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上野検車区(うえのけんしゃく)は、東京地下鉄銀座線の車両基地である。
概要[編集]
1927年(昭和2年)12月、東京地下鉄道によって上野電車庫として発足した。当時は工場業務と検車区業務を行っていた。本車庫の用地取得は、関東大震災後の首都復興事業の中の区画整理の一環として、容易に用地が取得された[1]。
当初の計画では、本車庫は一時的なものとし、将来の郊外延伸時には新たな車両基地を建設することを想定していた。このため、最初の開業時にはトラバーサーを使用して1両ずつ留置するというものであった。若干の改良は加えられたが、昭和30年代まではこの状態で使用されていた。
しかし、戦後は銀座線の乗客数が年々増加し、開設当初の状態では度重なる輸送力増強への対応できなくなっていた。このため、1963年(昭和38年)5月に工場設備を廃止し、さらに従来の車庫設備を撤去して全面的な改築を行った。この設備は1968年(昭和43年)3月に完成し、地下に6両編成13本収容の留置線を設け、さらに地上部は6両編成が留置可能な設備に一新した。この状態が、現在のものである。
2000年(平成12年)3月には渋谷検車区を統合し、同検車区は上野検車区渋谷分室となっている。
- 敷地面積:16,223m2(地上部7,723m2、地下部8,500m2)
- 車両留置能力:地上部 - 6両編成7本(42両)・地下部 - 6両編成13本(78両)
現在は銀座線車両の列車検査・月検査を実施しているほか、車両洗浄(洗浄作業台を設置)を行っている。このほか、車輪転削は丸ノ内線中野検車区で実施している。
沿革[編集]
- 1927年(昭和2年)12月 - 東京地下鉄道の上野電車庫として発足。
- 1943年(昭和18年)10月 組織変更により、上野電車区・上野車輛工場となる。
- 1945年(昭和20年)8月 上野電車区・上野車両工場に改称。
- 1946年(昭和21年)6月 組織統合により、上野車両工場に統一。
- 1958年(昭和33年)2月1日 組織変更で上野検車区・上野工場に分割される。
- 1961年(昭和36年)12月 上野検車区浅草支区発足。
- 1963年(昭和38年)5月 - 上野工場廃止。
- 1965年(昭和40年)3月 上野検車区浅草支区廃止。
- 1968年(昭和43年)3月 - 大規模改造工事が完成する。地上と地下2層構造となる。
- 2000年(平成12年)3月 - 渋谷検車区を統合。
配置車両[編集]
浅草駅構内の留置線について[編集]
1957年(昭和32年)の銀座線輸送力増強計画において、車両増備に対応するために浅草駅構内に3本の留置線を設置することを決定[2]した。そして、1968年(昭和33年)11月8日には浅草駅構内終端部を延長して、同駅の奥に6両編成3本が留置可能な留置線が完成した。
また、この場所は各検車区の施工能力不足を補うため、1961年(昭和36年)12月から1965年(昭和40年)にかけて上野検車区浅草支区が設置されたことがある[3]。その後、本車庫の地下部の工事進行により、廃止されて留置線設備となっている。
その他[編集]
- 上野検車区の出入庫線にある踏切は軌道遮断式である。日本の地下鉄における軌道遮断式踏切はここのみであり、軌道側の遮断が自動であるのもここだけである。軌道遮断式踏切は海外に多数存在し、日本であれば阪神電気鉄道本線の武庫川信号場内にも存在するが、これは手動式であり、同様のものは他にも運転本数が少ない引き込み線や専用線などに、いくつか存在する。
- 01系以降の銀座線用車両の新車搬入は中野車両基地より行われる。新車は基本的に製造メーカーから甲種輸送で川崎貨物駅まで輸送され、そこからトレーラートラックで道路輸送により中野車両基地まで運ばれる。そして、受取検査等を経て銀座線に回送される。
参考文献[編集]
- 帝都高速度交通営団「営団地下鉄五十年史」
- 帝都高速度交通営団「60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 - 」
- 鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」
- 1995年7月臨時増刊号「特集:帝都高速度交通営団」