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'''ユニチカ株式会社'''(英称:''Unitika Limited.'')は、本店を[[兵庫県]][[尼崎市]] に、本社を[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]] と[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]] に置く、[[繊維]]メーカーである。近年は繊維事業だけでなく[[高分子]]事業・生活食品分野・環境事業などにも進出している。三菱東京UFJ銀行系[[みどり会]]メンバー。
  
 
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2020年1月15日 (水) 23:06時点における最新版

ユニチカ株式会社(英称:Unitika Limited.)は、本店を兵庫県尼崎市 に、本社を大阪市中央区東京都中央区 に置く、繊維メーカーである。近年は繊維事業だけでなく高分子事業・生活食品分野・環境事業などにも進出している。三菱東京UFJ銀行系みどり会メンバー。

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事業内容[編集]

  • 繊維事業
  • 高分子事業
同時二軸延伸ナイロンフィルム、生分解性ポリマー「テラマック」など
  • 環境・機能材事業
  • 生活健康事業
ハナビラタケの栽培など
  • その他

名門ユニチカはなぜ金融支援を仰いだのか(2014年6月)[編集]

かつて日本経済を牽引した繊維産業の名門、ユニチカが、主力取引銀行に金融支援を要請した。構造改革に取り組むと平成27年3月期連結業績で370億円の最終赤字になり、160億円の債務超過に陥る見通しになったのが理由だ。中国などからの輸入品との競争で経営が悪化する中、安江健治社長は「成長分野への投資が不十分だった」と語った。昭和39年の東京五輪で「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボール選手を多数輩出し、女優の米倉涼子さんらをマスコットガールに起用して話題を集めた企業に何があったのか。

「数十億円の営業利益では設備投資も少しずつしかできない。そのスピードは時代が許さない」

金融支援という道を選んだことについて、大阪市内での会見で、安江社長はこう説明した。金融支援は、借入金を株式に振り替えてもらう方式を採用する。議決権がない代わりに優先して配当を支払う「優先株」を総額375億円分発行。このうち275億円分は三菱東京UFJ銀行みずほ銀行三菱UFJ信託の3行が引き受け、3行は債権の代わりに優先株を持つことになる。

100億円分は日本政策投資銀行などが出資する投資事業組合が引き受け、資金は設備投資に活用。スマートフォン向けの樹脂製品などを強化し、経営の立て直しを図る考えだ。

同時に、経営責任を明確にするため安江社長が取締役相談役に退き、後任に注連浩行取締役常務執行役員が就任する人事を発表し、安江社長は「財務面、資金面で一定の枠組みができたということで一つの区切り。ある意味けじめをつける」と進退の意味を語った。

経済産業省によると、日本の繊維産業の製品出荷額は平成3年の12兆8500億円がピーク。以降は減少を続け最近では3分の1以下に落ち込んでいる。国内需要の減少とともに、割安な中国製品などとの価格競争で日本の繊維各社の経営環境は急速に悪化した。

そうしたなか、ライバル各社は過去に蓄積した資産を使い、新規分野での積極的な研究開発やM&Aなどで事業の多角化を進めた。

業界最大手の東レは、自動車や航空機の構造材に使われる炭素繊維を開発。鉄の4分の1の軽さで10倍の強度を持つ炭素繊維だが、開発当初は航空機などに使えるだけの条件を満たすことはできなかった。それを釣り竿とゴルフクラブに使ったところ大ヒット。投資回収をしながら炭素繊維の性能を向上させたことで知られ、いまや榊原定征会長が経団連会長を務めるなど日本のモノづくりの代表的な存在となっている。

一方、東洋紡は本業の繊維が不振にあえぎ、「1日1億円の赤字」を垂れ流していた平成11年ごろ「脱繊維」を掲げて構造改革に着手。繊維事業を大幅に縮小しながら、繊維技術を応用した多角化に取り組み、フィルムやバイオなど非繊維事業を強化した。

また、帝人も炭素繊維事業を強化し、ダイワボウホールディングスは情報システム、日清紡ホールディングスは自動車用ブレーキを主力事業に育て上げるなど繊維以外に活路を求めてきた。

繊維産業では多くの企業が繊維事業から脱却し、新たな収益事業を着々と開拓するなか、名門のユニチカはなぜ出遅れたのか。

安江社長は「成長投資が十分でなかったが、純資産が毀損しないよう営業利益の範囲内に構造改革を抑えていかなければいけない制限があった」と釈明した。

新社長に就く注連取締役は「祖業である繊維事業はリストラの連続だった」と振り返った。繊維事業の低迷でリストラを繰り返したが、借金が多かったこともあって目先の対処療法に終始。過去の蓄積で余裕のあるうちに「脱繊維」に向けた技術開発や思い切ったM&Aに踏み切ることができなかった懐事情を打ち明けた。

金融業界関係者は「平成26年3月期の連結売上高が1626億円と聞いて、こんなに小さな会社だったのかと正直、驚いた。規模が小さいため大規模な投資もできず、抜本的な構造改革に踏み切れなかったのだろう。それでも銀行としては明治22年創業の名門企業との長い付き合いもあって見捨てることができなかった」と指摘する。

今回の金融支援で投資に回すことができるのは総額100億円に過ぎない。注力するスマートフォン向けの樹脂製品は価格競争の激しい分野で、安定した収益を保つのは難しいとみられる。

金融支援の要請を発表した翌日の5月27日東京株式市場ではユニチカ株が大幅反落。前日終値比11円安の46円で取引を終え、終値として年初来安値を更新した。一時は16円安の41円まで値を下げた。市場も「先行きは不透明」(市場関係者)との見方を強めているためだ。

ユニチカは明治22年創業の尼崎紡績が発祥で、かつては「三大紡績」の1社と呼ばれ、かつてはバレーボールやマスコットガールなどで全国で知られた関西企業だ。遅ればせながら抜本的な再建に取り組むが、かつての輝きを取り戻すには厳しい道が待ち受けている。

事業所[編集]

沿革[編集]

  • 1899年明治32年) 6月19日 - 尼崎の有志と大阪財界の出資により有限責任尼崎紡績会社を創立。(資本金50万円)。
  • 1900年(明治33年)12月 – 綿糸の製造を開始。
  • 1902年(明治35年) 2月 – 大阪株式取引所に株式上場。
  • 1904年(明治37年) 7月 - 商法施行に伴い尼崎紡績株式会社と改称。
  • 1909年(明治42年) 5月 - 綿布の製造を開始。
  • 1918年大正7年) 6月 - 摂津紡績株式会社を合併し、商号を大日本紡績株式会社と改称。
  • 1926年(大正15年) 3月 - 日本レイヨン株式会社を設立し、レーヨン糸の製造を開始。
  • 1933年昭和8年) 9月 - 羊毛紡績を開始。
  • 1949年(昭和24年) 5月 - 証券取引所再開により上場再開。
  • 1950年(昭和25年)10月 - ビニロン繊維の製造を開始。
  • 1955年(昭和30年)10月 - 日本レイヨン株式会社はナイロン繊維の製造を開始。
  • 1958年(昭和33年)12月 - 日本レイヨン株式会社は成型用ナイロン樹脂の製造を開始。
  • 1964年(昭和39年) 2月 - 日本レイヨン株式会社はポリエステル繊維の製造を開始。
  • 1964年(昭和39年) 4月 - 商号を大日本紡績株式会社からニチボー株式会社と改称。
  • 1966年(昭和41年) 4月 - 日本レイヨン株式会社は日本エステル株式会社を設立し、ポリエステル繊維の製造を移管。
  • 1968年(昭和43年) 7月 - 日本レイヨン株式会社はナイロン2軸延伸フィルムの製造を開始。
  • 1969年(昭和44年)10月 - ニチボー株式会社が存続会社として、日本レイヨン株式会社と合併し、商号をユニチカ株式会社と改称。初代社長は坂口二郎
  • 1969年(昭和44年)10月 - 住宅、不動産事業に進出。
  • 1970年(昭和45年) 6月 - 水処理設備、焼却炉など公害防止事業に進出。
  • 1971年(昭和46年) 6月 - ポリエステル不織布スパンボンドの製造を開始。
  • 1977年(昭和52年) 6月 - ユニチカ化成株式会社ユニチカレーヨン株式会社を設立し、ビニロン事業、レーヨン事業を分離。
  • 1982年(昭和57年) 9月 - 抗血栓性カテーテルの製造を開始し、医療品事業に進出。
  • 1984年(昭和59年) 4月 - ユニチカウール株式会社を設立し、羊毛事業を分離。
  • 1985年(昭和60年) 6月 - アモルファス金属繊維、活性炭繊維の製造を開始。
  • 1989年平成元年)10月 - ユニチカ化成株式会社ユニチカレーヨン株式会社ユニチカウール株式会社の繊維事業3社及びユニチカビルディング株式会社株式会社ユニチカ京都ファミリーセンター株式会社ユニチカオークタウンユニチカ興発株式会社の不動産賃貸業4社を吸収合併。
  • 1999年(平成11年) 3月 - ユニチカテキスタイル株式会社を設立し、綿・羊毛事業を分離。
  • 1999年(平成11年)10月 - ユニチカファイバー株式会社を設立し、化合繊事業を分離。
  • 2002年(平成14年) 5月 - 日本酢ビ・ポバール株式会社に酢ビ・ポバール事業を分割。
  • 2003年(平成15年) 3月 - ユニチカロジスティクス株式会社ユニチカスパンボンドプロダクツ株式会社、ユニチカセントラルサービス株式会社を設立し、物流事業、不織布製造事業、福利厚生・不動産賃貸業務の一部を分離。
  • 2004年(平成16年) 9月 - ユニチカ宇治プロダクツ株式会社ユニチカリアルティ株式会社を設立し、樹脂及びフィルム製造事業、不動産管理業務の一部を分離。
  • 2005年(平成17年) 4月 - ユニチカグラスファイバー株式会社株式会社ユニオンのガラス関連事業2社の営業・開発部門を本社に吸収。
  • 2007年(平成19年)10月 - ユニチカ宇治プロダクツ株式会社ユニチカスパンボンドプロダクツ株式会社株式会社ユニチカプロテック坂越の製造事業3社を吸収合併。
  • 2009年(平成21年)10月 - ユニチカファイバー株式会社の産業資材事業を分割により承継、ユニチカファイバー株式会社の衣料販売事業、ユニチカテキスタイル株式会社及びユニチカサカイ株式会社の販売事業を分割によりユニチカトレーディング株式会社に承継。 
  • 2010年(平成22年) 1月 - ユニチカビジネスサービス株式会社を吸収合併。
  • 2014年5月26日 - メインバンクに対し金融支援を要請。

ユニチカ(UNITIKA)の社名の由来[編集]

ニチボーと日本レイヨン(ニチレ)の合併時、全社員から『旧社名にはこだわらない新しいもの、カタカナ4~5文字の新社名がそのまま商標に使用できること』を条件として公募を行い、2万5000点におよぶ応募があったが、使えそうな商標はすでに商標登録されていた。

その為、両社は協議を行って『ユ』は英語のunitedの『u』で結合、ニチは両社の頭2文字から採り、『カ』はcompanyの会社で、ニチボーとニチレの結合会社と決められた。

因みに、旧社名のニチボーは現在でもユニチカの登録商標である。

スポーツ活動[編集]

かつては貝塚工場の女子バレーボール部が著名であった(後述)。

バレーボール部のみならず1975年世界選手権で準優勝を果たした日本代表の半数以上を輩出した平野工場(後に山崎工場)の女子バスケットボール部宇津木妙子が現役時代に所属したことで知られる垂井工場のソフトボール部、常盤工場の軟式庭球部。宇治工場の陸上競技部も強豪として知られた。

ニチボー貝塚[編集]

1954年昭和29年)にユニチカの前身である大日本紡績は、貝塚工場に全社統一の女子バレーボール部を設立した。それが日本女子バレー史に燦然と輝くニチボー貝塚である。

1961年(昭和36年)のヨーロッパ遠征では24戦全勝の戦績を残し東洋の魔女と呼ばれた。1962年(昭和37年)の世界選手権には単独チームで参加し優勝している。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでもほとんどの日本代表を輩出し金メダル獲得に大きな貢献をした。長らく無敗であったが、1966年(昭和41年)に258連勝でストップした当時、この出来事は社会的な事象として取り扱われた。

1969年(昭和44年)からチーム名はユニチカ貝塚と変わったものの、日本女子バレーボールを牽引してきた。

1994年平成6年)に日本リーグがVリーグにリニューアルされてからはチームの愛称をユニチカ・フェニックスにした(女子バスケットボール部も同じ愛称)。企業業績の悪化を受け、2000年(平成12年)7月に活動を停止し、選手などは東レに完全移籍という形を取り、チームは東レアローズに生まれ変わった。

なお、「フェニックス」は2005年(平成17年)からユニチカラグビー部(トップウェストA所属)の愛称として再び使用されている。2007年度(平成19年度)より組織が改変され、トップウェストA1所属となる。

ユニチカマスコットガール[編集]

1974年昭和49年)に風吹ジュンを起用して以来、マスコットガールを企業シンボルとして採用している。任期は1-3年間で、これまでに手塚理美紺野美沙子大友みなみなどを選出している。2013年平成25年)のマスコットガールは松田莉奈

また1989年(平成元年)から水着キャンペーンモデルを採用していた。カイヤ夏川結衣本上まなみ米倉涼子北川弘美滝沢沙織と多くのタレント女優を輩出した。2000年(平成12年)よりユニチカマスコットガールに統合されている。

グループ主要企業[編集]

外部リンク[編集]

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