査)。
対策と評価
スラムを解体したり、活性化させたりすることで問題を解決しようとする試みは古くから行われてきたが、必ずしも成功を収めていない。文化大革命時に大量に中国大陸から香港に難民が押し寄せた際、不衛生なスラムが至るところに出来、犯罪や暴動が頻発した。当時の英国行政府は膨大量の高層住宅を建設して住民を収容したり、郊外に新たな居住区を建設し、住民を移住させたりするなどで、一定の成果を得た。しかし、他の開発途上国では、失業者対策が行われないなど、スラムの存在する根本的な理由を解決していないことが多いため、下記で説明するプルーイット・アイゴーのように、団地自体がスラム化する場合がある。また、賄賂や横領など対策を取る側に問題があることもある。
他方、スラムを民間部門の自由な社会経済活動の場と捉えて、住民を草の根民活として、肯定的に評価する立場もある。農村にあっても十分な収入を期待できない場合、都市に流入する貧困者が多いが、都市に転居しても、工場労働者や事務員のように正規の雇用機会は得られない。そこで、自らが、露天、靴磨き、廃品回収などの小規模で、元手があまりかからない仕事を自ら創出する。こうして、スラムの未熟練労働者が多数就業する都市インフォーマル部門が開発途上国の大都市で成長している。
こうした都市インフォーマル部門の就業者は、失業者とは異なり、小規模自営の労働集約的な生業についている。また、スラムも都市の地域コミュニティの一角を形成しており、非衛生でインフラストラクチャーが未整備な地区であるとはいえ、これをもって一概に犯罪の温床とするのは、偏見かもしれない。この意味で、スラムの住民は、貧困状態にはあっても、失業者や犯罪者とは区別されるべきであろう。
参考文献
- 布野修司 『カンポンの世界 - ジャワの庶民住居誌』、PARCO出版、1991年(ISBN 4-89194-288-6)
- 中西徹 『スラムの経済学 フィリピンにおける都市インフォーマル部門』、東京大学出版会、1991年(ISBN 4-13-046042-0)
- 鳥飼行博 『地域コミュニティの環境経済学 - 開発途上国の草の根民活論と持続可能な開発』、多賀出版、2007年(ISBN 9784811571317)
- ウラジーミル・ギリャロフスキー 『帝政末期のモスクワ』 村手義治訳、中央公論新社、1985年。 / 〈中公文庫〉、1990年。 - 帝政ロシア時代の貧民窟ヒトロフカについての記述がある。
- 『下谷万年町物語』唐十郎、中央公論新社 1981年
関連項目
- スコッター
- 吉田尚弘(日本人・報道写真家)
- 乞食谷戸
- 権田保之助(大正時代の東京の貧民街の研究)
- 横山源之助(明治時代の阪神地区の貧民街の研究)
- 九龍城砦
- バンリュー(フランス)
- ゲジェコンドゥ
- ファヴェーラ(ブラジルにおける貧民街)
- トンド・ スモーキー・マウンテン(フィリピン・マニラ)
- スモーキー・バレー(フィリピン・ケソン)
- タルトンネ・板子村(韓国)
- プルーイット・アイゴー - ニューヨーク世界貿易センタービルの設計者として有名なアメリカの建築家ミノル・ヤマサキの初期の代表作。都市計画の失敗例として有名。
- ハーレム (ニューヨーク市)
- サウス・セントラル
- 貧困の文化
- 都心の荒廃
- ドヤ街 - “ドヤ街”とスラムとは住民構成も社会的課題のあり方も異なっており、混同されてはならない。