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− | + | ==思想と目的== | |
+ | 道院の思想では、近代の[[唯物論]]的な世界観・人生観に対して、[[自然科学]]の進歩を歓迎しつつも、それを唯一の真理とみなして個人・社会の生活原理とすることを誤りとする。このことは、古来から様々な聖賢が現われて宗教信仰を促してきたことに通じ、また宗教はその時代や民族環境によって様々な形態を有しているが、究極には唯一の神の摂理、根本の大道に従い、これに帰すべきである、とされる。{{Sfn|小田|1942|p=101}} | ||
− | + | 道院ではこの唯一最高の神霊を仮に「至聖先天老祖」または単に「老祖」と呼び、老祖の下に[[釈迦]]・[[老子]]・[[頂先師]]([[孔子]]の師)・[[キリスト]](基督)・[[モハメット]]の5つの宗教の教祖を配し、老祖すなわち唯一神が様々な聖賢を世に遣わして人類救済の一端を行わせていた、と教えていた{{Sfn|小田|1942|p=101}}。 | |
− | [[紅卍字会]] | + | 道院の思想の目的は、凡ての宗教はその根元において唯一の神に帰するのであるから、その唯一の神の意志によって世道人心を救い、世界人類の永遠の平和を実現することにある、とされ、そのために会員は、内的修養に努める('''内修''')とともに、外に向かって慈善活動などの働きかけ('''外慈'''、'''外行''')をすることを求められた{{Sfn|小田|1942|pp=101-102}}。 |
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+ | 道院は、[[扶乩]](フーチ)という中国の伝統的な乩示(ちし、占い)によって神の啓示を仰ぎ、扶乩によって与えられた天の啓示('''壇訓''')に従って行動した{{Sfn|原|2009|pp=174}}{{Sfn|小田|1985|p=157}}{{Sfn|小田|1942|p=103}}。 | ||
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+ | 道院を思想・信仰上の背景として慈善活動などの社会的活動を行った組織が[[紅卍字会]]で、紅卍字会は道院の壇訓に従って活動し、道院と紅卍字会は表裏一体・不可分の関係にあった{{Sfn|原|2009|pp=174}}{{Sfn|小田|1942|pp=100-101}}。 | ||
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+ | ==沿革== | ||
+ | 1918年(民国7)-1919年(民国8)頃、[[済南]]の東北方約70里-80里にある[[浜県]]の知事だった'''呉福林'''と、同地の[[営長]]だった'''劉紹基'''は、中国古来の天啓(神の啓示)を受ける方法だった扶乩を信じ、知事の官舎に祀られていた[[尚真人]]の社祠で神示を受け、それを政治にも反映させていた{{Sfn|小田|1942|p=102}}。 | ||
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+ | このとき、2人に宇宙最高の神霊として老祖が降臨し、人類救済の大抱負を告げ、その具体的方法を授けたという{{Sfn|小田|1942|p=103}}。具体的方法とは、'''上元坐法'''という修坐の方法と、'''大乙北極真経'''という経典だった{{Sfn|小田|1942|p=103}}。 | ||
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+ | 1921年(民国10)に同志48人が集って劉紹基の自宅に道院が開設され、1922年(民国11)にその「外行」のための機関として紅卍字会が設立され、それ以降、運動は急速に拡大していくことになった{{Sfn|小田|1942|p=103}}{{Sfn|原|2009|pp=169-170は、道院は1920年に[[山東省]]で設立され、急速に中国全土に拡大した、としている。}}。 | ||
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+ | 道院の信者は'''修方'''と呼ばれ、内修をして壇訓によって許されると修方になることができた。修方でありかつ外慈を行う資格のある人物が紅卍字会の会員になることができた{{Sfn|小田|1942|p=104}}。 | ||
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+ | 道院の修方・紅卍字会の会員になる際に、もともと信仰していた宗教宗派を捨てる必要はなかった。この点が既成の宗教と異なり、[[皇道神道]]と類似していた。{{Sfn|小田|1942|p=105}} | ||
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+ | ==組織== | ||
+ | 道院の組織については、[[紅卍字会#組織]]を参照。 | ||
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+ | 道院では、6の数が重んじられ、5教の教祖に老祖を加えた6祖を祀り、また道院の組織は以下の6院で構成されていた{{Sfn|小田|1942|p=104}}。 | ||
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+ | いわゆる「お伺い」を立てて神示を求める。ただし、1942年当時、あまり行われていなかった。{{Sfn|小田|1942|p=104}} | ||
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+ | 医療処方のことについて訓を請う。1942年当時、あまり行われていなかった。{{Sfn|小田|1942|p=104}} | ||
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+ | ====書画壇==== | ||
+ | 通常の扶乩ではなく、乩筆に毛筆を結び、紙上に書画を得た。{{Sfn|小田|1942|p=104}} | ||
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+ | ===経院=== | ||
+ | 経典の編纂・保管・印刷などを行う所。[[文殊仏]]、[[普賢仏]]を祀った。{{Sfn|小田|1942|p=104}} | ||
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+ | ===慈院=== | ||
+ | 慈善事業に関することを司る所。[[済仏]]と[[孫真人]]を祀った。{{Sfn|小田|1942|p=104}} | ||
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+ | ===宣院=== | ||
+ | 道旨の講演、求道者の紹介、新聞雑誌の発行等を司り、世界各報の研究、霊学の研究等を行う所。特に神位は奉安していなかった。{{Sfn|小田|1942|p=104}} | ||
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+ | また同書は、道院や紅卍字会の活動が拡大していく過程では、10数年後に満州事変や日中戦争が勃発することを予想して中国人がこれに対処するための生活原理、指導方針が天啓によって示されたと解釈できるような徴候があった、としている{{Sfn|小田|1942|pp=102-103}}。 | ||
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*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291 | *{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291 | ||
+ | *{{Aya|小田|year=1942}} 「世界紅卍字会存在の意義」[[大日本興亜連盟]]『興亜』v.3 n.5、1942年5月、pp.98-107、{{NDLJP|1538109/55}}{{閉}} | ||
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道院(どういん)は、1918年-1919年頃に山東省で創始され、1920年代-1930年代に中国東北部や華北地方などの中国各地に急速に拡大した宗教団体。自然科学の進歩を受容しつつも、唯物論的な世界観・人生観をアンチテーゼとし、宗教的信仰を訴えた。至聖先天老祖(老祖)を唯一の宇宙最高神として、その下に5つの宗教の教祖などを聖賢として祀り、凡ての宗教を根本の唯一神に従わせることを究極の目的として、内的な修養と外的な慈善のために活動することを旨とした。中国古来の占いである扶乩によって神の啓示を仰ぎ(壇訓)、紅卍字会を通じて慈善活動などの社会的な活動を行った。満州事変以降の日中戦争期には、日本軍の特務機関が道院や紅卍字会に介入し、老祖と天照大神を同一視する宣伝工作や、日本軍に従うよう壇訓を下させる謀略工作が行われたもようである。
目次
思想と目的[編集]
道院の思想では、近代の唯物論的な世界観・人生観に対して、自然科学の進歩を歓迎しつつも、それを唯一の真理とみなして個人・社会の生活原理とすることを誤りとする。このことは、古来から様々な聖賢が現われて宗教信仰を促してきたことに通じ、また宗教はその時代や民族環境によって様々な形態を有しているが、究極には唯一の神の摂理、根本の大道に従い、これに帰すべきである、とされる。[1]
道院ではこの唯一最高の神霊を仮に「至聖先天老祖」または単に「老祖」と呼び、老祖の下に釈迦・老子・頂先師(孔子の師)・キリスト(基督)・モハメットの5つの宗教の教祖を配し、老祖すなわち唯一神が様々な聖賢を世に遣わして人類救済の一端を行わせていた、と教えていた[1]。
道院の思想の目的は、凡ての宗教はその根元において唯一の神に帰するのであるから、その唯一の神の意志によって世道人心を救い、世界人類の永遠の平和を実現することにある、とされ、そのために会員は、内的修養に努める(内修)とともに、外に向かって慈善活動などの働きかけ(外慈、外行)をすることを求められた[2]。
扶乩[編集]
道院は、扶乩(フーチ)という中国の伝統的な乩示(ちし、占い)によって神の啓示を仰ぎ、扶乩によって与えられた天の啓示(壇訓)に従って行動した[3][4][5]。
道院を思想・信仰上の背景として慈善活動などの社会的活動を行った組織が紅卍字会で、紅卍字会は道院の壇訓に従って活動し、道院と紅卍字会は表裏一体・不可分の関係にあった[3][6]。
沿革[編集]
1918年(民国7)-1919年(民国8)頃、済南の東北方約70里-80里にある浜県の知事だった呉福林と、同地の営長だった劉紹基は、中国古来の天啓(神の啓示)を受ける方法だった扶乩を信じ、知事の官舎に祀られていた尚真人の社祠で神示を受け、それを政治にも反映させていた[7]。
このとき、2人に宇宙最高の神霊として老祖が降臨し、人類救済の大抱負を告げ、その具体的方法を授けたという[5]。具体的方法とは、上元坐法という修坐の方法と、大乙北極真経という経典だった[5]。
1921年(民国10)に同志48人が集って劉紹基の自宅に道院が開設され、1922年(民国11)にその「外行」のための機関として紅卍字会が設立され、それ以降、運動は急速に拡大していくことになった[5][8]。
修方[編集]
道院の信者は修方と呼ばれ、内修をして壇訓によって許されると修方になることができた。修方でありかつ外慈を行う資格のある人物が紅卍字会の会員になることができた[9]。
求修者が修方になるには、以下のような手続きを経る必要があった[10]。
- 紹介者を同伴するか、紹介状を持って道院を訪問し、求修申請書を提出。
- 壇訓によって准修を許可されたら、毎日16分ずつの修坐を続け、10日毎に道院に報告。
- 修坐が100日に達したら壇訓を仰いで道名を授かり、修方となる。同時に経典の購買を許されるようになる。
- 一定額以上の慈業費を喜捨すると紅卍字会員となることができる。
ただし例外的に壇訓によって一切の手続きを省略して直ちに修方となり会員となることができる人もいた[10]。
道院の修方・紅卍字会の会員になる際に、もともと信仰していた宗教宗派を捨てる必要はなかった。この点が既成の宗教と異なり、皇道神道と類似していた。[10]
組織[編集]
道院の組織については、紅卍字会#組織を参照。
構成[編集]
道院では、6の数が重んじられ、5教の教祖に老祖を加えた6祖を祀り、また道院の組織は以下の6院で構成されていた[9]。
統院[編集]
至聖先天老祖と5教の教祖を祀った院。道院の中心とされた。[9]
坐院[編集]
壇院[編集]
扶乩によって神示を受ける所。尚真人と岳飛を祀った。更に「6壇」で構成されていた。[9]
統壇[編集]
老祖その他の神霊が降って壇訓を示した[9]。
講経壇[編集]
伝経を司る壇。済南の母院のみにあった。[9]
文字壇[編集]
雑誌新聞等の原稿を乩示した[9]。
間事壇[編集]
いわゆる「お伺い」を立てて神示を求める。ただし、1942年当時、あまり行われていなかった。[9]
求方壇[編集]
医療処方のことについて訓を請う。1942年当時、あまり行われていなかった。[9]
書画壇[編集]
通常の扶乩ではなく、乩筆に毛筆を結び、紙上に書画を得た。[9]
経院[編集]
経典の編纂・保管・印刷などを行う所。文殊仏、普賢仏を祀った。[9]
慈院[編集]
宣院[編集]
道旨の講演、求道者の紹介、新聞雑誌の発行等を司り、世界各報の研究、霊学の研究等を行う所。特に神位は奉安していなかった。[9]
日本軍による利用[編集]
小田 (1942 102-103)は、ある民族(漢民族)や人類(中国人)の意識する進路が、神(天照大神)の意図とあまりにもかけ離れ、「最早や救ふ可からざる」に到ったとき、「我が国体の真姿」を認識せしめる為には「天啓」を与えるしか方法がなかった、としている。
また同書は、道院や紅卍字会の活動が拡大していく過程では、10数年後に満州事変や日中戦争が勃発することを予想して中国人がこれに対処するための生活原理、指導方針が天啓によって示されたと解釈できるような徴候があった、としている[11]。
1940年の正月に奉天の道院で老祖とは天照大神である、という意味の啓示があったといい、1941年7月に満洲国皇帝は啓示にしたがって建国廟を創建し主祭神として天照大神を祀った[1]。
弾圧[編集]
1942年頃までに、道院はしばしば中国当局の弾圧や制限を受けたとされる[12]。他方で道院の外慈機関として活動した紅卍字会は「政治を語らず、党派に渉らず」を原則に掲げて活動し、この原則は必ずしも内実に沿ったものでなく、保身的な意味合いが強いとみられていたが、そのために弾圧や制限の対象になることを免れた[13]。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 小田 1942 101
- ↑ 小田 1942 101-102
- ↑ 3.0 3.1 原 2009 174
- ↑ 小田 1985 157
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 小田 1942 103
- ↑ 小田 1942 100-101
- ↑ 小田 1942 102
- ↑ 原 2009 169-170は、道院は1920年に山東省で設立され、急速に中国全土に拡大した、としている。
- ↑ 9.00 9.01 9.02 9.03 9.04 9.05 9.06 9.07 9.08 9.09 9.10 9.11 9.12 9.13 小田 1942 104
- ↑ 10.0 10.1 10.2 小田 1942 105
- ↑ 小田 1942 102-103
- ↑ 小田 1942 106
- ↑ 小田 1942 105-106
参考文献[編集]
- 原 (2009) 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
- 小田 (1985) 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291
- 小田 (1942) 「世界紅卍字会存在の意義」大日本興亜連盟『興亜』v.3 n.5、1942年5月、pp.98-107、NDLJP 1538109/55