慶應義塾 (幕末維新期)

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ファイル:Edo Atagoshita Shinzenza 1860.jpg
図中央に有馬家控屋敷(有馬侶四郎)とあるのが慶應義塾にあたり、東には浜御殿がある。江川英龍の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。
尾張屋清七版芝愛宕下絵図

幕末維新期之慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、安政5年(1858年)10月中旬江戸築地鉄砲州(現・東京都中央区明石町)中津藩江戸藩邸中屋敷内で、同藩士福沢諭吉による蘭学教授が開始されてから明治3年(1871年新銭座の校地を三田島原藩中屋敷跡地へ移転するまでの過程及び前史を扱う。

沿革

慶應義塾の成立

18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われ、明和8年(1771年)には青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった[1]。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した蘭学塾が慶應義塾の原点である。その後藩主が変わり、中津藩では主に国学・漢学が重視されており、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられ、三重津海軍所を設置した鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩からは立ち遅れた状況にあった。

幕末中津藩江戸藩邸では、当主・奥平昌服江戸汐留上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った奥平昌高中屋敷に隠居所を構えていた。昌高は蘭癖大名と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』(『中津辞書』)の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに統計学者として有名になる杉亨二が中津藩に招かれ、中屋敷において藩士に蘭学教授を行っていた。ところが、1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリー黒船来航による米国の開国要求に対する幕府の諮問をめぐって、昌高が7月に開国論を、翌月当主の昌服が鎖国論を上申したことで、藩内における両派の対立が明らかになり、杉の辞任騒ぎを引き起こした。このとき、中津藩砲術師範を務めていた佐久間象山のもとで西洋砲術を学んだ中津藩士・岡見彦三は、蘭学教育の継続を強く望み、知人の薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に、安政2年の大地震(安政の大地震)で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地小田原町の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は参勤交代による藩主の就国に侍医として随行することになり、教授を続けることが出来なくなった。そこで当時大坂適塾で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福沢は藩から江戸での蘭学教授を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。

前期鉄砲州時代

1858年(安政5年)、中津藩より江戸築地鉄砲州(現・東京都中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、岡本周吉(古川正雄)・足立寛原田磊蔵らと共に同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡(安政5年11月23日付宛名未詳)によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福沢は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の長屋を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や今泉みねの回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝(大阪府仮病院医員)、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。

福澤諭吉の渡航

安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 で渡米することとなり、軍艦奉行木村摂津守の従者として、咸臨丸で渡米。二度目は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪。慶応3年(1867年)には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。

前期新銭座時代

文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座(現東京都港区浜松町)の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲州から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福沢は既に江戸定府の中津藩士となり、幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳(入社張)の記録がはじまったのは、文久3年(1863年)の春からである。

後期鉄砲州時代

文久3年秋から1867年(慶応3年)末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福沢も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」[2]といい、幕府の学問所と同等の水準があった。

紀州塾

後期鉄砲州時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲州時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[3]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称してゐた[4]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている[5]。また、維新後の和歌山における慶應義塾を範にとった変則中学の展開や、中井芳楠 ・長屋喜弥太が創設した私塾自修社(後の自修学校)、同地の義田結社「徳義社」の結成など、紀州藩との密なる関係がみてとれる。

後期新銭座時代

慶応4年1月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲州一帯が外国人居留地に指定され、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。慶応4年には元号をとって『慶應義塾』と命名。同年四月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。授業は既に七曜制を用い、教科も(修心論・経済・歴史・地理・窮理・算術・文典)などを設置、「数理」を基本とした授業体系を確立した。1865年(慶応元年)頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している立田革の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾(江川太郎左衛門)・下谷箕作塾(箕作家)其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、元治元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ九州出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行した。

三田移転

福沢が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や吉田賢輔の上杉麻布邸、柏木忠俊の斡旋による江川太郎左衛門長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった[6]。移転後芝新銭座の校地を近藤真琴攻玉塾へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』(港区浜松町)の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒江木鰐水も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、(中略)而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗」と嗟嘆している。

医学教育

新銭座時代から慶應義塾医務部が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。近藤良薫(のちの横浜十全病院長)・安藤正胤印東玄得(のちの大学東校教授)・田代基徳(のちの軍医医監、陸軍軍医学校長)・栗本東明(長崎病院眼科医長兼内科医長)といった医学者を育てている。

関係人物

年表

関連項目

参考文献

外部リンク

脚注

  1. 飯田鼎 (1984) 飯田鼎 [ 福沢諭吉――国民国家論の創始者 ] 中公新書722 中央公論社 1984 3 4-12-100722-0
  2. それらの図書の内容は、経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった
  3. 石河幹明・前揚第一巻
  4. 「慶應義塾七十五年史」210項
  5. 紀州塾
  6. 栗本の修業日誌
  7. 適塾と緒方洪庵
  8. 岡見彦三

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