「親鸞聖人正明伝」の版間の差分
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『親鸞聖人正明伝』 同朋舎「真宗史料集成」第七巻「伝記・系図」九七~一一九㌻より抜粋(原文はカタカナ)
建久二年辛亥十九歳、七月中末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申たまひしかば、許されやがて立越て、西園院覚運僧都の坊に七旬ばかりましまして、因明の御学門あり。幸の序(ツイデ)なりとて、九月十日あまりに河内国磯長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至まで、三日三夜こもりて重重の御祈願あり。十四日の夜親(マノアタリ)に霊告まします。御自筆記文曰(中略)告勅言
我三尊化塵沙界 日域大乗相應地 諦聴諦聴我教令 汝命根應十餘歳 命終即入清浄土 善信善信真菩薩
(中略)斯霊告を得たまふといへども、ふかくつヽしみて口外なかりき。唯その記文のみ御廟寺にあり。そもそも件の告命六句の文に就て、古来の口訣あること予これを聞けり。ここに去応長正中のころ、関東高田専空上人登られしに、洛の善法院並に河東岡崎の旧坊に於て、両度面謁し、祖師一生の事事具にこれを聞く。今此伝に戴(ノスル)ところ、恐は滅後展展伝聞の説にあらず。聖人面授の人の口説なり。然に今の告令のことを懇に問いしかば、我是を惜にはあらず、他聞を禁ずるの制ありとて、伝えざりき。(後略)
【大塚;註】五天良空は『高田正統伝』で専空を親鸞面授と特定している。それゆえ『正統伝後集』で専空の誕生を建暦元年(一二一一)、没年を康永二年(一三四三)、「凡年齢一百三十三歳」と記す。この非常識な没年齢が、『正明伝』は良空一派による偽作であるという、大きな根拠となっている。 また『法雲寺古系図』では専空の没年を「康永三(一三四四)甲申十二月十八日九十有五」と記している。そうすると親鸞入滅の時、十四歳ぐらいとなり、京都で「面授の人」となるには、不可能とは言えないが、かなり無理がある。従ってやはり、専空=聖人面授の人と受け取れる『正明伝』は偽書である可能性が高い。 但し、佐々木正氏や梅原猛氏は「聖人面授の人の口説なり」を「聖人面授の人(例えば顕智)の口説なり」と解釈し、偽書ではない、と考察されている。
二十八歳十月、三七日のあひだ、根本中堂と山王七社とに毎日毎夜参詣し、丹誠の御祈あり。これ末代有縁の法と、真知識を求(モトムル)との御祈誓なり。同冬、叡南無動寺大乗院に閉(トヂ)籠(コモリ)て蜜行を修せらる。是も三七日なりしが、結願の前夜、四更に及で、室中に異香薫じ、如意輪観自在薩埵現来したまひて、汝所願まさに満足せんとす 我願も亦満足す、とある告を得て、歓喜の涙にむせびたまふ。是によて明年正月より六角精舎へ一百日の日参をおもひたちたまへり。
二十九歳、建仁元年(二月十三日に改元されたので厳密には正治三年)辛酉正月十日辛酉( ノヒ)叡南の大乗院にかくれ大誓願を発し、京都六角( ノ)精舎如意輪観音に一百日の参籠あり。さしもけはしき赤山越を、毎日ゆきかへり、いかなる風雨にも怠なく、雪霜をもいとはせたまはず、誠にありがたき御懇情なり。是精誠しるしありて、計ざるに安居院聖覚法印に逢て、源空上人の高徳を聞、わたりに船を得たるこヽろして、遂に吉水禅坊に尋参たまひけり。(後略) 建仁辛酉範宴二十九歳三月十四日、吉水に尋参たまふ。(中略)師の高徳をしたひ、生死出離の要津を問たてまつらむために尋参ぬと申さる。(中略)立地(タチトコロ)に他力摂生の深旨を受得し、飽まで凡夫直入の真心を決定し、多年習浮たる自力難行の小路を捨て、ひとへに他力易行の大道にいり、一向専修の行者となりたまへり。範宴上人に申たまはく、世を遁(ノガルヽ)ものは、名をも遁と申ことの有(アリ)。げにさぶらふ。今日より御弟子の員(カズ)に入はべれば、師名を賜べしと請達あり。空師きこしめして、実(ゲニ)さることぞて、其名を綽空と授けらる。(中略)今年源空上人は六十九歳、綽空は二十九際になむおはしける。建仁元年三月十四日のことなり。
建(ケン)仁(ニン)辛酉(カノトリ)三月十四日、既に空師の門下に入たまへども、六角精舎へ百日の参籠いまだ満てざれば、怠りなく毎日まいりたまふ。殊に建久九年の春、功徳天女の告ありしも、いまだ不審はれざるを以なり。果して今年四月五日甲申の夜、五更に及で霊夢を蒙たまひき。彼夢想の記文を拝するに
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし
云云。是時善信、告命の如に数千万の有情にこれを説聞しむと覚て、夢さめおはりぬと云云。此告命ありといへども、深(フカク)かくして口外あることなし。夢想記文とは、親鸞聖人真筆の夢想記一巻これあり。
斯に、同年十月上旬、月輪殿下兼実公、吉水禅坊に入御ありて、いつよりもこまやかに御法譚ましましけるに、殿下仰られていはく、御弟子あまたの中に、余はみな浄行智徳の僧侶にして、兼実ばかり在家にてはべり。聖の念仏と、我在家の念仏と、功徳につきて替目(カハリメ)やさぶらふやらむと。上人答て宣はく、出家在家ひとしくして、功徳に就て尠も勝劣あること侍ずと。殿下宣はく、此条もとも不審にさぶらふ。其故は女人にも近ず、不浄をも食せず。清僧の身にて申さむ念仏は、定て功徳も尊かるべし。朝夕女境にむつれ、酒肉を食しながら申さむは、争(イカデ)か功徳おとらざらむ。上人答て宣はく、其義は聖道自力門に申ことなり。浄土門の趣は、弥陀は十方衆生とちかはせたまひて、持戒無戒の撰もなく、在家出家の隔なし。善導は一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏、大願業力為増上縁也と決判したまへり。努努(ユメユメ)御疑あるべからずと云云。其時殿下また宣はく、仰のごとく差別あるまじくさぶらはヾ、御弟子の中に、一生不犯の僧を一人賜て、末代在家の輩、男女往生の亀鏡に備はべらむと。上人聊も痛(イタミ)たまはず、子細さふらふまじ、綽空今日より殿下の仰に従申るべしと。綽空は涙にくれ、低頭して御返事をも申たまはず。(後略)
斯て玉日と幸ありて、五条西洞院に住たまふ。明建仁二壬戌年十月、男子誕生あり。名を範意と申す。後に印信と改名せり。聖人左遷の時、範意六歳なり。(後略)
五年の後、順徳院御宇建暦元年辛未十一月十七日、流罪赦免。勅使は岡崎中納言範光卿なり。是卿は聖人の猷父三位範綱の嫡子なり。(中略)十二月上旬、中納言越後に帰着して、綸言をつたへらる。然ども聖人日来の心痛しきりにましませば、唯御礼の請文ばかりありて、其歳は猶越後に止まりたまへり。彼請文に、愚禿と書て上られければ、誠にこヽろきヽたる奏状なりとて、君臣ともに大に称美ありき。
建暦二年壬申仲秋の中ごろ御上京あり。八月二十日あまりに、岡崎中納言範光朝臣に就て勅免の御礼を申たまひける。御帰京の初には、直に源空上人の墳墓に詣でヽ、しばしば師弟芳契の薄ことをなげき、参台の後には、月輪禅定の御墓ならびに玉日前の芒冢(バウチョ)にまいりたまひて、御誦経と紅涙とこもごもなり。(後略)
同年九月、聖人城州山科村に一寺を草創したまふ。是は江東荒木源海の請達に因てなり。今の興正寺是也。
同年十月、聖人は辺鄙の群萌を化益せむがために、遥に東関の斗薮をおぼしめし立て、下向あり。伊勢大神宮へも御参詣あり。(後略)◆