「ビハール号事件」の版間の差分
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== 背景 == | == 背景 == | ||
− | 1944年2月上旬、海軍[[南西方面艦隊]]司令部(司令長官・[[高須四郎]]中将)は、[[インド洋]]上における敵の交通破壊、敵商船の捕獲を目的とする「インド洋作戦」([["サ"号作戦]])を計画し、[[第16戦隊]](司令官・[[左近允尚正]]少将)に実行を命令していた{{Sfn|岩川|1995|p=238}}<ref>{{Harvtxt|小板橋| | + | 1944年2月上旬、海軍[[南西方面艦隊]]司令部(司令長官・[[高須四郎]]中将)は、[[インド洋]]上における敵の交通破壊、敵商船の捕獲を目的とする「インド洋作戦」([["サ"号作戦]])を計画し、[[第16戦隊]](司令官・[[左近允尚正]]少将)に実行を命令していた{{Sfn|岩川|1995|p=238}}<ref>{{Harvtxt|小板橋|1995|pp=84-90}}では、日本軍の船舶不足を補うための作戦だったとしている。</ref><ref>{{Harvtxt|軍艦利根|1944|p=2043}}では、拿捕を建前とし、止むを得ない場合のみ撃沈することを定めていた、としている。</ref>。[[第7戦隊]]所属の重巡洋艦「利根」(艦長・[[黛治夫]]大佐)は、「インド洋作戦」実行のため、僚船「[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]」とともに臨時に第16戦隊に配属された{{Sfn|岩川|1995|p=238}}。 |
== 事件 == | == 事件 == | ||
− | 1944年3月1日、「利根」は、第16戦隊の旗艦「[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]」や「筑摩」とともに[[ジャワ島]]の[[バタビア]]港を出発{{Sfn|岩川|1995|p=238}}。同月9日午前11時頃、インド洋の[[ココス島]] | + | 1944年3月1日、「利根」は、第16戦隊の旗艦「[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]」や「筑摩」とともに[[ジャワ島]]の[[バタビア]]港を出発{{Sfn|岩川|1995|p=238}}。同月9日午前11時頃、インド洋の[[ココス島]]南西海域で英国商船ビハール(Behar)号を発見した{{Sfn|井上ほか|2010|pp=387-388}}{{Sfn|岩川|1995|p=238}}<ref>船名は、{{Harvtxt|井上ほか|2010|pp=387-388}}では「ビハール号」、{{Harvtxt|岩川|1995|p=238}}および{{Harvtxt|東京裁判ハンドブック|1989|p=115}}では「ビーハー号」、{{Harvtxt|軍艦利根|1944|p=2053}}では「ベハー号」としている。英語表記は{{Harvtxt|Linton|2010}}による。</ref>。 |
− | + | 利根は艦首の菊の御紋章を隠し、米国旗をメインマストに掲げるなどして米国艦船を偽装しており{{Sfn|軍艦利根|1944|p=2030}}、ビハール号に「重要通信あり近寄れ」との信号を送ってビハール号を[[拿捕]]しようとしたが{{Sfn|軍艦利根|1944|pp=2034-2035}}、ビハール号が指示に応じなかったため、撃沈し、生存者の乗客・乗員80人(約100人、約115人とも)を収容した<ref>{{Harvtxt|小板橋|1995|pp=84-90}}。同書では、生存者115人を救助したとしている。</ref><ref>{{Harvtxt|井上ほか|2010|pp=387-388}}。同書では、生存者約100人、としている。</ref><ref>{{Harvtxt|岩川|1995|p=238}}。同書では、女子を含む乗員80人を収容したとしている。</ref><ref>{{Harvtxt|軍艦利根|1944|pp=2032-2037}}。{{Harvtxt|軍艦利根|1944|pp=2045-2046}}では、捕虜の人数について、英国人41名、中国人3名、インド人・ゴア人計60名の総計104名と報告している。なお、{{Harvtxt|軍艦利根|1944|pp=2040}}の「令達報告及通報」には、送信信号の内容の記録として「捕虜艦長以下129名(うち白人士官21人ほか16人その他インド人)」とある。</ref>。 | |
− | + | 「利根」の報告を受けた第16戦隊の左近允司令官は、「(情報聴取のため)2,3名の捕虜を残し、残りは所定のとおりに速やかに処分せよ」との信号命令を発したとされる{{Sfn|岩川|1995|p=238}}{{Sfn|Linton|2010}}。しかし「利根」の黛艦長は、尋問中であることを理由に捕虜を収容したまま6日後の同月15日にバタビアに帰港し、捕虜のうち女性およびインド人を含む15人(ないし約40人、35人)を上陸させた<ref>{{Harvtxt|岩川|1995|p=238}}。同書では、80人のうち15人を上陸させた、としている。</ref>{{Sfn|Linton|2010}}<ref>{{Harvtxt|井上ほか|2010|pp=387-388}}では、約100人のうち約40人を上陸させたとしている。</ref><ref>{{Harvtxt|小板橋|1995|pp=102-107}}では、捕虜115人のうち35人をバタビアへ送ったとしている。</ref>。 | |
− | == | + | 同月18日、バタビアで「利根」は、第16戦隊指揮下を脱して第7戦隊に復帰するよう命じられ、シンガポールに向かうため、残る捕虜65名(約60人、80人とも)を艦内に抑留し続けたまま、出航した{{Sfn|岩川|1995|p=239}}<ref>{{Harvtxt|井上ほか|2010|pp=387-388}}では、残りの捕虜約60人について、左近允司令官から「おれの責任とするから、残務処理のつもりでシンガポールに到着するまでに処理せよ」と命じられた、としている。</ref><ref>{{Harvtxt|小板橋|1995|p=102-107}}では、残る捕虜の人数は80人としている。</ref>。バンカ海峡([[:wiki:en:Bangka Strait|Bangka Strait]])をスマトラ島寄りの[[リンガ湾]]上まで来たところの[[公海]]上で、黛艦長は、捕虜全員の殺害を命じ、深夜に捕虜を1人ずつ船艙から甲板上へ連れ出して殺害し、死体を海中に投棄した{{Sfn|小板橋|1995|pp=110-118}}{{Sfn|岩川|1995|p=239}}<ref>殺害された捕虜の人数は、{{Harvtxt|Linton|2010}}では約65人とされており、{{Harvtxt|岩川|1995|p=239}}では65人、{{Harvtxt|井上ほか|2010|p=388}}および{{Harvtxt|東京裁判ハンドブック|1989|p=115}}では約60人、{{Harvtxt|小板橋|1995|pp=110-118}}では80人とされている。</ref>。 |
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捕虜を処分するよう指示したのは左近允司令官だったが、捕虜の殺害が実行されたのは「利根」が第16戦隊の指揮下を離れた後だったため、法廷で、左近允司令官は、「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛艦長は、「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した{{Sfn|岩川|1995|pp=239-240}}{{Sfn|Linton|2010}}。被告の陳述や証人の証言もそれぞれ食い違ったが、証人は総じて「司令官は部下の十字架を負うべき」という態度だったとされる{{Sfn|岩川|1995|pp=239-240}}。 | 捕虜を処分するよう指示したのは左近允司令官だったが、捕虜の殺害が実行されたのは「利根」が第16戦隊の指揮下を離れた後だったため、法廷で、左近允司令官は、「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛艦長は、「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した{{Sfn|岩川|1995|pp=239-240}}{{Sfn|Linton|2010}}。被告の陳述や証人の証言もそれぞれ食い違ったが、証人は総じて「司令官は部下の十字架を負うべき」という態度だったとされる{{Sfn|岩川|1995|pp=239-240}}。 | ||
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裁判記録では、黛艦長が比較的軽い刑となった理由の一つとして、黛艦長が殺害の命令を改めるよう意見具申し、却下されていたことが挙げられている{{Sfn|林|1998|pp=118-119}}。 | 裁判記録では、黛艦長が比較的軽い刑となった理由の一つとして、黛艦長が殺害の命令を改めるよう意見具申し、却下されていたことが挙げられている{{Sfn|林|1998|pp=118-119}}。 | ||
− | == | + | == 付録 == |
− | + | === 関連文献 === | |
− | + | * {{Cite journal|last=Linton |year=2012 |author= [[:wiki:en:Suzannah Linton|Suzannah Linton]] |date= |title=REDISCOVERING THE WAR CRIMES TRIALS IN HONG KONG, 1946–48 |journal=Melbourne Journal of International Law |volume=13 |issue=1 |pages=1-65 |publisher= [[:wiki:en:Melbourne Law School|Melbourne Law School]] |url=http://law.unimelb.edu.au/__data/assets/pdf_file/0006/1687254/Linton.pdf |format=pdf |month= June |accessdate=2018年4月26日閲覧 }} | |
− | + | *青山淳平『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判』[[光人社]]、2006年、ISBN 4769813112 | |
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− | * {{Cite | + | {{Reflist|18em}} |
− | * {{ | + | === 参考文献 === |
− | * {{ | + | *{{Aya|小板橋|year=1995}} 小板橋孝策『海軍操舵員よもやま物語 - 艦の命運を担った"かじとり魂"』〈NF文庫〉光人社、2015年(原著1995年)、ISBN 978-4769828686 |
− | * {{ | + | *{{Aya|Linton|year=2010}} Suzannah Linton、[http://hkwctc.lib.hku.hk/exhibits/show/hkwctc/documents/item/77 Hong Kong's War Crimes Trials Collection Website > Case No. WO235/1089]、University of Hong Kong Libraries、2010年12月25日、2018年4月26日閲覧 |
− | * {{ | + | *{{Aya|井上ほか|year=2010}} [[井上亮 (ジャーナリスト)|井上亮]]、[[半藤一利]]、[[秦郁彦]]、[[保坂正康]]『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年、ISBN 978-4532167523 |
− | * {{ | + | *{{Aya|林|year=1998}} 林博史『裁かれた戦争犯罪 - イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、ISBN 4000009001 |
− | * {{ | + | *{{Aya|岩川|year=1995}} [[岩川隆]]『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915 |
− | + | *{{Aya|東京裁判ハンドブック|year=1989}} 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年、ISBN 4250890139 | |
− | + | *{{Aya|茶園|year=1989}} 茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 下』不二出版、1989年、{{JPNO|89052289}} | |
+ | *{{Aya|軍艦利根|year=1944}} 軍艦利根『軍艦利根戦闘詳報 第6号』1944年3月9日、{{Jacar|C08030573400}} | ||
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2018年5月5日 (土) 10:31時点における最新版
ビハール号事件(ビハールごうじけん)とは、1944年3月18日に、スマトラ島東方の公海上で、日本海軍の重巡洋艦「利根」が、捕虜として艦内に収容していた英国商船ビハール号の乗員・乗客約65人を殺害し、死体を海に投棄した事件。ビーハー号事件、利根事件とも呼ばれる。1947年にイギリス軍香港裁判で第16戦隊の司令官が絞首刑、「利根」の艦長が有期刑の判決を受けた。
背景[編集]
1944年2月上旬、海軍南西方面艦隊司令部(司令長官・高須四郎中将)は、インド洋上における敵の交通破壊、敵商船の捕獲を目的とする「インド洋作戦」("サ"号作戦)を計画し、第16戦隊(司令官・左近允尚正少将)に実行を命令していた[1][2][3]。第7戦隊所属の重巡洋艦「利根」(艦長・黛治夫大佐)は、「インド洋作戦」実行のため、僚船「筑摩」とともに臨時に第16戦隊に配属された[1]。
事件[編集]
1944年3月1日、「利根」は、第16戦隊の旗艦「青葉」や「筑摩」とともにジャワ島のバタビア港を出発[1]。同月9日午前11時頃、インド洋のココス島南西海域で英国商船ビハール(Behar)号を発見した[4][1][5]。
利根は艦首の菊の御紋章を隠し、米国旗をメインマストに掲げるなどして米国艦船を偽装しており[6]、ビハール号に「重要通信あり近寄れ」との信号を送ってビハール号を拿捕しようとしたが[7]、ビハール号が指示に応じなかったため、撃沈し、生存者の乗客・乗員80人(約100人、約115人とも)を収容した[8][9][10][11]。
「利根」の報告を受けた第16戦隊の左近允司令官は、「(情報聴取のため)2,3名の捕虜を残し、残りは所定のとおりに速やかに処分せよ」との信号命令を発したとされる[1][12]。しかし「利根」の黛艦長は、尋問中であることを理由に捕虜を収容したまま6日後の同月15日にバタビアに帰港し、捕虜のうち女性およびインド人を含む15人(ないし約40人、35人)を上陸させた[13][12][14][15]。
同月18日、バタビアで「利根」は、第16戦隊指揮下を脱して第7戦隊に復帰するよう命じられ、シンガポールに向かうため、残る捕虜65名(約60人、80人とも)を艦内に抑留し続けたまま、出航した[16][17][18]。バンカ海峡(Bangka Strait)をスマトラ島寄りのリンガ湾上まで来たところの公海上で、黛艦長は、捕虜全員の殺害を命じ、深夜に捕虜を1人ずつ船艙から甲板上へ連れ出して殺害し、死体を海中に投棄した[19][16][20]。
戦犯裁判[編集]
1947年9月に、イギリス軍香港裁判で、第16戦隊の左近允司令官と、「利根」の黛艦長が事件の被告人として起訴された[12][21][22][23][16]。
捕虜を処分するよう指示したのは左近允司令官だったが、捕虜の殺害が実行されたのは「利根」が第16戦隊の指揮下を離れた後だったため、法廷で、左近允司令官は、「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛艦長は、「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した[24][12]。被告の陳述や証人の証言もそれぞれ食い違ったが、証人は総じて「司令官は部下の十字架を負うべき」という態度だったとされる[24]。
1947年10月29日に判決が下され、左近允司令官は絞首刑、黛艦長は禁錮7年を宣告された[21][22][25][12]。
1948年1月21日に香港のスタンレー刑務所(Stanley Prison)で左近允司令官の死刑が執行された[12]。
裁判記録では、黛艦長が比較的軽い刑となった理由の一つとして、黛艦長が殺害の命令を改めるよう意見具申し、却下されていたことが挙げられている[26]。
付録[編集]
関連文献[編集]
- Linton (2012) Suzannah Linton REDISCOVERING THE WAR CRIMES TRIALS IN HONG KONG, 1946–48 pdf Melbourne Journal of International Law 13 1 Melbourne Law School 1-65
- 青山淳平『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判』光人社、2006年、ISBN 4769813112
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 岩川 1995 238
- ↑ 小板橋 (1995 84-90)では、日本軍の船舶不足を補うための作戦だったとしている。
- ↑ 軍艦利根 (1944 2043)では、拿捕を建前とし、止むを得ない場合のみ撃沈することを定めていた、としている。
- ↑ 井上ほか 2010 387-388
- ↑ 船名は、井上ほか (2010 387-388)では「ビハール号」、岩川 (1995 238)および東京裁判ハンドブック (1989 115)では「ビーハー号」、軍艦利根 (1944 2053)では「ベハー号」としている。英語表記はLinton (2010 )による。
- ↑ 軍艦利根 1944 2030
- ↑ 軍艦利根 1944 2034-2035
- ↑ 小板橋 (1995 84-90)。同書では、生存者115人を救助したとしている。
- ↑ 井上ほか (2010 387-388)。同書では、生存者約100人、としている。
- ↑ 岩川 (1995 238)。同書では、女子を含む乗員80人を収容したとしている。
- ↑ 軍艦利根 (1944 2032-2037)。軍艦利根 (1944 2045-2046)では、捕虜の人数について、英国人41名、中国人3名、インド人・ゴア人計60名の総計104名と報告している。なお、軍艦利根 (1944 2040)の「令達報告及通報」には、送信信号の内容の記録として「捕虜艦長以下129名(うち白人士官21人ほか16人その他インド人)」とある。
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 Linton 2010
- ↑ 岩川 (1995 238)。同書では、80人のうち15人を上陸させた、としている。
- ↑ 井上ほか (2010 387-388)では、約100人のうち約40人を上陸させたとしている。
- ↑ 小板橋 (1995 102-107)では、捕虜115人のうち35人をバタビアへ送ったとしている。
- ↑ 16.0 16.1 16.2 岩川 1995 239
- ↑ 井上ほか (2010 387-388)では、残りの捕虜約60人について、左近允司令官から「おれの責任とするから、残務処理のつもりでシンガポールに到着するまでに処理せよ」と命じられた、としている。
- ↑ 小板橋 (1995 102-107)では、残る捕虜の人数は80人としている。
- ↑ 小板橋 1995 110-118
- ↑ 殺害された捕虜の人数は、Linton (2010 )では約65人とされており、岩川 (1995 239)では65人、井上ほか (2010 388)および東京裁判ハンドブック (1989 115)では約60人、小板橋 (1995 110-118)では80人とされている。
- ↑ 21.0 21.1 井上ほか 2010 388
- ↑ 22.0 22.1 東京裁判ハンドブック 1989 115
- ↑ 茶園 1989 150
- ↑ 24.0 24.1 岩川 1995 239-240
- ↑ 岩川 1995 240
- ↑ 林 1998 118-119
参考文献[編集]
- 小板橋 (1995) 小板橋孝策『海軍操舵員よもやま物語 - 艦の命運を担った"かじとり魂"』〈NF文庫〉光人社、2015年(原著1995年)、ISBN 978-4769828686
- Linton (2010) Suzannah Linton、Hong Kong's War Crimes Trials Collection Website > Case No. WO235/1089、University of Hong Kong Libraries、2010年12月25日、2018年4月26日閲覧
- 井上ほか (2010) 井上亮、半藤一利、秦郁彦、保坂正康『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年、ISBN 978-4532167523
- 林 (1998) 林博史『裁かれた戦争犯罪 - イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、ISBN 4000009001
- 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
- 東京裁判ハンドブック (1989) 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年、ISBN 4250890139
- 茶園 (1989) 茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 下』不二出版、1989年、JPNO 89052289
- 軍艦利根 (1944) 軍艦利根『軍艦利根戦闘詳報 第6号』1944年3月9日、JACAR C08030573400