「朝鮮の歴史」の版間の差分
細 |
SEOに熱心なMuttley (トーク | 投稿記録) 細 (rxy=森谷辰也=LTA:ASPE、 LTA:DCHANCE、LTA:SASHOという動かせない事実。) |
||
1行目: | 1行目: | ||
− | '''朝鮮の歴史'''(ちょうせんのれきし)では、[[朝鮮]]および[[朝鮮半島]]における[[歴史]]を述べる。 | + | <nowiki>'''朝鮮の歴史'''(ちょうせんのれきし)では、[[朝鮮]]および[[朝鮮半島]]における[[歴史]]を述べる。 |
== 概説 == | == 概説 == |
2020年1月8日 (水) 04:13時点における版
'''朝鮮の歴史'''(ちょうせんのれきし)では、[[朝鮮]]および[[朝鮮半島]]における[[歴史]]を述べる。 == 概説 == [[朝鮮半島]]では、[[石器]]などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の[[朝鮮民族]]との繋がりは明らかでない。約10万年前の[[最終氷期]]から[[紀元前]]8000年頃まで[[東シナ海]]の大部分は陸地であり、[[日本列島]]と陸続きだったが[[海面上昇]]により切り離され、紀元前4000年ころまで海進は進んだ。紀元前4000年頃から南部・西部で陸での[[稲作]]が始まったとする意見もあるが、証拠となる物は見つかっていない。朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は[[箕子朝鮮]]、ある程度実情が分かるのは[[衛氏朝鮮]]からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、[[史記]]等の記述や考古調査から前12世紀に[[殷王朝]]王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に[[周王朝]]が侯国に封じたとする。衛氏朝鮮は[[紀元前194年|前194年]]に[[燕 (春秋)|燕]]出身の将軍であった[[衛満]]が[[箕子朝鮮]]の王・箕準を追い出して建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は[[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]として400年間直轄支配。 *[[鳥越憲三郎]]は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している。 *[[渡辺延志]][[朝日新聞]]記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた」と説明している。 *[[武光誠]]は、「[[魏志倭人伝]]は、朝鮮半島にあった[[魏]]の植民地、[[帯方郡]]から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『[[月刊現代]]』2008年6月号 87頁)。 *[[別冊宝島]]は、「[[ソウル]]周辺や[[江原道 (南)|江原道]]、さらに北の[[北朝鮮]]は中国の植民地で楽浪郡といった」と記している。 *[[桜井誠 (活動家)|桜井誠]]は「漢の武帝によって真番・臨屯・玄菟・楽浪の漢四郡が設置されるなど、中華帝国の千年属国」「中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に設置した四つの郡県(中国の行政単位)。三国時代に至るまで、代々中華帝国の支配を受けていた」「中国前漢武帝の時代に衛氏朝鮮は滅ぼされ、その地に楽浪郡をはじめ真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡が設置されており、侵略を跳ね返したどころか漢帝国の一地方となっていた」と説明している。 )されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。 [[4世紀]]中頃に、[[満州]]の[[鴨緑江]]付近で興った[[高句麗]]が南下して楽浪郡北部を征服、[[百済]]も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。南部は[[倭]]と関係の深い[[百済]]と[[新羅]]が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かった<ref>『日本書紀』、『宋書』夷蛮列伝、[[蕭繹]]『職貢図』</ref>。高句麗は4世紀の[[広開土王]]の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある([[高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題]])。百済は371年、漢山城(今の[[ソウル]][[松坡区]])を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、[[扶余]]に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には[[倭国]]の影響下にあって(旧説では「支配下」にあったとする)諸小国の雑居する[[任那]][[加羅]]があった。倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国([[金官伽耶]]・[[高霊伽耶]]など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は[[夫余|扶余]]系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。 しかしながら、「[[陳勝]]などの蜂起、天下の叛秦、[[燕 (春秋)|燕]]・[[田斉|斉]]・[[趙 (戦国)|趙]]の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「[[辰韓]]は[[馬韓]]の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が[[秦]]を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『[[三国史記]]』によると4代目の王が倭国北東から渡来した王であったり、『[[三国志]][[東夷伝]]』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った[[高麗]]が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『[[三国遺事]]』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。 [[7世紀]]に新羅は[[唐]]が高句麗、百済を相次いで滅ぼす戦いに参戦した。その後、新羅は唐を突如裏切って唐の行政府に駐留する部隊を殲滅する反乱を起こすと、朝鮮半島の大部分を統一した。しかし[[唐・新羅戦争]]に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地には[[ツングース]]系の[[タタール|韃靼族]]とされる[[大祚栄]]が[[渤海 (国)|渤海]]を建国したが渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある([[東北工程]]参照)。[[10世紀]]に新羅は統一を失い、地方勢力が自立して[[後高句麗]]・[[後百済]]を立てて[[後三国時代]]を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした[[高麗]]が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。 高麗は[[13世紀]]に[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、[[14世紀]]に元が北へ逃げると親[[明]]を掲げる[[女真族]]ともいわれる[[李成桂]]が建国した[[李氏朝鮮]](朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、[[女真]]族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた[[建州女真]]の大酋[[李満住]]が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入り差別と抑圧を受けた。 朝鮮は[[15世紀]]4代国王、[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、[[女真]]との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。[[蒋英実]]などを重用し、天文観測機構の設置や、機器([[渾天儀]]、[[簡儀自]])の製作、時間を表す[[仰釜日晷]]、[[自擊漏]]などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。 [[16世紀]]に[[豊臣秀吉]]の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。[[17世紀]]には[[女真]]族が建てた[[清]]の侵攻を受け、衆寡敵せず[[大清皇帝功徳碑]]を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。一方でハングルが専ら大衆の娯楽や通信に使われたように、この時代は官僚を輩出するエリート階層である[[両班]]を中心に中国文化の影響は依然として深く、特に王朝の国教というべき地位にあった[[儒教]]の影響は社会の末端に至るまで広く浸透していた。ハングルが[[漢字]]との混交文によって初めて公的の書き文字に採用されるのは、[[日清戦争]]が日本の勝利に終わったことで李氏朝鮮が[[清]]の[[冊封]]体制および羈縻支配から離脱した[[1894年]]である。 [[1776年]]22代王で[[正祖]]が即位する。正祖は即位初期には[[洪国栄]]などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は[[老論]]という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、[[蕩平策]]を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、[[正祖]]の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、[[水原]][[華城]](世界遺産)の設計や建築に関わった[[丁若鏞]]や[[朴斎家]]、[[洪大容]]、[[柳得恭]]などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、[[北学派]]や[[実学派]]を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、[[1800年]]、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。 [[19世紀]]末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、[[ロシア帝国|ロシア]]が朝鮮半島の権益をめぐって対立、[[日清戦争]]後に結ばれた[[下関条約]]締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、[[1897年]]に[[大韓帝国]](朝鮮から国号を変更)として独立するも、[[1910年]]に全土が[[大日本帝国|日本]]に[[韓国併合|併合]]された。[[1919年]]に[[三・一独立運動]]が起きている。1920年に抗日パルチザンは[[尼港事件]]や[[間島事件]]により日本領事館を焼き討ちにしている。[[第二次世界大戦]]での日本の敗戦に伴い、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]によって朝鮮半島のほぼ中央を走る[[緯度|北緯]][[38度線]]を境に南北に[[分割統治]]され、その後に各々独立、南に[[大韓民国|韓国]]、これに反抗する済州島は[[済州島四・三事件]]で鎮圧がなされ、北には[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が建国された。[[1950年]]に北側から統一を目指して[[朝鮮戦争]]が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立している。 また李氏朝鮮末期から[[日本統治時代の朝鮮|日本統治期]]や朝鮮戦争を挟んで軍政期にかけて、様々な理由で清、[[ロシア帝国|ロシア]](後に[[ソビエト連邦|ソ連]])、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。 == 先史時代・古朝鮮時代 == === 先史時代 === [[考古学]]的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。 * [[旧石器時代]]{{see also|ko:한국의 구석기 시대}} ** [[公州石壮里遺跡]] * [[新石器時代]]([[櫛目文土器時代]]/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) - BC1000年 ** 早期 BC5000-4000 ** 前期 BC4000-3000 ** 中期 BC3000-2000 ** 晩期 BC2000-1000 *** BC1500年ごろ、[[中国]]より[[農耕]]伝わる。 * [[無文土器時代]](BC1000年頃 - BC100年) ** 前期 BC1000-700 ** 中期 BC700-300 *** BC700年ごろ、[[青銅器]]伝わる。 ** 後期 BC300-100(初期鉄器時代) *** BC300年ごろ、[[鉄器]]伝わる。 === 古朝鮮時代 === 考古学的考証のない事項はここに記す。 黒い山葡萄原人 :平壌の[[大同江]]流域で誕生したとされる[[原人]]。この原人が[[朝鮮民族|朝鮮人]]の祖先であり、朝鮮人は人類発祥の時から[[朝鮮半島]]に代々暮らしてきたとされる。([[朝鮮中央放送]]の科学番組による主張だが根拠は示されていない。そもそも、これが事実なら朝鮮人は[[新人]]ではないと言うことになる)}} ;[[檀君朝鮮]]([[檀君]]神話) :[[檀君]]は[[神話]]上の人物。『[[三国遺事]]』に、『[[魏書]]』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、[[中国]]の[[堯]]帝時代に[[白頭山]]に降臨した天神の子・桓雄と[[クマ|熊]]女の間に生まれた檀君が[[平壌]]城で建国したと記されている。[[大韓民国]](韓国)では檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「[[檀君紀元]]」(檀紀)という[[紀元]]も存在する。近年[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)では、[[コンクリート]]製の[[檀君陵]]を復元しているが、その[[考古学]]的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。 ;[[箕子朝鮮]](きしちょうせん、? - [[紀元前194年]]):[[中国]]の[[殷]]を出自とする[[中国人]]の[[箕子]]が建国したとされる[[朝鮮]]の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の[[平壌]])。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志書、『[[魏略]]』[[逸文]]などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』『[[魏略]]』および『[[後漢書]]』には、[[前漢]]建国当時の朝鮮は[[箕子]]の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の[[馬韓]]の地を攻略し、そこで韓王となったという。 ;[[辰国]] == 古代の朝鮮半島 == === 衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代 === [[朝鮮半島]]では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、[[燕 (戦国)|燕]]は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて[[官吏]]を駐在させ、中国商人の権益を保護していた。[[秦]]代は[[遼東郡]]の保護下にあった。秦末[[漢]]初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部([[清川江]]以南)から撤退させた。紀元前197年、[[漢朝]]は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の[[衛満]]が[[清川江]]を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、[[衛氏朝鮮]]が成立した。 * [[衛氏朝鮮]](えいしちょうせん [[紀元前195年]]? - [[紀元前108年]]) : [[考古学]]的に証明できる[[朝鮮]]の最初の[[国家]]。[[中国]]の[[燕 (春秋)|燕]]を出自とする[[中国人]]亡命者である[[衛満]]が[[朝鮮半島]]北部に建国した。[[衛氏朝鮮]]は三代[[衞右渠]]の時の[[紀元前108年]]に[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]に滅ぼされた。その故地には[[楽浪郡]]、[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を[[植民地]]とした。 * [[原三国時代]](BC108 - 4世紀中葉) : [[三国志 (歴史書)|三国志]][[東夷伝]]に記述された区分(3世紀ごろ)。()内は現在の行政区分に大まかに当てはめたもので、確定的なものではない。 * [[高句麗]]([[吉林省]]・[[両江道]]・[[慈江道]]) :: [[ツングース系民族]]による国家。 * [[遼東郡]]東部都尉([[平安北道]]) * [[楽浪郡]]([[平安南道]]・[[黄海北道]]) * [[帯方郡]]([[黄海南道]]。ただし、[[京畿道]]まで含むとする説もある。) * [[東沃沮|北沃沮]]([[咸鏡北道]]) * [[東沃沮]]([[咸鏡南道]]) * [[濊|{{lang|ko|濊}}]](ワイ)([[江原道 (南)|江原道]]) * [[馬韓]](京畿道・[[忠清北道]]・[[忠清南道]]・[[全羅北道]]・[[全羅南道]]。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。) * [[辰韓]]([[慶尚北道]]・[[慶尚南道]]) :: [[秦]]からの[[移民]]とする説もある。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、[[秦の始皇帝]]の労役から逃亡してきた秦人の国という『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、[[秦の始皇帝]]の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『[[北史]]』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある。[[水谷千秋]]は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に[[中国]]からの[[移民]]と考えて間違いない、と述べている(『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁)。そのため、中国政府の[[シンクタンク]]である[[中国社会科学院]]は、公式研究書で新羅に対して、「中国の[[秦]]の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。 * [[弁韓]](全羅南道・慶尚南道。ただし、全羅南道を含まないとする説もある。) * [[州胡]]([[済州特別自治道]]) === 三国時代 === * [[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]([[4世紀]]半ば - [[676年]]) 南部の三韓は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧が新羅となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となった。 * 高句麗( - [[668年]]) :[[ツングース系民族]]による国家 * [[百済]]( - [[660年]]) :[[夫余|扶余]]族の支配層と被支配層の韓族の国家。 :[[唐]]による[[百済]]の[[冊封]] * [[新羅]] : [[唐]]による[[新羅]]の[[冊封]] * [[伽耶|伽耶諸国]]( - [[562年]]) : 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、[[広開土王碑]]文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては[[任那]]という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書や碑文の記録から日本([[ヤマト王権]])の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡っては異論も多く存在する。詳細は[[伽耶]]・[[任那]]を参照。 * [[耽羅]]([[済州島]])( - [[476年]]) : 耽羅は5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。 * [[于山島|于山国]]([[鬱陵島]])( - [[512年]]) : 于山国は6世紀初めに新羅に服属した。 * [[鶏林州都督府]] : [[唐|唐朝]]が[[新羅]]を領土化するために設置した地方機関。都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。 * [[安東都護府]] : [[唐|唐朝]]が設置し現在の[[朝鮮半島]]北部から[[満洲|中国東北部]]に相当する[[高句麗]]旧域の経営を目的に設置された地方機関。 * [[熊津都督府]] : [[唐|唐朝]]が設置し、現在の[[忠清南道]]に相当する[[百済]]旧域の経営を目的に設置された地方機関。 [[唐]]は[[660年]]に百済を滅ぼし、[[668年]]には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から[[羈縻州]]としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から[[冊封]]を許された。 *433年 [[羅済同盟]] *612年 [[隋の高句麗遠征]] *642年 [[麗済同盟]] *644年 [[唐の高句麗出兵]] *660年 唐が百済を滅ぼす *668年 唐が高句麗を滅ぼす *670年 [[唐・新羅戦争]] [[5世紀]]後半から[[6世紀]]半ばに、[[日本]]のものと同じ[[前方後円墳]]が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。[[全羅南道]]では、日本にしかない原石からつくられた[[勾玉]]をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。 === 統一新羅・渤海・後三国時代 === * [[新羅|統一新羅]] ([[676年]]-[[935年]]) : 初めての統一政権。唐・新羅戦争に敗れて大唐国新羅郡と名乗る。 * [[渤海 (国)|渤海]]([[698年]]-[[926年]]) : 高句麗の滅亡後、その故地に[[粟末靺鞨]]が建国した[[ツングース]]民族による国家。詳細は[[東北工程]]を参照。 * [[後三国時代]]([[892年]] - [[936年]]) *# [[新羅]]( - [[935年]]) *# [[後高句麗]]([[894年]]-[[918年]]) : 新羅の王子が後高句麗を立てる。 *# [[後百済]] ([[892年]]-[[936年]]) : 後百済は農民出身の甄萱が立てる。 == 中世の朝鮮半島 == * [[高麗]] ** [[918年]] [[後高句麗]]の豪族の[[太祖 (高麗王)|王建]]が新羅を滅ぼして[[王位]]を[[簒奪]]し、高麗を建国する。 ** [[933年]] [[後唐]]の[[冊封]]を受ける。 ** [[935年]] [[新羅]]の[[敬順王]]、高麗に国を譲渡し、ここに[[新羅]]滅亡す。 ** [[936年]] 後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。 ** [[976年]] [[田柴科制]]の創設。 ** [[1010年]] [[契丹]]の侵入を撃退。 ** [[1018年]] [[契丹]]の再侵入。[[姜邯賛]]の活躍により契丹軍を殲滅([[亀州大捷]])。 ** [[1033年]] 高麗の長城の建設開始。 ** [[1095年]] 李資義の乱。 ** [[1126年]] [[李資謙の乱]]({{lang|ko|[[:ko:이자겸]]}})。 [[金 (王朝)|金]]に服属。 ** [[1135年]] [[妙清の乱]]({{lang|ko|[[:ko:묘청]]}})。 ** [[1170年]] [[庚寅の乱]]。以後[[武臣政権|武人政権]]が続く。 ** [[1196年]] [[崔忠献]]によるクーデター。[[崔氏政権]]の始まり。 ** [[1232年]] [[モンゴル帝国]]の侵略始まる(→[[モンゴルの高麗侵攻]])。 ** [[1259年]] 高麗の[[太子]](のちの[[元宗 (高麗王)|元宗王]])が[[フビライ]]に降り、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の属国化。 ** [[1260年]] [[忠烈王]]は、大ハーンに即位したフビライの[[娘婿]]となる。これ以来、代々の[[高麗王]]の[[世子]](世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。高麗王の母は、みな[[モンゴル人]]となり、4代の高麗王は[[元 (王朝)|元]]皇帝の[[娘婿]]となる。 ** [[1270年]]-[[1273年]] 武人派の軍隊[[三別抄]]の反乱。 ** [[1274年]]・[[1281年]] [[忠烈王]]の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻([[元寇]])への出兵により甚大な被害を受ける<ref name=kourai>『高麗史』一百四 列伝 巻十七 [[金方慶]]伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」</ref><ref name=gen>『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 [[至元 (元世祖)|至元]]十九年七月壬戌([[1282年]]8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」</ref>。 ** [[1289年]] 元の[[征東行省]]が常設され、元朝の領土化。 ** [[1350年]] この頃より[[倭寇]]に悩まされるようになる(「前期倭寇」~15世紀前半)。 ** [[1351年]] [[恭愍王]]即位(~1374年)。 ** [[1354年]] 共愍王による[[反元運動]]が始まる。 ** [[1356年]] 元軍が高麗から撤退([[双城総管府]]を回復)。 ** [[1365年]] [[辛ドン|{{lang|ko|辛盹}}]]による改革政治(~71)。 ** [[1374年]] 恭愍王が暗殺される。[[禑王|{{lang|ko|禑王}}]]が即位(~88)。 ** [[1388年]] 親明派の武将[[李成桂]]([[女真族]]ともいわれる<ref name=Jurchen> *[[池内宏]]『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版 *[[山内弘一]]「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 [[武田幸男]]編集『朝鮮史』山川出版社 *[[室谷克実]]『日韓がタブーにする半島の歴史』[[新潮新書]] *[[岡田英弘]][[宮脇淳子]]研究室『[http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/liseikei.html 論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である]』</ref>)がクーデターを起こし実権者になる([[威化島回軍]])。 ** [[1391年]] [[科田法]]の制定。 ** [[1392年]] [[鄭夢周]]が暗殺される。 **: 高麗時代前時期にかけて朝鮮に異民族が[[帰化]]した数字は23万8000人余りに達する<ref name=a/>。帰化した[[漢族]]は国際情勢に明るく、[[文芸]]にたけていて[[官僚]]にたくさん進出した。帰化した[[渤海人]]は[[契丹]]との戦争に参加して大きい功績を立てた。[[崔茂宣]]に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、[[江南]]地方出身帰化人である<ref name=a>[http://news.nate.com/view/20070821n11817 初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない]『[[京郷新聞]]』2007年8月21日</ref>。帰化した[[女真族]]は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。[[李氏朝鮮]]を建国した[[李成桂]]は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった[[李之蘭]]はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい<ref name=a/>。[[京仁教育大学校]]の朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら帰化人の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙していると批判している<ref name=a/>。 *[[征東等処行中書省]](征東行省) *: [[元 (王朝)|元]]が[[高麗]]を服属させた後に設置、当初は政治と軍事を統括する臨時の機関で、[[行中書省]]の一つ。[[元寇|日本攻略]]の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。後に常設され、朝鮮半島全土に及ぶ行政・政治・軍事の執行機関となった。 * [[東寧府]] *: [[元 (王朝)|元]]が朝鮮半島北西部を支配するため設置した統治機構。[[慈悲嶺]]以北を管轄し、高麗支配の拠点とされた。 * [[双城総管府]] *: [[元 (王朝)|元]]が[[1258年]]に[[咸鏡南道]]和州(現在の[[永興市]]近く)設置した統治機構。 == 近世の朝鮮半島 == [[ファイル:Seoul Gyeongbokgung Throne.jpg|thumb|250px|景福宮の玉座と[[日月五峰図]]]] [[File:Sejong tomb 1.jpg|thumb|right|250px|[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の[[朝鮮王陵|王陵]]]] [[ファイル:인조의 항복.jpg|thumb|right|250px|大清帝国皇帝に[[三跪九叩頭の礼]]をする[[仁祖]]を記録する[[大清皇帝功徳碑]](1639年)]] [[ファイル:Yeongeunmun Gate.JPG|thumb|right|250px|[[大清帝国]]の使者を迎えるための[[迎恩門]]]] [[ファイル:Questionning of Simeon Berneux.jpg|thumb|right|250px|[[丙寅教獄]]で尋問される[[ベルヌー]][[司教]](1866年)。尋問後、信者らとともに処刑され、フランス艦隊の朝鮮遠征が行われた]] [[ファイル:Interior of Fort McKee., 06-1871 - NARA - 559259.tif|thumb|right|250px|[[アメリカ軍]]による朝鮮征伐[[辛未洋擾]]により破壊された朝鮮の要塞]] [[ファイル:Flight of Japanese Legation 1882.jpg|thumb|right|250px|[[壬午事変]]における[[軍事]][[クーデター]]により王宮とともに日本公使館が襲撃焼き討ちに遭い、小舟で脱出した日本領事等、イギリス船に救助される。(1882年)]] * [[李氏朝鮮|朝鮮国時代(朝鮮王朝・李氏朝鮮)]] ** [[1392年]] [[李成桂]]([[女真族]]ともいわれる<ref name=Jurchen/>)が高麗の[[恭譲王]]から王位を[[簒奪]]し、高麗王に即位。[[明]]より[[権知高麗国事]]として認められる。 ** [[1393年]] 李成桂が[[権知朝鮮国事]]に冊され、国号が朝鮮となる。明の皇帝から、新たな国号を「[[朝鮮]]」と「和寧」の2案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ。 ** [[1398年]] [[第一次王子の乱]]。 ** [[1400年]] [[第二次王子の乱]]。 ** [[1404年]] [[室町幕府]]と国交回復、日朝貿易盛んとなる。 ** [[1418年]] [[太宗 (朝鮮王)|太宗]]が譲位して、[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が即位(~1450)。 ** [[1419年]] 倭寇征伐を理由として[[対馬]]に遠征する([[応永の外寇]])。 ** [[1420年]] [[集賢殿]]設置。 ** [[1432年]] [[四郡]][[六鎮]]設置。 ** [[1443年]] [[訓民正音]]の制定([[1446年]]公布)。 ** [[1453年]] [[癸酉靖難]]。首陽大君(のちの第7代国王・[[世祖 (朝鮮王)|世祖]])による政権奪取。 ** [[1456年]] [[丙子冕獄]](死六臣が処刑される)。 ** [[1466年]] [[職田法]]の制定。 ** [[1467年]] [[李施愛の乱]]。 ** [[1468年]] 世祖が崩御し[[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]即位([[1469年]]に崩御)。[[南怡の謀叛事件]]が起こる。 ** [[1474年]] [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の治世に『[[経国大典]]』頒布([[1485年]]に施行)。 ** [[1498年]] [[士林派]]に対する弾圧が始まる([[戊午士禍]])。 ** [[1504年]] [[甲子士禍]]が起こる。 ** [[1506年]] [[燕山君]]がクーデターにより失脚し、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]が即位([[中宗反正]])。 ** [[1510年]] [[在朝日本人]]の[[貿易]]活動等を統制したため、3港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる([[三浦の乱]])。 ** [[1519年]] [[己卯士禍]]が起こる([[趙光祖]]の改革政治が挫折)。 ** [[1545年]] [[仁宗 (朝鮮王)|仁宗]]崩御(在位[[1544年]]-1545年)。[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]即位。[[乙巳士禍]]が起こる。 ** [[1555年]] [[備辺司]]設置。 ** [[1559年]]-[[1562年]] [[林巨正の乱]]({{lang|ko|[[:ko:임꺽정]]}})。 ** [[1567年]] [[宣祖]]即位。[[勲旧派]]の終焉。以後、士林派同士の対立が続く。 ** [[1575年]] 東人・西人の党争の始まり([[乙亥党論]])。[[陶山書院]]建立。 ** [[1589年]] [[鄭汝立の乱]]({{lang|ko|[[:ko:정여립]]}})。 ** [[1592年]]-[[1598年]] [[文禄・慶長の役]]。朝鮮では壬辰倭乱と呼ぶ。 ** [[1607年]] 朝鮮より回答兼刷還使が来日(→[[朝鮮通信使]]を参照のこと)。 ** [[1608年]] 京幾道で[[大同法]]を実施。以後、約100年をかけて全国に拡大。 ** [[1609年]] 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で[[己酉約条]](慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される。 ** [[1613年]] [[庶孽党#七庶獄事|七庶の獄]]。 ** [[1615年]] [[申景禧の獄]]。 ** [[1616年]] [[光海君]]の[[明]]・[[金 (王朝)|金]]中立外交。 ** [[1619年]] [[サルフの戦い]]。 ** [[1623年]] [[仁祖反正]]で光海君廃位。 ** [[1624年]] [[李适の乱|{{lang|ko|李适}}の乱]]({{lang|ko|[[:ko:이괄의 난]]}})。 ** [[1627年]] [[丁卯胡乱]]。 ** [[1636年]] [[清]]の[[ホンタイジ]]が朝鮮に親征([[丙子胡乱]])。朝鮮国王[[仁祖]]、[[南漢山城]]に篭城。 ** [[1637年]] 仁祖降伏([[三田渡の降伏]])。明に替わり、清の皇帝を認める([[大清皇帝功徳碑]])。 ** [[1654年]]、[[1658年]] [[羅禅征伐]]([[:ko:나선정벌]])。 ** [[1660年]] [[礼訟#第1次礼訟(己亥礼訟)|己亥礼訟]]。 ** [[1674年]] [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]即位(在~1720年)[[礼訟#第2次礼訟(甲寅礼訟)|甲寅礼訟]]により、南人が政権を握る。 ** [[1680年]] [[庚申換局]]。 ** [[1683年]] 西人が[[老論派|老論]]と[[少論派|少論]]に分裂。 ** [[1689年]] [[己巳換局]]。 ** [[1694年]] [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の治世に[[甲戌の獄]]起こる。 ** [[1701年]] [[巫蠱の獄]]([[張禧嬪]]が賜死)。 ** [[1712年]] 白頭山に[[定界碑]]を建立。 ** [[1716年]] [[丙申処分]]。 ** [[1721年]]-[[1722年]] [[景宗 (朝鮮王)|景宗]]の治世に、壬寅の獄起こる([[辛壬士禍]]、[[:ko:신임옥사]])。 ** [[1724年]] [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]即位(在~1776)。 ** [[1728年]] [[李麟佐の乱]]({{lang|ko|[[:ko:이인좌의 난]]}})。 ** [[1750年]] [[均役法]]を実施。 ** [[1762年]] [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]の治世に[[荘献世子事件]]起こる。老論に対立していた[[荘献世子]]が政界の陰謀(デマ)により、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する。 ** [[1776年]] [[正祖]]即位(~1800)。[[奎章閣]]設置。 ** [[1784年]] [[李承薫]]が[[カトリック教会|天主教]]の書籍を持ち込む。 ** [[1791年]] [[辛亥邪獄]]。 ** [[1796年]] [[正祖]]による[[水原]][[華城]](世界遺産)建設。朝鮮後半の全盛期。 ** [[1801年]] [[辛酉邪獄]](カトリック弾圧)。 ** [[1804年]] [[純祖]]の治世、[[安東金氏]]による権勢政治( - [[1863年]])。士林派の終焉。 ** [[1811年]] [[洪景来の乱]](地方差別に反発した一揆、{{lang|ko|[[:ko:홍경래의 난]]}})。 ** [[1862年]] [[壬戌民乱]] ** [[1863年]] [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]崩御。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]即位。[[興宣大院君|大院君]]政権の成立。 ** [[1866年]] [[ジェネラル・シャーマン号事件]]。キリスト教徒の弾圧([[丙寅教獄]])。[[フランス第二帝政|フランス]]は抗議のため、軍艦・兵士を派遣し、江華島の一部を占拠([[丙寅洋擾]])。 ** [[1868年]] [[オッペルト事件]]。 ** [[1873年]] [[興宣大院君|大院君]]追放、[[閔妃]]を中心にした閔氏政権の成立。 ** [[1875年]] [[江華島事件]]。日本の軍艦に向けて朝鮮が突然発砲して、応酬合戦となった事件。 ** [[1876年]] 明治新政府と[[日朝修好条規]]を結ぶ。 ** [[1882年]] [[米朝修好通商条約]]。壬午軍乱([[壬午事変]])起こる。[[中朝商民水陸貿易章程]]を結ぶ。 ** [[1884年]] [[甲申政変]](甲申事変)、[[開化派]]のクーデターは失敗に終わり、[[事大派]]の勝利となる。 ** [[1885年]] [[巨文島|巨文島事件]]。[[露朝密約事件]](第一次)。 ** [[1886年]] [[露朝密約事件]](第二次)。 ** [[1888年]] [[露朝陸路通商条約]]。 ** [[1894年]] [[甲午農民戦争]](東学党の乱)<!--「針圧」が日本語の辞書になく意味が通らない:朝鮮官軍と日本国軍の針圧。 -->。大院君派と閔妃派の対立が深まる。[[日清戦争]]で陸上戦闘の主戦場となる。[[甲午改革]](~[[1896年]])。 ** [[1895年]] [[下関条約]]成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が[[禹範善]]により殺害される([[乙未事変]])。[[三浦梧楼]]の指揮によって殺害されたとする説もある。 ** [[1896年]] [[露館播遷]](~[[1897年]][[2月20日]])。 == 近代 == [[File:Yi Un & Yi Bangja 1923.jpg|thumb|250px|[[李王家]]に嫁いだ[[梨本宮]][[李方子|方子女王]]]] [[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|250px|[[中国軍]]の支援を受けた[[抗日パルチザン]]と[[赤軍]]の攻撃により焼け落ちた[[ニコラエフスク]][[在外公館|日本領事館]]([[尼港事件]]。1920年)]] [[ファイル:COMFORTAdd.GIF|thumb|250px|[[慰安婦]]募集の新聞広告。]] * [[大韓帝国]] 1897年-1910年(日本の[[保護国]]の時期 1905年-1910年) ** [[1897年]] [[日清戦争]](1894年-1895年)の[[清]]の敗北を受けて締結された[[下関条約]]により、朝鮮は清の[[冊封体制]]から離脱し、朝鮮国から[[大韓帝国]]と国号を改める。 ** 1904年[[8月23日]] [[第一次日韓協約]]を結ぶ。 ** 1905年7月 [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の[[ロシア帝国]]への密使が発覚する。 ** 1905年[[7月29日]] [[桂・タフト協定]]。韓国には日本が、[[フィリピン]]には[[アメリカ合衆国]]が影響力を持つと、相互に認め合う。 ** 1905年[[11月17日]] [[第二次日韓協約]]を結ぶ。外交権を失い、日本の[[保護国]]となる。 ** 1906年 [[韓国統監府]]設置。 ** 1907年 [[国債報償運動]]。[[ハーグ密使事件]]。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が退位し[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]が即位。[[第三次日韓協約]]。内政権が日本の管轄下に入る。韓国軍の解散が定められる。 ** 1909年 韓国統監府初代統監[[伊藤博文]]が[[ハルビン]]駅にて[[安重根]]により暗殺される。朝鮮と清の国境が定まる([[間島#間島協約|間島協約]])。 * [[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]] ** 1910年 [[韓国併合ニ関スル条約|日韓併合条約]]を結び、[[日本]]に[[併合]]される([[韓国併合]])。京城に[[朝鮮総督府]]が設置される。 ** 1919年 [[三・一独立運動]]。<!-- [[上海市|上海]]で[[大韓民国臨時政府]]設立。--> ** 1920年 朝鮮を日本の食料供給地とする[[産米増殖計画]]が始まる。 ** 1920年 [[シベリア]]東部の[[ニコラエフスク]]で[[共産革命]]が激化し、[[抗日パルチザン|朝鮮パルチザン]]が赤軍と協力して日本軍を全滅させる[[尼港事件]]が起こる。 ** 1920年 [[梨本宮]][[李方子|方子女王]]が[[李王家]]に嫁ぐ。 ** 1920年 [[満州]]東部の[[間島]]で[[独立軍 (朝鮮)]]の抗日武装闘争が激化し、[[間島事件]]、[[青山里戦闘]]が起こるが、翌年[[自由市惨変]]で壊滅。 ** 1929年 [[光州学生事件]]。 ** 1931年 [[朝鮮排華事件]]。朝鮮から中華街がなくなる。 ** 1933年 [[朝鮮語学会]]が[[ハングル綴字法統一案]]を発表する。 ** 1934年 [[朝鮮農地令]]施行。 ** 1937年 [[白白教事件]]。 ** 1937年[[10月2日]] [[皇国臣民ノ誓詞]]が発布される。 ** 1938年 [[国家総動員法]]施行。 ** 1940年 2月から8月にかけて[[創氏改名]]が行われる。 ** 1941年[[12月8日]] 日本が[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]に宣戦布告。([[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])勃発) ** 1942年 [[朝鮮語学会事件]]。 ** 1944年 [[朝鮮徴兵令]]施行。 ** 1945年[[8月8日]] [[ソビエト連邦]]が日本に宣戦布告。[[ソビエト連邦軍]]が[[朝鮮半島]]東北部に侵攻。 ** 1945年[[8月14日]] [[北緯38度線]]で朝鮮を分割し、[[日本軍]]を分割武装解除することを内容とする「一般命令第一号」を、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]がソビエト連邦に通告。ソビエト連邦も命令内容に同意した。 * [[大韓民国臨時政府]] ** [[1919年]] [[三・一独立運動]]後に[[上海市|上海]]で設立される。 ** [[1940年]] [[重慶市|重慶]]に移転し、[[韓国光復軍]]を創設。 == 現代 == [[ファイル:Syngman Rhee.jpg|thumb|250px|[[連合軍]]将軍と握手する[[李承晩]]]] [[ファイル:Anti-Trusteeship Campaign.jpg|thumb|250px|[[連合軍]]による軍政に反抗して蜂起した朝鮮人(1945年)]] [[画像:DMZ.jpg|thumb|250px|板門店での軍事境界線]] [[File:Syngman Rhee, 1951-May-1.jpg|thumb|250px|初代大統領に就任した[[李承晩]]]] [[File:Dokdo 080628.jpg|thumb|250px|韓国に占拠された[[竹島 (島根県)|竹島]]]] [[ファイル:Seizure of the Japanese ships by Korean Coast Guard.JPG|thumb|250px|[[李承晩ライン]]に進入した日本人の抑留]] [[ファイル:Registration of comfort women.jpg|thumb|250px|[[国連軍]]に提供される[[慰安婦]]の登録実施(1961年)]] [[ファイル:080606 ROK Protest Against US Beef Agreement 04.jpg|thumb|250px|[[アメリカ]]との貿易協定に抗議する数十万人の市民([[2008年韓国蝋燭デモ]])]] === 連合軍軍政期 === [[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]]には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。 *[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]] ** [[1945年]][[8月15日]] [[第二次世界大戦]]で大日本帝国敗北。朝鮮半島での日本の統治終了、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の管轄になる(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)。 ** [[1945年]][[9月6日]] 南側で[[呂運亨]]らによって結成された「[[朝鮮建国準備委員会]]」、「[[朝鮮人民共和国]]」樹立を宣言。 ** [[1945年]][[9月8日]] [[ジョン・リード・ホッジ|ホッジ]]中将の米第24軍団第一陣、[[仁川広域市|仁川]]に上陸。9日、[[朝鮮総督府]]が降伏文書に調印。 ** [[1945年]][[9月11日]] アメリカが[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]を宣布。 ** [[1945年]]10月 アメリカが「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。 ** [[1945年]]10月 北朝鮮共産党臨時人民委員会樹立。 ** [[1945年]]12月 [[モスクワ三国外相会議]]。朝鮮半島の英米ソ中の4か国による最長5年間の信託統治の必要性決定。 ** [[1946年]][[2月3日]] [[通化事件]]で[[共産党]]による圧政に蜂起した[[日本人]]数千人が[[朝鮮人民義勇軍]]と[[東北民主連軍]]に虐殺される。 ** [[1946年]][[10月1日]] [[大邱10月事件]]で230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起。 ** [[1947年]]2月 北朝鮮人民委員会樹立。 ** [[1948年]][[4月3日]]、[[済州島四・三事件]]が起こり、多数の[[済州島]]民が虐殺されるとともに日本に密入国する。 ** [[1948年]][[10月19日]]、[[麗水・順天事件]]が起こり、多数の市民が虐殺されるとともに日本に密入国する。 ** [[1948年]] 米ソ両国が、南北にそれぞれ自国の[[傀儡政権]]を立てる([[8月15日]]に南側で「大韓民国」(以下、韓国)、[[9月9日]]に北側で「朝鮮民主主義人民共和国」(以下、北朝鮮)が樹立宣言。<!-- [[ノート:朝鮮民主主義人民共和国/呼称問題についての暫定合意|呼称問題についての暫定合意]]を参照のこと。--> === 朝鮮戦争 === * [[朝鮮戦争]](韓国では「韓国戦争」「韓国動乱」「六二五事変」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる内戦。) ** [[1950年]][[6月25日]] 北朝鮮の[[朝鮮人民軍]]が[[北緯38度線]]を南侵することで勃発。 ** [[1950年]]6月~ [[保導連盟事件]]で数十万人死亡。米軍を中心に結成された[[国連軍]]が参戦。 ** [[1950年]]7月 [[老斤里事件]]。 ** [[1950年]]10月~ [[中華人民共和国|中国]][[中国共産党|共産党]]の[[中国人民志願軍|義勇軍]]が戦闘に参加。 ** [[1951年]] [[国民防衛軍事件]]が起こる。 ** [[1951年]]2月 [[居昌良民虐殺事件]]。 ** [[1951年]]7月~ 停戦会談を実施。 ** [[1953年]][[7月27日]] [[板門店]]で[[朝鮮戦争休戦協定|停戦協定]]が調印され、現在の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]が敷かれる。(なお、北朝鮮では協定調印を「祖国解放戦争の勝利」としている。) === 大韓民国(韓国) === {{Main|韓国の歴史年表}} * [[第一共和国 (大韓民国)|第一共和国]] ** [[李承晩]]政権…初代 - 第三代[[大韓民国の大統領|韓国大統領]]([[1948年]] - [[1960年]]) *** [[1948年]][[4月3日]]から [[済州島四・三事件]]。(虐殺開始は軍政期であるが、1954年まで虐殺が継続して行われた) *** [[1948年]][[10月19日]] [[麗水・順天事件]]。 *** [[1949年]][[1月7日]] [[対馬]]領有宣言。日本に返還を要求<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/07/0200000000AJP20081222003300882.HTML 今日の歴史(1月7日)] [[聯合ニュース]] 2009/01/07</ref>。 *** [[1949年]][[12月24日]] [[聞慶虐殺事件]]。 *** [[1950年]]夏から [[保導連盟事件]]。(韓国史上最大規模の虐殺) *** [[1952年]] [[李承晩ライン]]の宣言(参考:[[対馬]]、[[竹島問題]])。 *** [[1952年]][[2月4日]] [[第一大邦丸事件]]で日本漁民殺害 *** [[1953年]] [[竹島 (島根県)|竹島]]占拠。 *** [[1959年]] [[新潟日赤センター爆破未遂事件]]。 *** [[1960年]] [[四月革命 (韓国)|四月革命]]で政権崩壊。 * [[第二共和国 (大韓民国)|第二共和国]] ** [[尹ボ善|{{lang|ko|尹潽善}}]]政権…第四代大統領(1960年 - [[1963年]]) *** この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の[[張勉]]にあった。 * [[国家再建最高会議]]([[軍政]])、[[第三共和国 (大韓民国)|第三共和国]]、[[第四共和国 (大韓民国)|第四共和国]] ** [[朴正煕]]政権…第五代 - 九代大統領([[1963年]] - [[1979年]]) *** [[1961年]] [[5・16軍事クーデター|クーデター]]により政権を奪取。 *** 1963年 [[大統領]]の座に就く(第三共和国)。 *** [[1965年]] [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]を締結する。 *** 1965年 [[ベトナム戦争]]に[[アメリカ合衆国]]の承諾を得て参戦。 *** 1965年 [[人民革命党事件]](第一次)が発生。 *** [[1968年]][[1月21日]] [[青瓦台襲撃未遂事件]]。 *** [[1968年]][[2月12日]] [[フォンニィ・フォンニャットの虐殺]]。 *** [[1971年]][[8月23日]] [[実尾島事件]]。 ***[[1971年]][[12月6日]] 国家非常事態を宣布<ref name=rengo20081206>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2008/12/06/0200000000AJP20081118003200882.HTML 今日の歴史(12月6日)] 聨合ニュース 2008/12/06 </ref>。 *** [[1972年]][[7月4日]] 北朝鮮と同時に[[南北共同声明]](七・四共同声明)を発表。 *** 1972年[[10月17日]] [[維新体制]]を構築(第四共和国)。 *** [[1974年]][[8月15日]] [[在日韓国人]]に大統領夫人が殺害される([[文世光事件]])。 *** [[1974年]] [[民青学連事件]]が発生。 *** [[1979年]] 側近の[[KCIA]]長官に暗殺される([[朴正煕暗殺事件]])。 ** [[崔圭夏]]政権…第十代大統領([[1979年]] - [[1980年]]) *** [[1979年]][[12月12日]] [[粛軍クーデター]]。 * [[第五共和国 (大韓民国)|第五共和国]] ** [[全斗煥]]政権…第十一代・十二代大統領([[1980年]] - [[1988年]]) *** 1980年[[5月1日]] [[光州事件]](韓国では光州事態→光州民主化運動)。 *** [[1987年]] [[六月抗争]]。 *** 1987年[[6月29日]] [[民主化宣言|六・二九民主化宣言]]。 * [[第六共和国 (大韓民国)|第六共和国]] ** [[盧泰愚]]政権…第十三代大統領([[1988年]] - [[1993年]]) *** [[1988年]] [[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]。 *** [[1991年]] [[国際連合]]加盟。北朝鮮と同時加盟。 ** [[金泳三]]政権(文民政府)…第十四代大統領(1993年 - [[1998年]]) *** [[1994年]] [[北朝鮮核問題|核危機]]が発生。米国の対北戦争を水際で回避。 *** [[1995年]] 全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追。 *** [[1997年]] [[アジア通貨危機]]。 ** [[金大中]]政権(国民の政府)…第十五代大統領(1998年 - [[2003年]]) *** [[太陽政策]](北朝鮮宥和政策)を開始。[[金正日]]との初の[[南北首脳会談]]を行う(2000年6月)。 *** 日本大衆文化開放を開始。 *** [[2002年]] [[2002 FIFAワールドカップ|日韓共催サッカーワールドカップ]]。 ** [[盧武鉉]]政権(参与政府)…第十六代大統領(2003年 - [[2008年]]) *** [[2004年]][[3月12日]] 国会が[[盧武鉉韓国大統領弾劾訴追|盧武鉉大統領に対する弾劾訴追]]を可決。[[高建]]が大統領職務を代行。 *** [[2004年]][[4月15日]] 第17代国会議員総選挙で[[ウリ党]]圧勝。国民、弾劾拒否の意思を示す。 *** [[2004年]][[5月14日]] 憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。盧武鉉が大統領職に復帰。 *** [[2005年]]12月 韓国の海上警察が、日本の[[海上保安庁]]に対して、日本領海における海上捜査権の譲渡を求めるが拒否される。…歴史年表に載せるには些事 ** [[李明博]]政権(実用政府)…第十七代大統領(2008年 - ) *** [[2009年]][[11月22日]] 四江([[漢江]]、[[洛東江]]、[[錦江 (韓国)|錦江]]、[[栄山江]])整備事業を始めた。 *** [[2010年]][[11月11日]] [[ソウル]]で[[G20]]首脳会議が開催された。 === 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) === {{Main|朝鮮民主主義人民共和国の歴史}} [[ファイル:Abductee families of North Korean abductions.jpg|thumb|[[瀋陽総領事館事件|日本総領事館脱北者駆け込み事件]]で日本領事館に駆け込んだ少女と[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致事件]]で拉致された横田めぐみさんの家族と会見する[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ大統領]]]] * [[金日成]]体制([[1945年]] - [[1994年]]) ** [[1949年]] 南北朝鮮の主要政党団体の集結により、「祖国統一民主主義戦線」が結成される。 ** 1949年6月 [[朝鮮労働党]]成立。金日成が中央委員長に就任。 ** [[朝鮮戦争]]後、金日成が[[朴憲永]]などを粛清。 ** [[1956年]]4月 [[朝鮮労働党]]第3回大会開催。 ** 1956年[[8月29日]] ソ連派の[[パク・チャンオク]]、延安派の[[チェ・ジャンイク]]などが金日成に粛清される。 ** [[1958年]]8月 社会主義制度が確立される。 ** [[1961年]]9月 朝鮮労働党第4回大会開催。 ** [[1968年]][[1月23日]] [[プエブロ号事件]]。 ** [[1970年]]11月 朝鮮労働党第5回大会開催。 ** [[1971年]][[7月31日]] [[加賀市沖不審船事件]]。 ** [[1972年]][[7月4日]] 大韓民国と同時に[[南北共同声明]](七・四共同声明)を発表。 ** 1972年 金日成の反勢力粛清が完了し、[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]が制定される。 ** [[1973年]] 金日成の後継者問題が浮上。[[金正日]]が政治の表舞台に出始める。 ** [[1973年]] [[渡辺秀子さん2児拉致事件]]。 ** [[1977年]] [[北朝鮮による日本人拉致問題|横田めぐみさん拉致事件]]。 ** [[1977年]] 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、[[マルクス・レーニン主義]]から[[主体思想]]に変更される。 ** [[1978年]] [[北朝鮮による日本人拉致問題|田口八重子さん拉致事件]]。 ** [[1980年]] [[北朝鮮による日本人拉致問題|松木薫さん拉致事件]]。 ** [[1980年]]10月 朝鮮労働党第6回大会開催。 ** [[1983年]] [[北朝鮮による日本人拉致問題|有本恵子さん拉致事件]]。 ** [[1985年]][[4月25日]] [[日向灘不審船事件]]。 ** [[1987年]]1月 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手。([[1993年]]に未完遂で終わる。) ** [[1989年]]7月 平壌で[[第13回世界青年学生祭典]]が開催される。 ** [[1991年]][[9月17日]] [[国際連合]]加盟(大韓民国と同時加盟) ** [[1994年]][[7月8日]] 金日成死去。 * [[金正日]]体制([[1997年]] - [[2011年]]) ** [[1998年]] 弾道ミサイル[[テポドン1号]]発射。 ** [[1999年]][[3月23日]] [[能登半島沖不審船事件]]。日本国[[海上警備行動]]発令。 ** [[2000年]] 韓国の金大中大統領との初めての[[南北首脳会談]]を実施。6.15南北共同宣言を発表。 ** [[2001年]][[12月21日]] [[九州南西海域工作船事件]]。日本国[[海上保安庁]]と交戦。 ** 2002年 [[日朝首脳会談]]、[[日朝平壌宣言]]。[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致]]の事実を認めて拉致被害者5名を日本に帰国させる。 ** [[2002年]][[5月8日]] [[瀋陽総領事館事件|日本総領事館脱北者駆け込み事件]] ** [[2002年]][[9月4日]] [[日本海中部海域不審船事件]]。 ** [[2004年]] 日本人拉致被害者の遺骨を返還。日本側が遺骨の正式調査を行い、他人の遺骨だと発表するが、北朝鮮側はこれに反発。 ** 2004年[[12月9日]] 日本からの人道支援の残りの15万5,000トンが停止される。 ** [[2005年]][[2月11日]] [[核兵器]]製造・保有を公式に認める。 ** [[2006年]][[7月5日]] 日本海に向けて弾道ミサイルを7発発射。7発とも日本海に着弾。 ** [[2006年]][[7月15日]] [[国際連合安全保障理事会]]が決議第1695号を採択。 ** [[2006年]][[10月9日]] 核実験実施を発表。 ** [[2006年]][[10月15日]] [[国際連合安全保障理事会]]が決議第1718号を採択。 ** [[2011年]][[12月17日]] 金正日死去。 * [[金正恩]]体制 ** [[2012年]][[4月15日]] [[金日成]]生誕100周年 ※並列して存在する国は、数字リストをつけた。 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[百済考古遺跡]] * [[迎恩門]] * [[事大主義]] * [[駐日アメリカ合衆国大使館]] - [[2006年]]に駐日アメリカ合衆国大使館から接続されたIPユーザーが[[ウィキペディア]]の[[朝鮮の歴史]]の朝鮮近代史の項目を削除し、「朝鮮に歴史なし 昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」との書き込みを行った[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&diff=8434966&oldid=8280871][http://megalodon.jp/2008-0104-0331-22/www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=9&nid=3182743]。([[WikiScanner#話題となった主な編集]]の項目を参照) * [[朝鮮教育史]] * [[朝鮮の歴史観]] * [[日朝関係史]]・[[一進会]]・[[日鮮同祖論]]・[[韓日合邦を要求する声明書]] {{朝鮮}} {{DEFAULTSORT:ちようせんのれきし}} [[Category:朝鮮の歴史|*]]