「片桐助作 (1851年生)」の版間の差分

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1875年(明治8)11月下旬、東京で[[尾張徳川家]]第16代当主・[[徳川義宣]]が死去。連絡を受けて、旧藩士とともに上京し、[[吉田知行]]、[[小瀬新太郎]]、[[内田文三郎]]、[[間宮六郎]]、[[角田弘業]]、[[佐治治為]]らと継嗣問題について相談。徳川義勝が再度家督を継ぐことになり、小瀬が家令に、内田と吉田が家扶を命ぜられ、片桐も間宮を通じて任官された。{{Sfn|片桐|安藤|1994|pp=52-54}}
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1875年(明治8)11月下旬、東京で[[尾張徳川家]]第16代当主・[[徳川義宜]]が死去。連絡を受けて、旧藩士とともに上京し、[[吉田知行]]、[[小瀬新太郎]]、[[内田文三郎]]、[[間宮六郎]]、[[角田弘業]]、[[佐治為泰]]らと継嗣問題について相談。徳川慶勝が再度家督を継ぐことになり、小瀬が家令に、内田と吉田が家扶を命ぜられ、片桐も間宮を通じて任官された。{{Sfn|片桐|安藤|1994|pp=52-54}}
  
 
===北海道開拓===
 
===北海道開拓===

2020年2月9日 (日) 18:19時点における版

片桐 助作(かたぎり すけさく、1851年6月26日-1918年2月11日)は、尾張藩士、尾張徳川家家職。同家第14代当主・徳川慶勝に見出されて、同家の北海道開拓地を選定、1884年から現地・八雲村に赴任して開拓の指導にあたったことで知られる。1891年に名古屋に戻り、以後も同家事務所の中心人物として、世襲財産・所有地の管理や名古屋大曽根徳川義礼邸の建設を行い、退職後は同家の御相談人として、什宝の整理に携わった。

名乗りは直香で、明治の初期には伯固源果と号し、中国風に桐伯固と名乗ることもあった。小鳥町の屋敷が江川端にあったことに因んで頴川(えいせん)を雅号とした。[1]

経歴

生い立ち

嘉永4年5月27日(1851年6月26日)、小鳥町(名古屋市中区)に生まれる[2]片桐且元の子孫にあたる家柄で[3]、先祖の幼名にちなんで「助作」と命名された[2]。きょうだいは居なかった[4]

文久2年(1862)、明倫堂に進学。同年生まれで、同年に明倫堂に進学した海部昂蔵とは後年まで親交があった。高学年になってからは、下級生のために先生に代わって教鞭をとったという。[5]

儒学者細野要斎に師事した[6][7]

戊辰戦争

慶応3年(1867)、朝廷幕府の対立が深まり、尾張藩主・徳川慶勝が朝廷に召喚された際には、勤王党田宮如雲が慶勝に付き従うことを支持。明倫堂の生徒が随行することについて督学に許しを求めたが許されなかったため、名古屋城国老から直接許しを得て、京都守護に任じられ、御所に寝泊りした。[8]

慶勝が京都から名古屋へ戻り、佐幕派を粛清した際には(青松葉事件)、その場にいて刀を濡らすための水桶を運んだりしていた[9]

明治元年(1868)4-5月、戊辰戦争越後長岡城攻略戦の際は、尾張藩が本営を置いていた美濃太田に在陣し、前線と連絡を取っていた[9]

同年12月、藩命により、酒井明、海部らとともに、2年間、平戸の儒学者・楠本南山に師事して遊学[10]

明治3年(1870)、遊学期間の延長が認められ、平戸の藩学に入学したが、翌年(明治4・1871)、廃藩置県に伴い、退塾して父・直喬が帰田していた名古屋東郊の植田村へ帰郷[11]

その後、同地を離れる[7]。1874年(明治7)頃、蓬莱駅で海部と邂逅[7]。その後大阪から海部に書信を送り、文中には鹿児島へ向かうと記してあった[7]

1875年(明治8)11月下旬、東京で尾張徳川家第16代当主・徳川義宜が死去。連絡を受けて、旧藩士とともに上京し、吉田知行小瀬新太郎内田文三郎間宮六郎角田弘業佐治為泰らと継嗣問題について相談。徳川慶勝が再度家督を継ぐことになり、小瀬が家令に、内田と吉田が家扶を命ぜられ、片桐も間宮を通じて任官された。[12]

北海道開拓

1877年(明治10)7月、尾張徳川家の第17代当主となっていた徳川慶勝から北海道開拓地の選定を命じられ、吉田・角田とともに現地を調査[4][6]。入植先となったユーラップ(遊楽部)の地理について、調査報告書を著した[13]

その後、吉田と角田は復命したが、片桐は函館に留まり、開拓使との連絡役を務めた[4]

1878年(明治11)、第1回の移住者を迎えた後、名古屋の母の病状が悪化し、死去[4]

1882年(明治15)に、小牧代官などを務めた岡崎弥兵衛の娘・かぎと結婚[2]

1884年(明治17)9月、前任の海部昂蔵が、尾張徳川家第18代当主・徳川義礼の英国旅行に随行することになったため、同家の家扶心得として、開墾地の北海道八雲村に移住し、開墾試験場の3代目委員となった[14][6]

助作さんは生来蒲柳の人だ、余り働くことが出来ない。それで皆が一生懸命働いてをるうちは、自分は煙草を喫んで見てゐるが、皆が休みかけると、白皙小躯張良のような助作さんは、鎌を把ってせっせと茅を刈り始める。若い人々は袖を引き合ってくすくすと笑ふけれども、何(ど)うしても此の人の命には背くことが出来なかった。

都築省三「羆と八郎爺」より [15]

1885年(明治18)3月に片桐は開墾場の制度改革を行い、移住者のうち成功の見込みがないと判断した8戸を退場・帰県させ、残った在住者に対しては、その年の穀物の播種に補助金を支給したのを最後に、以後直接的な保護を一切行わないことにして移住者の自立を促した[16]

開墾地事務所は1888年(明治21)に廃止となり、その後、残務整理も終了[6]。1890年(明治23)に八雲での任務を解かれ[14]、1891年(明治24)、名古屋に戻り、尾張徳川家の世襲財産・所有地の調査役を命じられる[6]

尾張家家扶

1893年(明治26)、家扶心得[6]。1894年(明治27)、家扶、庶務課長[6]

1895年(明治28)、会計課長[6]。会計・庶務・営繕を兼務し、尾張徳川家事務所の中心人物となった[6]。第18代当主・徳川義礼が本邸とした名古屋大曽根の新邸建設を担当[6]

1899年(明治32)7月11日、依願退職[6]

1903年(明治36)より、同家御相談人[6]

什宝の整理

1910年(明治43)11月から1915年(大正4)7月まで、名古屋の大曽根邸で、尾張徳川家の什宝のうち不要なものを処分する目的で、未鑑定品を中心とした什宝の整理と目録の作成を行った[17]

  • 徳川 (1963 102)および徳川 (1973 112)は、1910年に片桐が整理中に尾張家に2巻あると伝えられていた『源氏物語絵巻』に、別の1巻があることを発見した、としているが、源氏物語絵巻が3巻あることは片桐の整理より前から知られていた[18]

1915年、什宝整理の終了後に、御相談人を解職となる[19]

1918年(大正7)2月11日に死去[19][6]。享年68[14]。法号・清高院は「清康にして高潔」の意として海部昂蔵が銘命し、追悼の長詩2編を賦した[4]

片桐の死後、1921年に尾張徳川家は片桐の什宝整理の結果を基にして重複品や不要と判断した什宝(全体の10-15%)を競売で売却し、その売上金約57万円は1935年に大曽根に開設された徳川美術館の建設・維持費用に充てられた[20]

評価

  • 片桐 (1994 57)は、片桐は、若い頃から病弱だったことで知られていたが、食事療法と旺盛な闘病精神により長寿を保った、と評している。1884年に海部昂蔵の後任として北海道の開墾試験場の委員を打診された際には、病弱であることを理由に固辞したが、「毎日寝ていてもいいから行け」との事で任地に赴いたという。

著書

  • 片桐助作(誌)『丁丑北行日誌<資料紹介>』名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.25 no.2/3、1971年3月、pp.54-91、NDLJP 6045130/29 (閉)
  • 片桐助作『丁丑北行日誌 附「北地記事」』名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.26 no.2、1972年1月、pp.24-38、NDLJP 6045133/15 (閉)

付録

関連文献

  • 八雲町 (1984) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、1984、NDLJP 9571213 (閉)
  • 徳川林政史研究所(編)『尾張徳川家の幕末維新 - 徳川林政史研究所所蔵写真』吉川弘文館、2014年、ISBN 978-4642038270 - 写真あり

脚注

参考文献

  • 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
  • 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
  • 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23 (閉)
  • 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
  • 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083
  • 徳川 (1963) 徳川義親(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。
  • 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、NDLJP 955971