「自民党の歴史」の版間の差分
細 |
細 |
||
63行目: | 63行目: | ||
{{DEFAULTSORT:しみんとうのれきし}} | {{DEFAULTSORT:しみんとうのれきし}} | ||
[[Category:自由民主党|れきし]] | [[Category:自由民主党|れきし]] | ||
+ | [[Category:日本の政治史]] |
2009年11月8日 (日) 15:31時点における版
鈴木貫太郎→東久邇稔彦内閣
大東亜戦争が敗北必至となり、敗戦処理内閣として鈴木貫太郎内閣が組閣された。終戦の前日8月14日鈴木貫太郎内閣は、降伏決定の手続き終了後、戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍需用保管物資の緊急処分」を指示した後、翌8月15日総辞職した。
未曾有の国難に遭遇し、昭和天皇は皇族の東久邇宮稔彦に白羽の矢を立てた。「陛下は非常にやつれておられまして、重苦しい言葉で、次期総理をやってくれ、と頼まれた」と伝えられている。こうして、8月17日東久邇宮内閣が成立した。日本占領軍のスムーズな受け入れと引き続いての敗戦処理が目的の内閣となった。 近衛文麿、緒方竹虎、木戸幸一らが閣僚の人選に当たり、近衛文麿が副総理格として国務大臣、外相には近衛文麿元首相らの意向により重光葵が就任した。陸相は東久邇宮が兼任、海相は米内光政、内務山崎巌、大蔵津島寿一等々の布陣となった。
東久邇内閣の政治理念は、憲法の改正の必要は夢思わず、明治憲法と五箇条のご誓文の運営を民主化していけば、ポツダム宣言の履行には何ら支障をきたさないとの見通しで万事処すことにあった。GHQ指令が矢継ぎ早に為され、この内閣の下で、①.終戦手続き、②.内外の陸海軍の武装解除による非軍事化、③.非軍事化の徹底のための民権自由化、④.治安維持法の廃止、⑤.政治犯罪人の釈放、⑥.特別高等警察制度の廃止などが行われた。
8月28日東久邇首相は、内閣記者団との初会見で、「国体護持ということは理屈や感情を超越した、かたい我々の信仰である」と言明して、あらためて「国体護持」を内閣の基本方針に据えていることを表明した。この時東久邇首相は、「一億国民総懺悔」を説いた。「この際私は軍、官、民の国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと思う。全国民総懺悔することが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」と述べた。
この「一億国民総懺悔」は少々意味深であり、今日よりすれば戦争指導者の責任を曖昧にしたままの戦後再建への決意宣言とみなせるが、当時の国民心情としては「国を守れなかったことを天皇にお詫びするという気持ちが込められた天皇への国民的謝罪」という意味も込められていたようである。「当時の自分の心境にぴったりくる言葉だった」と云う者もある。
朝日新聞が8月30日の社説で、「まさに一億総懺悔のとき、しかして相依り相たすけて民族新生の途に前進すべきときである」と呼応した。こうして戦争責任の追及に向かう流れがマスコミリードで阻止されていった形跡がある。それを良しとする国民の一般的気分があったとも云えるのかも知れない。新聞は国体の自尊心と体面を考慮してか、敗戦という表現を使わずに終戦と報道していた。占領軍は進駐軍と表現される等新用語が発明された。
9月2日降伏文書に調印。午前9時、日本政府は東京湾上横須賀の沖合い29キロに停泊する米艦ミズーリ号上で「降伏文書」に調印した。法的な意味での終戦がここに完結したことになる。日本全権は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長他文官4名.武官7名が任に当たった。この随員選考は、東久邇宮首相が近衛文麿国務相、木戸幸一内大臣、緒方竹虎書記官長と相談して為されたとある。
マッカーサーの約3分の演説の後、重光と梅津、連合国代表としてマッカーサー、次いで連合国各国代表が署名して式は終わった。米、中、英、ソ、豪、カナダ、仏、蘭、ニュージーランドの順に署名して調印式は終了した。この時、92年前にペリー提督が日本に開港を迫ったとき、戦艦ミシシッピー号に掲げられていた星条旗が式場に運び込まれていたといわれている。
文書には、「連合国に対する無条件降伏を布告す」、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるものとす」と記載があり、こうして日本は連合国軍占領統治下に国家主権が置かれ、天皇の権限もマッカーサー元帥の制限下に置かれることとなった。敗戦の帰結であり、こうして以後正式にGHQが超法規的に戦後日本の君臨と統治にあたることになった。
9月17日重光葵外相は、大命を果たして後、終戦連絡事務所の所轄を廻って外務省内に置こうとする重光外相と、内閣直属機関として位置付けようとする緒方竹虎国務省が対立し、これが為に辞任となった。この両者は戦時中にも小磯国昭内閣の下で衝突しており、いわゆる肌が合わない関係であった。東久邇首相は重光更迭理由を日記に概要「一つは終戦連絡事務局は、重光の主張によって外務省に置き、人員は主として外務省関係の人々で組織したが、その仕事振りがあまりに官僚式で、事務が進行せず、後手後手になって、各省及び民間からも、その無能についての不満の声が高かったので、これを内閣直属として、民間人を入れて改革しようとした。重光はこの改革案に反対して外務大臣を辞任するといった」と記している。GHQの圧力説もある。
後任には吉田茂氏が就任した。これが吉田氏の戦後史上の初登場となった。敗戦国日本の再建は、この吉田の手腕で見事に切り盛りされて行くことになる。
吉田茂のプロフィールは次の通り。土佐の生まれで生家は竹内。横浜の貿易商として成功を治めた吉田家に養子。外務省に入り、外交官として長らく働いた。特に英国大使としてのロンドン生活の影響が大きい。土着的な武士道精神に西欧型の民主政治と教養を添えた。戦前の外務省の高級官僚であり、過ぐる日の開戦の阻止に懸命となり、戦争突入後は終戦工作に動き、東条内閣の打倒を謀って逮捕された反軍思想経歴を持っている。軍部とりわけ陸軍に睨まれ特高スパイに尾行されていた。岳父牧野伸顕。敗戦を向かえて、そういう吉田の過去の働きが評価されて戦後処理の人材として登用されてきたということであり、歴史の舞台の陰陽が回ったことになる。政界の大物連が戦犯指名の悪夢におびえている時、全くスネに傷のない気持ちでのこのことお濠端のGHQに出かけてゆき、渉外事項を折衝して帰ってくるのは吉田だけだったと伝えられている。この吉田がこの後首相として戦後政治の指導者として台頭、君臨していくことになる。
幣原喜重郎内閣
東久邇内閣は、GHQより山崎内相の罷免要求が為されたことにより総辞職を余儀なくされることになった。敗戦の混乱下の在職50余日の命運となった。後継首相の人選は、木戸幸一内大臣が天皇の命を受け、近衛文麿、平沼棋一郎枢密院議長.藤田侍従長ら天皇側近と協議した結果、吉田外相の推挙していた幣原に的を射た。吉田は、「私の先輩である幣原は老齢であるが、私が出馬を懇請すれば必ず起ってくれるだろう」と述べ、10月6日早朝世田谷の草深い一角に焼け残っていた幣原邸を訪ね総理就任方を促した。 幣原は、満州事変の勃発直後に軍部と衝突し外務大臣の職を辞しており、以来蟄居して隠居していた。政界から遠ざかったとはいえ、貴族院の有爵議員として議会が開かれると議事に参加していたが、戦時色の濃い当時の雰囲気にあって愁眉のうちにあった。既に歴史の塵埃の中に埋もれていた感があったが、この時73歳の老体に関わらず国難に際して身に鞭打ち、14年ぶりの表舞台への登場となった。概要「陛下は私に、内閣組閣の大命を下しになった。私は自信が無かったからご勘弁願ったが、いかにもご心痛のご様子が拝察され、事ここにいたって生命を投げ出してもやらねばならぬと心に誓うに至った」。
こうして東久邇宮内閣の後継を受けて10月9日幣原喜重郎内閣(1945年10月9日~46年4月)が成立した。この当時はまだ選挙の洗礼を受けない「超然内閣」であった。占領軍との折衝を担当する外相には吉田茂が留任した。この首相交代劇について、マッカーサーは、「天皇は、東久邇首相と叔父・甥の親族関係は占領軍が行ういろいろな改革に有害だと感ぜられ、首相は日本で最も尊敬され、且つ経験豊かな外交官の一人である幣原男爵と交代した」と述べ、天皇の気持ちを利用する形で歓迎している。
幣原内閣の成立は、戦後のフランスやイタリアで、共産党を含む諸勢力による政権の樹立、ドイツでもナチス戦犯を時効無しに追求する態度から新内閣が組閣されたことと比較すれば、反軍部的であったとはいえ戦前の支配層の中から首相が選出されたことになり、日本的な特徴としての政治的後進性を示しているものとして注目されるであろう。
マッカーサーは就任早々の幣原首相に対して憲法改正に着手するよう示唆している。他に東久邇宮内閣の国務大臣近衛文麿公爵に対しても開明的な憲法草案作成を指示したようである。この内閣の下で平行して「五大改革要求」が為された。「五大改革」とは、①.参政権の賦与による婦人の解放、②.労働組合の組織奨励、労働者の団結権の保障、③.圧制的司法制度の廃止、④.教育の自由主義化、⑤.経済の民主化、独占産業支配の是正であった。
この時衆議院議員の選挙法改正に着手している。婦人参政権賦与、選挙年齢の引き下げ、大選挙区制の2名連記制、3名連記制採用を骨子とする改正案が纏められ、11月27日開かれた第89臨時帝国議会で、選挙法改正案が制定され、12月17日公布された。これによって、満20歳以上の男女普通選挙権が認められることになった。
戦後保守政党の歩み
日本の戦後政治は、太平洋戦争の終結と、連合軍(GHQ)による占領政治の開始とともに、その幕をあけた。GHQは、新統治システムの導入に関する諸施策を次から次へと講じていった。その間、戦犯容疑者の逮捕が続き、いわば戦前の支配階級は戦々恐々総蟄居を余儀なくされることになった。そうした状況に立て合うかのようにして戦前抑圧されていた社会党、共産党、婦人活動、労働組合、農民運動を基盤とする左派運動が再生されていった。
左派運動にやや遅れて戦後保守政党の歩みが11月頃より始まっている。11月9日戦時中の翼賛選挙に非推薦で当選していた鳩山一郎を中心とする旧政友会系の政治家たちによって「日本自由党」が結成された。総裁に鳩山一郎、幹事長に河野一郎、政調会長に安藤正純が就任した。その他松野鶴平、芦田均、星島二郎、菊池寛ら15名が創立準備委員であった。
結党時、右翼の大物然としていた児玉誉士夫が鳩山に資金提供し、これを河野が換金したのが党資金になった。児玉誉士夫率いる機関は、戦時中に上海で海軍航空本部の軍需物資を調達していた秘密組織であり、終戦と共に児玉はダイヤモンド.プラチナなど7000万円相当などの残存物資を東京に運び込んでいた。それが鳩山一郎らの自由党設立の資金にあてられており、以来、児玉と政界トップとの間に太いパイプが出来た。
日本自由党は、天皇制の護持、私有財産制の擁護を詠い、「自主的にポツダム宣言を実践し、軍国主義的要素を根絶し、世界の通義に則って新日本の建設を期す」等の綱領を掲げて出発した。「人権を尊重し、婦人の地位を向上し、盛んに社会政策を行い、生活の安定を期す」の項目も掲げられていた点で、戦前型と少し異なるイデオロギーを挿し木しており様相を変えていた。日本自由党が結党に至るまでの一時期、無産党の平野力三、水谷長三郎、西尾末弘らも寄り合いしていたことから明らかなようにややリベラル傾向を持つ保守党として位置していた。
戦時中の主流派であった大日本政治会(翼賛政治会)は9月14日解散させられたが、この旧大日本政治会系議員たちによって11月15日「日本進歩党」が党首未定のまま結成された。当初宇垣一成の総裁擁立が画されたが結局12月18日旧民政党総裁町田忠治が総裁、幹事長に楢橋渡が就任した。「国体を護持し、民主主義に徹底し、議会中心の責任政治を確立す」等の綱領が掲げられた。この時点では最も保守的な色彩の濃い政党として位置していた。
12月18日「日本協同党」(委員長山本実彦)が結党された。「民主主義.協同主義.農業立国に基づく食料自給体制の確立」が綱領に掲げられた。協同組合主義の千石興太郎、酪農家黒沢酉蔵、船田中、井川忠雄らが結集していた。
これらの政党は「国体護持」を掲げていたことに共通項があり、これを戦後保守系の歩みと見なすことができる。してみれば、戦後保守系は三グループが鼎立して始発したということになる。戦後保守系にとってこの後10年間、1955(昭和30)年自由民主党が結党されるまでの間は、苦難多難な時期となった。終戦後の社会的・経済的混乱、急激な民主的改革という奔流に棹差して見るものの、前門にGHQ権力が聳(そび)え、後門に左派勢力が喧騒しており、不自由を強いられることになった。
自民党の歴史 2へ続く