「青木一男」の版間の差分
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追放解除後は[[信越放送]]の顧問を務めていたが[[1968年]]に長野県第二の民間放送会社[[長野放送]]が設立されると初代の会長に就任。[[1980年]]の引退まで勤めている。翌81年秋に回顧録『わが九十年の生涯を顧みて』([[講談社]])を刊行している。 | 追放解除後は[[信越放送]]の顧問を務めていたが[[1968年]]に長野県第二の民間放送会社[[長野放送]]が設立されると初代の会長に就任。[[1980年]]の引退まで勤めている。翌81年秋に回顧録『わが九十年の生涯を顧みて』([[講談社]])を刊行している。 |
2010年8月12日 (木) 08:39時点における最新版
青木 一男(あおき かずお、1889年11月28日 - 1982年6月25日)は、昭和期の日本の男性政治家・財務官僚。元大蔵大臣・大東亜大臣。1971年勲一等旭日大綬章受章。娘婿に加藤一郎(元東大総長)。小宮山洋子は孫(加藤一郎の娘)。露天商団体顧問。A級戦犯。
来歴・人物[編集]
長野県更級郡大岡村(現・長野市)の農家に生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現・長野県立長野高等学校)に進学する。その後第一高等学校を経て、1916年に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。
預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、国庫課長、外国為替管理部長を歴任し、1934年理財局長となる。賀屋興宣・石渡荘太郎とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、廣田内閣蔵相の馬場鍈一による人事により対満事務局次長に転出する。1937年近衛文麿首相の要請により、企画院の創設に携わり次長に就任、1939年には総裁となる。同年貴族院議員に勅選される。
1939年、阿部内閣にて大蔵大臣兼企画院総裁として初入閣する。その後汪兆銘政権への特派大使顧問として南京に赴任し、経済政策を指導する。1942年には東條内閣にて初代大東亜大臣に就任し、大東亜会議等の施策に携わる。
戦後はA級戦犯容疑者として収容されるも、1948年釈放される。その後は弁護士を務める。追放解除後の1953年、第3回参議院議員通常選挙に自由党から全国区にて立候補し当選する。以後当選4回。
石井派に所属し、参院予算、大蔵、内閣各委員長や、自由民主党参院議員会長を歴任した。1960年には千葉三郎・木村篤太郎らとタカ派グループ「素心会」を結成、親台湾派の立場から日中国交回復に激しく反発した。また高速道路網の構築に情熱を傾け、特に中央自動車道の建設実現に大いに貢献した。
追放解除後は信越放送の顧問を務めていたが1968年に長野県第二の民間放送会社長野放送が設立されると初代の会長に就任。1980年の引退まで勤めている。翌81年秋に回顧録『わが九十年の生涯を顧みて』(講談社)を刊行している。
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