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− | ** | + | **[[ソ連]]政府によって、在ソ日本領事館の日本軍将校による情報収集活動が制限されるようになったため、1934年(昭和9)に中央部が[[クリエル制度]]を発足させ、現地のハルビン機関も文書諜報、[[哈特諜]]、[[白露事務局]]、[[特殊住民地]]、[[森林警察]]制度を発足させるなどして、ソ連側の国境封鎖による情報遮断に対処しようとした{{Sfn|中野校友会|1978|p=18}}。 |
*1936年(昭和11)8月、対ソ兵備強化のための[[関東軍]]・参謀本部の大改編のとき、中佐に進級し、参謀本部付勤務となる。参謀本部ロシア課(ロシア語班長・文書諜報班長、第2部第5班長)に転じ、[[上海]]の[[エージェント]]を統制しながら、中央部の諜報活動に従事。組織的な諜報要員の育成に関心を持ち、要員育成機関の設立に影響を及ぼした。{{Sfn|中野校友会|1978|p=18}} | *1936年(昭和11)8月、対ソ兵備強化のための[[関東軍]]・参謀本部の大改編のとき、中佐に進級し、参謀本部付勤務となる。参謀本部ロシア課(ロシア語班長・文書諜報班長、第2部第5班長)に転じ、[[上海]]の[[エージェント]]を統制しながら、中央部の諜報活動に従事。組織的な諜報要員の育成に関心を持ち、要員育成機関の設立に影響を及ぼした。{{Sfn|中野校友会|1978|p=18}} | ||
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秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年4月6日 - 1949年3月22日)は、日本陸軍の情報将校。陸士26期。近衛歩兵第1連隊に配属され、1918年にシベリア出兵に従軍。1926年に東京外国語学校に入学してロシア語を学ぶ。1933年にハルピン特務機関に配属され、日本とソ連の関係が緊張する中で文書諜報など独自の諜報活動を展開し、参謀本部の諜報政策に影響を与えた。1937年に陸軍省兵務局付となり、諜報要員を育成する後方勤務要員養成所の創設に関与。1940年3月、在ドイツ星機関長、1945年2月関東軍情報部長・ハルビン機関長。1949年、ソ連抑留中に死去。
経歴[編集]
以下、特に断わりのない場合の出典は、中野校友会 (1978 19)。
- 1894年(明治27)4月6日、群馬県山田郡矢場川村(栃木県足利市)荒金に生れる。
- 陸軍士官学校26期卒業生。
- 1914年(大正3)12月 歩兵少尉、近衛歩兵第1連隊付
- 1918年(大正7)7月 中尉。シベリア出兵に従軍し、白軍の頭領・セミヨノフ将軍に深く関わる。
- 1924年(大正13)3月 大尉
- 1926年(大正15)4月 陸軍委託学生として東京外国語学校に入学。
- 1927年(昭和2)3月 同校ロシア語科修了と共に、ハルピンに留学。
- 1928年(昭和3)4月 参謀本部付勤務
- 1930年(昭和5)8月 参謀本部付
- 1932年(昭和7)4月 少佐、陸軍士官学校付
- 1933年(昭和8)3月 ハルピン特務機関補佐官。在任中、文書諜報など、独自の組織的情報活動を展開し、参謀本部第2部ロシア班に影響を与えた[1]。
- 1936年(昭和11)8月、対ソ兵備強化のための関東軍・参謀本部の大改編のとき、中佐に進級し、参謀本部付勤務となる。参謀本部ロシア課(ロシア語班長・文書諜報班長、第2部第5班長)に転じ、上海のエージェントを統制しながら、中央部の諜報活動に従事。組織的な諜報要員の育成に関心を持ち、要員育成機関の設立に影響を及ぼした。[1]
- 1937年(昭和12)陸軍省兵務局付。
- 1938年(昭和13)8月 後方勤務要員養成所長
- 1939年(昭和14)3月 大佐
- 1940年(昭和15)3月 在ドイツ(ベルリン)星機関長(満州国公使館理事官の身分兼ワルシャワ総領事)
- 1942年(昭和17)12月 第4国境守備隊長(混成旅団東部満ソ国境・虎頭)
- 1943年(昭和18)8月 少将
- 1945年(昭和20)2月 関東軍情報部長(ハルピン機関長)
- 1949年(昭和24)2月 ソ連に抑留。同年3月22日、モスクワ郊外のウラジミール監獄病院において死去。(享年54)
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 中野校友会 1978 18
- ↑ 中野校友会 1978 19
- ↑ 中野校友会 1978 22-23
参考文献[編集]
- 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730