日本家屋

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日本家屋
日本家屋

日本家屋とは、近年までほとんどが木造木造軸組構法、在来工法)の平屋か2階建で、のある部屋(和室)を中心に造られてきた。第二次世界大戦後、特に高度成長期以降は、生活スタイルや工法の急激な変化に伴い、住宅も大きく変貌している。生活スタイルとして、和室を造らない場合も多くなっており、工法として、集合住宅(中高層・超高層)では鉄筋コンクリート造鉄骨造のもの、低層の戸建住宅でも鉄筋コンクリート造やプレハブ工法等のものが多くなっている。

本項では、今日一般的になっている洋風の住宅との比較を念頭に、日本の伝統的な住宅(和風住宅)を中心に記述する。

家具については日本の文化(生活)を参照。

日本住宅史

  • 原始・古代(竪穴住居、高床式住居)
  • 平安時代には貴族の住まいとして寝殿造が成立した。庶民の住居は相変わらず竪穴住居が主流であった。
  • 鎌倉時代の武士の住まいは武家造と呼ばれることもあるが、今日では書院造の初期形式と考えられている。

上層の住宅

日本家屋

今日の和風住宅の原型が成立したのは鎌倉時代から室町時代にかけてである。鎌倉時代の鎌倉では、急速な都市化の結果、それまでの地方武士住宅の接客室であったデイが変化して、「座敷」と呼ばれる接客室が成立した。これが和室の原型となるが、当時は広い部屋ではロ字型に畳を敷いており、敷き詰めてはいなかった。その後、東山文化の時代(応仁の乱前後)になると足利義政の邸宅内の建物であった銀閣寺の東求堂のように、畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られた書院造と呼ばれる様式が生まれた。

織田信長による天下統一は、住宅史上も画期になったと考えられる。信長の安土城や、豊臣秀吉大坂城などで、身分の序列を著し権力者の威厳を示すため、安土桃山風と呼ばれる豪華な書院造が完成した。家臣は城下町に住むよう命じられ、狩野永徳洛中洛外図屏風などから、都市建築(町屋侍屋敷など)も発達してきたことが伺える。書院造は、江戸時代を通じて武家住宅および上層民家の様式として使用された(床の間のある座敷を持つことが身分の指標となった)。

一方で、江戸時代初期には茶室の要素を採り入れた、いわゆる数寄屋造り(数寄屋風書院)の住宅も生まれ、別荘や一部の町屋に用いられた。

庶民の住宅

日本家屋

中世の絵巻物などに見る庶民の町屋はまだ非常に簡素なものが多かったが、江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していった。大まかに言えば、関西の住宅の方が質が高く、次第に関東にも広まっていった。近世初期、関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かった。工法も掘立柱を立て、茅で屋根や壁を葺くものであった。

農家も次第に発展し、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝のための部屋が造られていった。工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わり、高い技能を持った職人が建設するものになった。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かった。江戸時代後期以降、「田の字型」の間取りが広く普及していった。この間取りは結婚、葬儀など人が集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせてふすまを開け閉めして用いた。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものは、「田の字型」のタイプが多い。

江戸時代には贅沢を諌めるため、床の間や瓦葺屋根などは制限されていた。武士の住まいでは、式台、床の間が許され、農家でも名主クラスだと床の間が許される、といったように身分による統制が行われていた。ただ、防火のため瓦葺屋根が奨励されたり、義務付けられた町もある。

近代の住宅

明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになった。欧米から伝来した西洋建築に対し、日本在来の伝統的な様式を踏まえた建築は和風建築としてまとめられるようになる。大工道具の質も上がり、明治宮殿建設などの大規模な公共事業を通して職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していった。

明治時代には、他の分野と同様に住宅においても「近代化=西欧化」の動向が進むが、実際に洋風の住宅(西洋館)を建てるのは、政治家、実業家など限られた階層の一部の者に限られ、その場合でも、ふだんの生活は併設された和風住宅で行う場合が多かった。明治後期から昭和初期の富裕層により立てられた住宅建築は、当時の日本の豊富な木材と職人の高い技術に支えられ、最も優れた品質を持っている。

大正時代以降、サラリーマン、都市知識人ら都市部の中流層が洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外にも多く造られるようになった。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。これは関東大震災後のモダンな集合住宅である同潤会アパートや、都心部の店舗兼住宅(看板建築)でも同じである。

現代の住宅

第二次世界大戦中の空襲で、都市部では住宅が大量に失われた。戦後、住宅難の中で質の低いバラックが大量に建設され、公団住宅など、大量供給型の住宅が造られた。合理的な生活を目指してダイニングキッチンなどが新たに工夫された。戦前の住宅は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致のものが多かったが、戦後はサラリーマンの増加により、職住分離の方が主流になっている。

高度経済成長期に入ってからも住宅需要の増加は続き、木材資源の逼迫のなかで安価な住宅を大量に供給することが求められ、モルタル合板の利用が激増した。日本のふんだんな木材と,高い技量の大工に支えられていた伝統工法は、筋交いや金物(ボルト・ナットなど)を用い、使用する木材量が少ない在来軸組工法に取って代わられ、都市部の住宅の品質や職人の技量は全体的に低下していく。

1970年代からはプレハブ住宅が普及し、住宅の工業製品化が進んだ。鉄骨構造鉄筋コンクリートの住宅が増え、木造軸組工法の住宅にもプレカット材が使われるなど、近年の日本の住宅は伝統的な工法からは大きく隔たったものになっている。

1960年に木材の輸入が自由化されてからは、扱いに相応の技能が要求される国産材はしだいに敬遠されがちとなり(乱伐により良質な国産材資源が枯渇したこともある)、安易に施工できる輸入木材が主に使われるようになった。

今日では洋風の住まいが普及し、日本の生活習慣は欧米の影響を強く受けた形に変化した。欧米からの輸入住宅も少なくない。建材としては、従来の日本建築には欠かせなかった漆喰和紙などはあまり用いられなくなり、サイディングアルミサッシコンクリートブロック、石膏ボードなど1960年代以前にはなかった建築材料が多く用いられる。これに伴い住宅の高気密化や品質の均一化が進んだが、シックハウス症候群などの問題も発生している。かつて(近代以降)床の間のない家というのはよほど粗末な住宅以外には考えられなかったが、新築の家は、和室はあっても床の間がない場合が多くなっている。

住宅の種類

住居の構成・間取り

屋外

その他

備考

関連項目

外部リンク

== 日本家屋の画像]] 日本家屋3.jpg


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