「ヒロ渡邉」の版間の差分
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− | 武術/格闘技に関する自歴 | + | [武術/格闘技に関する自歴] |
1969年、初めて武道修行として伝統派空手道(糸洲流)を習い始める。 | 1969年、初めて武道修行として伝統派空手道(糸洲流)を習い始める。 | ||
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その後、ブルース・リー師祖の「燃えよ!ドラゴン」を観て影響を受け、ブルース・リー師祖が截拳道の創始者であることを知ると同時に、截拳道とは何か?という研究に入る。 | その後、ブルース・リー師祖の「燃えよ!ドラゴン」を観て影響を受け、ブルース・リー師祖が截拳道の創始者であることを知ると同時に、截拳道とは何か?という研究に入る。 | ||
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古今東西の武術/格闘技/リング・スポーツを1994年まで約40流派ほどの技術、原理、戦略術などを身をもって体験、吸収してきた。 | 古今東西の武術/格闘技/リング・スポーツを1994年まで約40流派ほどの技術、原理、戦略術などを身をもって体験、吸収してきた。 | ||
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それはジークンドーとはコンセプトであるという教えと、映画・舞台のアクションに様々な用途として使えるのではないかという理由であった。 | それはジークンドーとはコンセプトであるという教えと、映画・舞台のアクションに様々な用途として使えるのではないかという理由であった。 | ||
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1977年、友人の荒木之博氏が渡米し、日本人として初めてダン・イノサント氏よりブルース・リー師祖の武術を習う。帰国後、習ってきた技術を2人で練習。 | 1977年、友人の荒木之博氏が渡米し、日本人として初めてダン・イノサント氏よりブルース・リー師祖の武術を習う。帰国後、習ってきた技術を2人で練習。 | ||
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1979年に荒木氏の尽力により米国からインストラクター(ジョン・ラダルスキー氏)を招き、品川に日本初のジークンドー&フィリピノ・カリを教えるスクールが開校し、荒木氏より、インストラクターのアシスタントを依頼されるが、当時通っていた大学では体育会空手道部(松濤館流)に所属し、芸能界でアクションの仕事をこなし多忙であったため、アシスタントはせず、行ける時にのみ練習をこなしていた。 | 1979年に荒木氏の尽力により米国からインストラクター(ジョン・ラダルスキー氏)を招き、品川に日本初のジークンドー&フィリピノ・カリを教えるスクールが開校し、荒木氏より、インストラクターのアシスタントを依頼されるが、当時通っていた大学では体育会空手道部(松濤館流)に所属し、芸能界でアクションの仕事をこなし多忙であったため、アシスタントはせず、行ける時にのみ練習をこなしていた。 | ||
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1984年、亞州武術学院開設。 | 1984年、亞州武術学院開設。 | ||
同年初渡米し、ブルース・リー師祖の弟子であったダン・イノサント氏およびラリー・ハートセル氏より直々に教えを授かる。 | 同年初渡米し、ブルース・リー師祖の弟子であったダン・イノサント氏およびラリー・ハートセル氏より直々に教えを授かる。 | ||
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1987年、日本人として最初のインストラクターとなり、ダン・イノサント氏よりインストラクターの認定証を直接授かり、日本人インストラクターによる日本人への普及活動が初めて開始された。 | 1987年、日本人として最初のインストラクターとなり、ダン・イノサント氏よりインストラクターの認定証を直接授かり、日本人インストラクターによる日本人への普及活動が初めて開始された。 | ||
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1992年、所属していた米国の本部スクール(コンセプト・グループ)との間である問題が起こり、実質的にコンセプト・グループから脱会する。純粋な心をもって普及に努めていたにもかかわらず、不当かつ不名誉な扱いを受けたことが脱会の決意をもたらした。 | 1992年、所属していた米国の本部スクール(コンセプト・グループ)との間である問題が起こり、実質的にコンセプト・グループから脱会する。純粋な心をもって普及に努めていたにもかかわらず、不当かつ不名誉な扱いを受けたことが脱会の決意をもたらした。 | ||
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1994年、友人の柿沼氏が米国よりインストラクター(マーク・ステュワート氏)を招き、セミナーを開催。実に7年ぶりの再会であったが、ヒロ渡邉同時不当かつ不名誉な扱いを受け脱会したインストラクターが、米国や他国に多数いる事実を知ることとなる。 | 1994年、友人の柿沼氏が米国よりインストラクター(マーク・ステュワート氏)を招き、セミナーを開催。実に7年ぶりの再会であったが、ヒロ渡邉同時不当かつ不名誉な扱いを受け脱会したインストラクターが、米国や他国に多数いる事実を知ることとなる。 | ||
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1996年、マーク・ステュワート氏の尽力により、テッド・ウォン師父よりブルース・リーズジークンドーを直接伝授を受けることを許される。 | 1996年、マーク・ステュワート氏の尽力により、テッド・ウォン師父よりブルース・リーズジークンドーを直接伝授を受けることを許される。 | ||
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同年、日本人がテッド・ウォン師父より真実のブルース・リーズジークンドーを直接学ぶことができるようにするためのプロモーターとしての活動を開始。 | 同年、日本人がテッド・ウォン師父より真実のブルース・リーズジークンドーを直接学ぶことができるようにするためのプロモーターとしての活動を開始。 | ||
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1998年、再来日したマーク・ステュワート氏より、彼が主催する会のインストラクター認定証を授かる。 | 1998年、再来日したマーク・ステュワート氏より、彼が主催する会のインストラクター認定証を授かる。 | ||
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2000年、テッド・ウォン師父より正統ブルース・リーズジークンドーのインストラクター認定証を日本人として最初に授与される。 | 2000年、テッド・ウォン師父より正統ブルース・リーズジークンドーのインストラクター認定証を日本人として最初に授与される。 | ||
− | アクション俳優として | + | [アクション俳優として] |
芸名 ヒロ・アスカ Hiro Asuka/雨宮優(80年代の芸名) | 芸名 ヒロ・アスカ Hiro Asuka/雨宮優(80年代の芸名) | ||
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武道家であり、アクション俳優、またアクション・アート・クリエーターという顔を持つ。 | 武道家であり、アクション俳優、またアクション・アート・クリエーターという顔を持つ。 | ||
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武術においては10歳より空手道を始め、その後、ブルース・リーの影響を受けて様々な武道・ 格闘技(40種)を修得。 | 武術においては10歳より空手道を始め、その後、ブルース・リーの影響を受けて様々な武道・ 格闘技(40種)を修得。 | ||
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特にアメリカに於いては特殊部隊や特殊機関が用いる「C.Q.B」「C.Q.C」なども修得、研究し 改良を加える。 | 特にアメリカに於いては特殊部隊や特殊機関が用いる「C.Q.B」「C.Q.C」なども修得、研究し 改良を加える。 | ||
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またアメリカでブルース・リーが創始した「ジュンファン・グンフー」と「ジークンドー」のインストラクター証を日本人として最初に取得。 | またアメリカでブルース・リーが創始した「ジュンファン・グンフー」と「ジークンドー」のインストラクター証を日本人として最初に取得。 | ||
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現在、日本人正統継承者としてスクールも主催している。 | 現在、日本人正統継承者としてスクールも主催している。 | ||
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他にも「フランス式キックボクシング・サバット」 | 他にも「フランス式キックボクシング・サバット」 | ||
「フィリピン古武術カリ/エスクリーマ」などの | 「フィリピン古武術カリ/エスクリーマ」などの | ||
日本人初インストラクター証を取得した。 | 日本人初インストラクター証を取得した。 | ||
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芸歴としては1976年、アクション俳優・スーツアクター・スタントマンとして芸能事務所に所属。 | 芸歴としては1976年、アクション俳優・スーツアクター・スタントマンとして芸能事務所に所属。 | ||
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映画・TV・舞台・ヒーローアクションショーなど多数の作品に出演。 | 映画・TV・舞台・ヒーローアクションショーなど多数の作品に出演。 | ||
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1980年(昭和55年)に、TBS系の「ウルトラマン80」の第4話にて、だだっ子怪獣ザンドリアスのスーツアクターを務める。 | 1980年(昭和55年)に、TBS系の「ウルトラマン80」の第4話にて、だだっ子怪獣ザンドリアスのスーツアクターを務める。 | ||
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移籍した芸能事務所においては、『大島由加里』(シンシア・ラスター)や新人俳優のアクション指導を行う。 | 移籍した芸能事務所においては、『大島由加里』(シンシア・ラスター)や新人俳優のアクション指導を行う。 | ||
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日本での活動だけでなく、単身でアメリカ(Los Angeles)に渡りアクション映画の技術を学び、また、香港でも数本の作品に出演した。 | 日本での活動だけでなく、単身でアメリカ(Los Angeles)に渡りアクション映画の技術を学び、また、香港でも数本の作品に出演した。 | ||
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帰国後は清水宏次朗主催の芸能事務所に約2年間、俳優として所属。映画やVシネマに出演するも、1996年に芸能界を引退。 | 帰国後は清水宏次朗主催の芸能事務所に約2年間、俳優として所属。映画やVシネマに出演するも、1996年に芸能界を引退。 | ||
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2006年、自らが創始した「メソード・アクション」と「闘駕(トウガ)」アクションを携え、アクション俳優、及びアクション・アート・クリエーターとして芸能界に復帰。 | 2006年、自らが創始した「メソード・アクション」と「闘駕(トウガ)」アクションを携え、アクション俳優、及びアクション・アート・クリエーターとして芸能界に復帰。 | ||
− | ヒロ渡邉が主宰したジークンドー・武術スクールの歴史 | + | [ヒロ渡邉が主宰したジークンドー・武術スクールの歴史] |
1985年 亞州武術学院設立 | 1985年 亞州武術学院設立 |
2018年1月7日 (日) 16:51時点における版
ヒロ渡邉
本名:渡邉 一弘(ワタナベ カズヒロ)
生年月日:1959(昭和34)年4月9日
出 身 地:東京都中央区月島
総武術修行歴:49年(2018年現在)
ジュンファングンフー/ジークンドー修行歴:41年(2018年現在)
スポーツ:器械体操,スキー,インラインスケート
趣味:ギター,TVゲーム,寺社/聖地巡り,テーマパーク巡り
特技:ハンドガン・シューティング,乗馬, 気功整体,新舞踊(日本舞踊),英会話(ネイティブスピーキング)
職業: ①武術アクションが得意な俳優(ヒロ・アスカ) ②危機管理アドバイザー(防犯/防災) ③アセンション/スピリチュアル・アドバイザー
[武術/格闘技に関する自歴]
1969年、初めて武道修行として伝統派空手道(糸洲流)を習い始める。
その後、ブルース・リー師祖の「燃えよ!ドラゴン」を観て影響を受け、ブルース・リー師祖が截拳道の創始者であることを知ると同時に、截拳道とは何か?という研究に入る。
古今東西の武術/格闘技/リング・スポーツを1994年まで約40流派ほどの技術、原理、戦略術などを身をもって体験、吸収してきた。
それはジークンドーとはコンセプトであるという教えと、映画・舞台のアクションに様々な用途として使えるのではないかという理由であった。
1977年、友人の荒木之博氏が渡米し、日本人として初めてダン・イノサント氏よりブルース・リー師祖の武術を習う。帰国後、習ってきた技術を2人で練習。
1979年に荒木氏の尽力により米国からインストラクター(ジョン・ラダルスキー氏)を招き、品川に日本初のジークンドー&フィリピノ・カリを教えるスクールが開校し、荒木氏より、インストラクターのアシスタントを依頼されるが、当時通っていた大学では体育会空手道部(松濤館流)に所属し、芸能界でアクションの仕事をこなし多忙であったため、アシスタントはせず、行ける時にのみ練習をこなしていた。
1984年、亞州武術学院開設。
同年初渡米し、ブルース・リー師祖の弟子であったダン・イノサント氏およびラリー・ハートセル氏より直々に教えを授かる。
1987年、日本人として最初のインストラクターとなり、ダン・イノサント氏よりインストラクターの認定証を直接授かり、日本人インストラクターによる日本人への普及活動が初めて開始された。
1992年、所属していた米国の本部スクール(コンセプト・グループ)との間である問題が起こり、実質的にコンセプト・グループから脱会する。純粋な心をもって普及に努めていたにもかかわらず、不当かつ不名誉な扱いを受けたことが脱会の決意をもたらした。
1994年、友人の柿沼氏が米国よりインストラクター(マーク・ステュワート氏)を招き、セミナーを開催。実に7年ぶりの再会であったが、ヒロ渡邉同時不当かつ不名誉な扱いを受け脱会したインストラクターが、米国や他国に多数いる事実を知ることとなる。
1996年、マーク・ステュワート氏の尽力により、テッド・ウォン師父よりブルース・リーズジークンドーを直接伝授を受けることを許される。
同年、日本人がテッド・ウォン師父より真実のブルース・リーズジークンドーを直接学ぶことができるようにするためのプロモーターとしての活動を開始。
1998年、再来日したマーク・ステュワート氏より、彼が主催する会のインストラクター認定証を授かる。
2000年、テッド・ウォン師父より正統ブルース・リーズジークンドーのインストラクター認定証を日本人として最初に授与される。
[アクション俳優として]
芸名 ヒロ・アスカ Hiro Asuka/雨宮優(80年代の芸名)
武道家であり、アクション俳優、またアクション・アート・クリエーターという顔を持つ。
武術においては10歳より空手道を始め、その後、ブルース・リーの影響を受けて様々な武道・ 格闘技(40種)を修得。
特にアメリカに於いては特殊部隊や特殊機関が用いる「C.Q.B」「C.Q.C」なども修得、研究し 改良を加える。
またアメリカでブルース・リーが創始した「ジュンファン・グンフー」と「ジークンドー」のインストラクター証を日本人として最初に取得。
現在、日本人正統継承者としてスクールも主催している。
他にも「フランス式キックボクシング・サバット」
「フィリピン古武術カリ/エスクリーマ」などの
日本人初インストラクター証を取得した。
芸歴としては1976年、アクション俳優・スーツアクター・スタントマンとして芸能事務所に所属。
映画・TV・舞台・ヒーローアクションショーなど多数の作品に出演。
1980年(昭和55年)に、TBS系の「ウルトラマン80」の第4話にて、だだっ子怪獣ザンドリアスのスーツアクターを務める。
移籍した芸能事務所においては、『大島由加里』(シンシア・ラスター)や新人俳優のアクション指導を行う。
日本での活動だけでなく、単身でアメリカ(Los Angeles)に渡りアクション映画の技術を学び、また、香港でも数本の作品に出演した。
帰国後は清水宏次朗主催の芸能事務所に約2年間、俳優として所属。映画やVシネマに出演するも、1996年に芸能界を引退。
2006年、自らが創始した「メソード・アクション」と「闘駕(トウガ)」アクションを携え、アクション俳優、及びアクション・アート・クリエーターとして芸能界に復帰。
[ヒロ渡邉が主宰したジークンドー・武術スクールの歴史]
1985年 亞州武術学院設立 ジュン・ファン・グンフー、フィリピノ・マーシャル・アーツ、詠春拳、華拳、蟷螂拳、酔拳、五獣拳
1987年 J.K.D/KALI TOKYOに改名
※ジークンドー・コースおよびサバット・コースを設置。 ジュン・ファン・グンフー、フィリピノ・マーシャル・アーツジークンドー・コンセプト/ジークンドー・ブレンド
詠春拳、華拳、蟷螂拳、翻子拳、八卦掌、太極拳
ボックス・フランセーズ・サバット、ムエタイ、テコンドー
カポエラ、空手道、少林寺拳法、日本拳法、合気道
柔道、古流柔術、忍法体術、キャッチ・キャン・レスリング
捽角術、摛拿術、サンボ、各種武器術
1996年 JAPAN JEET KUNE DO CLUB およびJAPAN SAVATE CLUB 設立。
ジュン・ファン・グンフー、フィリピノ・マーシャル・アーツ ジークンドー・コンセプト/ジークンドー・ブレンド
上記流派の他に下記を加える。
八極拳、通背拳、洪家拳、蔡李仏拳、狗拳、大東流合気柔術
パリジアン・レスリング、ラ・カン・フランセーズ
1997年 U.S/JAPAN JUN FAN JEET KUNE DO ALLIANCE
をマーク・ステュワート(米国)と共同設立。
※JAPAN SAVATE CLUBを練習生の窪田隆一に譲渡。
ブルース・リー ズ ジークンドー
ジュン・ファン・グンフー
フィリピノ・マーシャル・アーツ
2000年 JAPAN JEET KUNE DOASSOCIATION に改名。 ブルース・リー ズ ジークンドー、ジュン・ファン・グンフー ※演武用としてヌンチャク術、スティック術、ナイフ術、ロング・スタッフ術・ロング・スピア術、ウィップ・ケイン術、棒手裏剣術
2006年 JEET KUNE DO JAPAN <日本截拳道継伝曾>
に最終改名。
ジュンファン・グンフー ※初期形態から後期形態まで
ジュンファンジークンドー(ブルース・リー ズ ジークンドー)
“適応”という能力の修得 ※知識とトレーニング方法
代表が選定した他流儀20流派の研究
ブルース・リー師祖の思想とジークンドー哲学の人生への応用
修練生の各目的/目標の達成
武術から得ることのできる“恩恵”のすべて
師祖自身および師祖の遺産に関する情報
師祖の芸能的知識と表現