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'''花岡受難者聯誼会'''(はなおかじゅなんしゃれんぎかい)または'''花岡事件受難者聯誼会'''、正式には'''鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聨誼会'''(かしまぐみはなおかきょうせいろうどうせいぞんしゃおよびじゅんなんしゃいぞくれんぎかい)は、1980年代末に[[中国]]で発足した、[[花岡事件]]の生存者やその遺族の連絡会。1989年に[[鹿島建設]]に対する公開書簡を発表して謝罪や損害賠償金の支払いなどを要求し、補償交渉を行なった後、会の代表が1995年に提訴された[[花岡事件 (対鹿島訴訟)|対鹿島訴訟]]の原告となった。
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'''花岡受難者聯誼会'''(はなおかじゅなんしゃれんぎかい)または'''花岡事件受難者聯誼会'''、正式には'''鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聯誼会'''(かしまぐみはなおかきょうせいろうどうせいぞんしゃおよびじゅんなんしゃいぞくれんぎかい)は、[[1990年]]に[[中国]]で設立された、[[花岡事件]]の生存者やその遺族の連絡会。1989年に準備会が発足し、[[鹿島建設]]に対する公開書簡を発表して謝罪や損害賠償金の支払いなどを要求、1990年の会の設立後、鹿島建設と補償交渉を行ない、会の代表が1995年に提訴された[[花岡事件 (対鹿島訴訟)|対鹿島訴訟]]の原告となった。
  
== 準備会の発足 ==
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== 準備会 ==
[[花岡事件]]のときに鹿島組花岡出張所で使役されていた[[華人労務者]]隊の大隊長をしていた[[耿諄]]は、1987年に訪日した際に、[[鹿島建設]](旧鹿島組)が花岡事件に対して態度を表明していないことを知り、鹿島建設と交渉するため、帰国後に中国に帰国していた花岡事件の生存者や遺族約40人と連絡を取り合い、1980年代末に、'''鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聨誼準備会'''(以下「準備会」)を発足させた<ref>野添(1993)p.40、李(2010)p.100</ref>。
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[[花岡事件]]のときに鹿島組花岡出張所の[[華人労務者]]隊の大隊長をしていた[[耿諄]]は、1987年に訪日した際に、[[鹿島建設]](旧鹿島組)が花岡事件に対して態度を表明していないことを知り、鹿島建設と交渉するため、帰国後に中国に帰国していた花岡事件の生存者や遺族約40人と連絡を取り合った<ref>野添(1993)p.40、李(2010)p.100</ref>。
*「中国では違法とされる団体が結成された」として報道で大きく取り上げられた<ref>新美(2006)p.236</ref>。
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準備会は、日中両国の歴史研究者や日本の市民運動団体から経済的支援と法的支援を得た<ref>李(2010)p.100</ref>。
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1988年10月に[[開封]]で、耿諄、張肇国、劉虞卿ら元国民党軍官と、[[花岡事件 (暴動事件)|蜂起]]後に大隊長となった李介生、地下共産党の幹部だった王敏ら、元華人労務者隊の幹部が戦後中国で初めて会合を開いた<ref>林(2008)p.299</ref>。会合には[[林伯耀]]も出席した<ref>林(2008)p.299</ref>。
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1989年12月に、'''鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聯誼準備会'''(以下「準備会」)が発足した<ref>野添(1993)p.40、有光ほか(2009)p.279、李(2010)p.100</ref>。
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*会長は耿諄、副会長は李介生、幹事は王敏と張肇国<ref>有光ほか(2009)p.279</ref>。
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*当時、「中国では違法とされる団体が結成された」として報道で大きく取り上げられた<ref>新美(2006)p.236</ref>。
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*準備会は、日中両国の歴史研究者や日本の市民運動団体から経済的支援と法的支援を得た<ref>李(2010)p.100</ref>。
  
 
== 鹿島建設に対する公開書簡 ==
 
== 鹿島建設に対する公開書簡 ==
1989年12月22日に[[北京市]]で準備会は公開書簡を公表し、鹿島建設に対して謝罪と大館市・北京市における記念館の開設、被害者986人に対する1人あたり500万円の損害賠償金の支払いの3項目を要求した<ref>李(2010)p.100、新美(2006)pp.282,306、野添(1993)pp.40-41</ref>。
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1989年12月22日に[[北京市]]で準備会は公開書簡を公表し、鹿島建設に対して謝罪と大館市・北京市における記念館の開設、被害者986人に対する1人あたり500万円の損害賠償金の支払いの3項目を要求した<ref>李(2010)p.100、有光ほか(2009)p.279、新美(2006)pp.282,306、野添(1993)pp.40-41</ref>。
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*公開書簡公表当時の会員数は4人だった<ref>NHK(1994)p.217</ref>。
  
== 聯宜会の発足 ==
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== 聯誼会の発足 ==
[[1990年]][[11月9日]]に、日本から「[[中国人強制連行を考える会]]」の代表7人が訪中し、北京で、花岡事件の生存者39人、遺族11人、付き添いの家族ら40数人を集めて、はじめて「花岡事件殉難者追悼大会」が開かれ、準備会を'''鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聨誼会'''(略して'''花岡受難者聨誼会'''または'''花岡事件受難者聨誼会''')として運動を進めることが決められた<ref>野添(1993)pp.口絵,42</ref>。
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[[1990年]][[11月9日]]に、日本から[[中国人強制連行を考える会]]の代表7人が訪中し、北京で、花岡事件の生存者39人、遺族11人、付き添いの家族ら40数人を集めて、はじめて「花岡事件殉難者追悼大会」が開かれ、準備会を'''鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聯誼会'''(略して'''花岡受難者聯誼会'''または'''花岡事件受難者聯誼会''')として運動を進めることが決められた<ref>野添(1993)pp.口絵,42</ref>。
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聯誼会は、鹿島との交渉を「第2の花岡蜂起」として位置付け、
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*学習会や追悼集会、日本の支援者との交流会を開催
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*[[LT]]駐日本事務所の元代表の1人L、元駐スペイン大使Y、元駐オーストラリア領事U、元中国駐大阪総領事のS、「日本に強制連行された中国人労工および遺族聯誼会」執行会長で[[北京北方工業大学]]の副学長・[[王起禎]]ら、中国の有識者を顧問に迎える
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*北京の[[中国人民抗日戦争紀念館]]で展示会を開催
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*メディアに働きかけて、中国国内で花岡事件についての報道を促す
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などした<ref>林(2008)pp.299,302</ref>。
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1993年頃までに、[[河北大学]]の講師・劉宝辰らや学生による元華人労務者の生存者・遺族の調査の進展により、鹿島組花岡出張所への連行者とその遺族350人が確認され、聯誼会の会員も増加した<ref>NHK(1994,p.217)、杉原(2002)p.133</ref>。
  
 
== 対鹿島訴訟の提訴 ==
 
== 対鹿島訴訟の提訴 ==
1995年6月28日に、聨誼会の代表11名が原告となって、[[東京地方裁判所]]に、[[花岡事件 (対鹿島訴訟)|対鹿島訴訟]]を提起した<ref>李(2010)pp.101-102、新美(2006)pp.168,307</ref>。
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1995年6月28日に、聯誼会の代表11名が原告となって、[[東京地方裁判所]]に、[[花岡事件 (対鹿島訴訟)|対鹿島訴訟]]を提起した<ref>李(2010)pp.101-102、新美(2006)pp.168,307</ref>。
  
== 和解の受容 ==
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== 和解の受容と拒否 ==
2000年11月に対鹿島訴訟の和解が成立した後、同年12月30日に原告側弁護団が北京を訪れ、聨誼会に和解の成立を報告した<ref>新美(2006)p.308</ref>。聨誼会は、会として和解条項を受け入れたが、原告団に参加した被害者のうち、耿諄ら十数人は、聨誼会の総意を尊重するとしながらも、個人としては和解を受け入れず、補償金を受け取らないと宣言した<ref>李(2010)pp.104,108、新美(2006)p.234</ref>。
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2000年11月に対鹿島訴訟の和解が成立した後、同年12月30日に原告側弁護団が北京を訪れ、聯誼会に和解の成立を報告した<ref>新美(2006)p.308</ref>。聯誼会は、会として和解条項を受け入れたが、耿諄ら十数人は、聯誼会の総意を尊重するとしながらも、個人としては和解を受け入れず、補償金を受け取らないと宣言した<ref>李(2010)pp.104,108、金子(2010)p.400、新美(2006)p.234</ref>。
  
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* 李(2010) 李恩民「[http://hdl.handle.net/2115/61323 日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に]」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
 
* 李(2010) 李恩民「[http://hdl.handle.net/2115/61323 日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に]」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
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* 有光ほか(2009) 有光健・内海愛子・高木喜孝・岡本厚「『花岡和解』を検証する」『世界』2009年9月号、岩波書店、pp.278-296
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* 林(2008) 林伯耀「大事な他者を見失わないために」『世界』2008年7月号、岩波書店、pp.296-305
 
* 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、{{ISBN|4-342-62590-3}}
 
* 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、{{ISBN|4-342-62590-3}}
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* NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、{{ISBN|4140801670}}
 
* 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、{{ISBN|4-275-01510-X}}
 
* 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、{{ISBN|4-275-01510-X}}
  
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2018年1月21日 (日) 21:37時点における版

花岡受難者聯誼会(はなおかじゅなんしゃれんぎかい)または花岡事件受難者聯誼会、正式には鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聯誼会(かしまぐみはなおかきょうせいろうどうせいぞんしゃおよびじゅんなんしゃいぞくれんぎかい)は、1990年中国で設立された、花岡事件の生存者やその遺族の連絡会。1989年に準備会が発足し、鹿島建設に対する公開書簡を発表して謝罪や損害賠償金の支払いなどを要求、1990年の会の設立後、鹿島建設と補償交渉を行ない、会の代表が1995年に提訴された対鹿島訴訟の原告となった。

準備会

花岡事件のときに鹿島組花岡出張所の華人労務者隊の大隊長をしていた耿諄は、1987年に訪日した際に、鹿島建設(旧鹿島組)が花岡事件に対して態度を表明していないことを知り、鹿島建設と交渉するため、帰国後に中国に帰国していた花岡事件の生存者や遺族約40人と連絡を取り合った[1]

1988年10月に開封で、耿諄、張肇国、劉虞卿ら元国民党軍官と、蜂起後に大隊長となった李介生、地下共産党の幹部だった王敏ら、元華人労務者隊の幹部が戦後中国で初めて会合を開いた[2]。会合には林伯耀も出席した[3]

1989年12月に、鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聯誼準備会(以下「準備会」)が発足した[4]

  • 会長は耿諄、副会長は李介生、幹事は王敏と張肇国[5]
  • 当時、「中国では違法とされる団体が結成された」として報道で大きく取り上げられた[6]
  • 準備会は、日中両国の歴史研究者や日本の市民運動団体から経済的支援と法的支援を得た[7]

鹿島建設に対する公開書簡

1989年12月22日に北京市で準備会は公開書簡を公表し、鹿島建設に対して謝罪と大館市・北京市における記念館の開設、被害者986人に対する1人あたり500万円の損害賠償金の支払いの3項目を要求した[8]

  • 公開書簡公表当時の会員数は4人だった[9]

聯誼会の発足

1990年11月9日に、日本から中国人強制連行を考える会の代表7人が訪中し、北京で、花岡事件の生存者39人、遺族11人、付き添いの家族ら40数人を集めて、はじめて「花岡事件殉難者追悼大会」が開かれ、準備会を鹿島組花岡強制労働生存者及殉難者遺族聯誼会(略して花岡受難者聯誼会または花岡事件受難者聯誼会)として運動を進めることが決められた[10]

聯誼会は、鹿島との交渉を「第2の花岡蜂起」として位置付け、

  • 学習会や追悼集会、日本の支援者との交流会を開催
  • LT駐日本事務所の元代表の1人L、元駐スペイン大使Y、元駐オーストラリア領事U、元中国駐大阪総領事のS、「日本に強制連行された中国人労工および遺族聯誼会」執行会長で北京北方工業大学の副学長・王起禎ら、中国の有識者を顧問に迎える
  • 北京の中国人民抗日戦争紀念館で展示会を開催
  • メディアに働きかけて、中国国内で花岡事件についての報道を促す

などした[11]

1993年頃までに、河北大学の講師・劉宝辰らや学生による元華人労務者の生存者・遺族の調査の進展により、鹿島組花岡出張所への連行者とその遺族350人が確認され、聯誼会の会員も増加した[12]

対鹿島訴訟の提訴

1995年6月28日に、聯誼会の代表11名が原告となって、東京地方裁判所に、対鹿島訴訟を提起した[13]

和解の受容と拒否

2000年11月に対鹿島訴訟の和解が成立した後、同年12月30日に原告側弁護団が北京を訪れ、聯誼会に和解の成立を報告した[14]。聯誼会は、会として和解条項を受け入れたが、耿諄ら十数人は、聯誼会の総意を尊重するとしながらも、個人としては和解を受け入れず、補償金を受け取らないと宣言した[15]

付録

脚注

  1. 野添(1993)p.40、李(2010)p.100
  2. 林(2008)p.299
  3. 林(2008)p.299
  4. 野添(1993)p.40、有光ほか(2009)p.279、李(2010)p.100
  5. 有光ほか(2009)p.279
  6. 新美(2006)p.236
  7. 李(2010)p.100
  8. 李(2010)p.100、有光ほか(2009)p.279、新美(2006)pp.282,306、野添(1993)pp.40-41
  9. NHK(1994)p.217
  10. 野添(1993)pp.口絵,42
  11. 林(2008)pp.299,302
  12. NHK(1994,p.217)、杉原(2002)p.133
  13. 李(2010)pp.101-102、新美(2006)pp.168,307
  14. 新美(2006)p.308
  15. 李(2010)pp.104,108、金子(2010)p.400、新美(2006)p.234

参考文献

  • 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
  • 有光ほか(2009) 有光健・内海愛子・高木喜孝・岡本厚「『花岡和解』を検証する」『世界』2009年9月号、岩波書店、pp.278-296
  • 林(2008) 林伯耀「大事な他者を見失わないために」『世界』2008年7月号、岩波書店、pp.296-305
  • 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
  • NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670
  • 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X