「大東亜戦争」の版間の差分
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1937年(昭和12年)に勃発した[[支那事変]](日中戦争)において、[[日本政府は現地解決・不拡大方針など事態を最小限で収拾しようと試みた]]が大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や226事件以後から行われるようになった軍隊による政治干渉などの内政的な不安に加え[[大紅門事件、蘆溝橋城中国軍発砲事件、郎坊事件、広安門事件、大山中尉殺害事件、第二次上海事変など度重なる中国軍側による挑発・攻撃行動が発生、通州事件(中国共産党の停戦妨害工作の一つとして行われた在中日本人大虐殺事件)などが発生し在中邦人への危険性が迫った]]ことなどから軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展してしまった。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を撹乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。支那事変の戦線は伸び未曾有の長期戦に陥っていた。 | 1937年(昭和12年)に勃発した[[支那事変]](日中戦争)において、[[日本政府は現地解決・不拡大方針など事態を最小限で収拾しようと試みた]]が大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や226事件以後から行われるようになった軍隊による政治干渉などの内政的な不安に加え[[大紅門事件、蘆溝橋城中国軍発砲事件、郎坊事件、広安門事件、大山中尉殺害事件、第二次上海事変など度重なる中国軍側による挑発・攻撃行動が発生、通州事件(中国共産党の停戦妨害工作の一つとして行われた在中日本人大虐殺事件)などが発生し在中邦人への危険性が迫った]]ことなどから軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展してしまった。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を撹乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。支那事変の戦線は伸び未曾有の長期戦に陥っていた。 | ||
− | [[劣勢にあった蒋介石は国際世論(欧米世論)を味方につけるために国民党中央宣伝部国際宣伝処]]<ref>東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、2006年、ISBN479421488X</ref>[[を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。(いわゆる「[[南京大虐殺]]もその一つ」)]]これに対しニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し支那事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『'''Poor China(可哀想な中国)'''』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになった。[[ | + | [[劣勢にあった蒋介石は国際世論(欧米世論)を味方につけるために国民党中央宣伝部国際宣伝処]]<ref>東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、2006年、ISBN479421488X</ref>[[を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。(いわゆる「[[南京大虐殺]]もその一つ」)]]これに対しニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し支那事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『'''Poor China(可哀想な中国)'''』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになった。[[また中国大陸に大きな権益を持っていたイギリス、満洲(石井・ランシング協定)以来大陸進出の機会を窺っていたアメリカは日本による中国大陸の平定とそれに伴う中国の覚醒が欧米諸国が支配していたインドやアジア・アフリカなどの植民地に影響を及ぼすのを警戒し撤兵を求めた。]]一方、日本は1940年(昭和15年)9月27日にドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、一層日米関係を悪くする結果となった。 |
; '''第2次欧州戦線の勃発と欧米の情勢''' | ; '''第2次欧州戦線の勃発と欧米の情勢''' | ||
− | + | 1939年、ドイツ第三帝国がポーランドに侵攻したことによって欧州では第2次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国がナチズムの台頭を阻む砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定<ref>協定はアメリカが参戦した場合の米英統合の戦略を定めたもので、ドイツを打倒を第一として、その後に対日戦に入るとした</ref>を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にも関わらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった<ref>当時、ホワイトハウスの前では反戦運動家や婦人団体、孤立主義者達がイギリスと蒋介石を援助するルーズベルトを批判するデモ活動が盛んに行われていた</ref>。[[もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。そんな中、ドイツと同盟関係にあり、中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めてきた。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となると共に、第一撃を日本に加えさせ<ref>ルーズベルト大統領の側近ハリー・ロイド・ ホプキンスは解読された暗号文を読み、「我々が第一撃を加えて第一撃を阻止できないことは残念だ」といったとされる</ref>ことで、国内の孤立主義派を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えられた]]<ref>アメリカ合衆国の真の敵は、欧州で膨張するナチス・ドイツであり、日本を過小評価していたこともあって、ここまで太平洋戦線が拡大するとは予想していなかったといわれる。出典:太平洋戦争研究会編著、『オール図解30分でわかる・太平洋戦争戦争-太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて-』、2005年7月29日初版 ISBN 4-807-499181</ref>。 | |
; '''日米交渉の決裂と南進論の活発化''' | ; '''日米交渉の決裂と南進論の活発化''' |
2009年5月28日 (木) 22:47時点における版
大東亜戦争(だいとうあせんそう)とは大東亜戦争(だいとうあせんそう、Greater East Asia War)は、大日本帝国時代の日本政府が、対米英開戦後に支那事変(日中戦争)を含めた連合国との戦争である。
呼称と期間について
「太平洋戦争」という呼称は、被占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策における検閲(「大東亜戦争」の語を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせた)によって定着した名称であり、当時の日本側の公式な呼称は「大東亜戦争」である。現在の日本政府は「太平洋戦争」と「日中戦争」(支那事変)と区別し呼んでいる。なお、「太平洋戦争」あるいは「大東亜戦争」はその期間を巡って当初より議論がある。
イギリスでは「War with Japan(対日戦争)」と呼ばれ、アメリカでは「Pacific Theater(日本語に訳せば太平洋戦域)」という術語が広く使用された。