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2008年2月21日 (木) 21:42時点における最新版

沖縄返還(おきなわへんかん)とは1972年昭和47年)5月15日沖縄施政権アメリカ合衆国から日本に返還されたことを指す。

背景[編集]

1951年(昭和26年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)では、潜在的な日本の主権は認めながらも沖縄はアメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年(昭和27年)4月28日に発効した。そこでアメリカは「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めた(琉球処分以前の名称である「琉球」が復活した)が、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

朝鮮戦争ベトナム戦争がおこりアメリカは施政権下においての琉球自治から基地としての重要性の方向に変わっていく。その間にも沖縄の各地に半ば力ずくでアメリカ軍基地・施設を建設し、またアメリカ兵による事故・事件が頻発し住民の死傷者も相次いだ。このころから住民はアメリカの施政に落胆し、住民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こす。日本の佐藤栄作政権は1970年(昭和45年)に予定される安保延長と共に沖縄の本土復帰を緊急の外交課題としたが、70年安保延長反対を唱える日本社会党日本共産党は安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼学生運動、各種労働組合までも反安保・反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄住民の運動とはほとんど結びつかず沖縄の人々の真意を汲み取ることにはならなかった。

1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄住民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

返還へ[編集]

1969年(昭和44年)の日米首脳会談でアメリカ大統領リチャード・ニクソンが安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定などアメリカの利益を最大限尊重した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は米軍政下で設置された琉球水道公社琉球電力公社琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。県民の間からは「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため、沖縄県民は「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つようになったという意見もある。

これらの過程はベトナム戦争に伴うアメリカの財政問題や貿易収支とも関係しており、アメリカ政府の支出削減のためのベトナム戦争終結(中華人民共和国との国交樹立および中華民国との国交断絶)、収入増のための沖縄返還(上述のバーター)、貿易収支改善のためのニクソン・ショックへと繋がる。しかしその後、2度のオイルショックでアメリカの財政が悪化すると日本政府は思いやり予算の支出に迫られ、足元を見られ続けることになる。

返還後の沖縄[編集]

返還後は道路・病院・学校など公共投資に力が入れられ、また数々の特例や諸税の免除が実施されたため、県民の生活水準は大きく向上した。

1978年(昭和53年)7月30日には車両の通行が左側通行に切り替えられ(730)、本土同様の道路交通法が適用されるようになった。また復帰に伴って自衛隊が置かれたが、「日本軍の再来」といった反発も強く一部自治体では自衛官の住民登録を拒否するという事態も起こった。自衛隊配備当時は抗議行動や一部市民や左翼系活動家による隊員募集事務所への落書きやシャッターの破壊なども繰り返されたが、自衛隊の離島における緊急時の住民輸送などの活動で沖縄の「自衛隊アレルギー」は今日ではかなり薄らいでいる。

一方で米軍基地依存の経済体質は根本的には変わらないほか、製造業などの有力な地域産業もあまり育たなかったため観光業のほか土木工事など公共事業への依存が強まった。また那覇都市圏に人口が集中し、離島は過疎に悩むことになる。

現在もアメリカ統治時代の名残で、九州以北の日本のことを「本土」と他国のように言う風潮がある。

課題[編集]

沖縄返還は実現したものの、課題は多く残されている。2005年現在も在日米軍の面積の23.4%が沖縄県に集中し、沖縄本島の19.3%が基地に占められる(県全体の基地の割合は10.7%)。たびたび引き起こされるアメリカ兵による事件が日米地位協定によってうやむやにされることも県民感情を逆撫でする。1995年平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件の際は大規模な抗議行動が行われた。宜野湾市市街地にある普天間基地を移転する計画もあるが、進展していない。

復帰時に経済の「本土並み」がスローガンとして掲げられたが、観光産業と公共事業を中心とした建設業の振興が中心で製造業があまり発展しなかったこともあり、県民所得が(フランスの国民所得より高いものの要出典)全国最低のままである。

かつての本土復帰運動と同時に、琉球独立運動が存在した。米兵による少女暴行事件が起きたときは、一部で琉球独立論が叫ばれた。ただし、2005年(平成17年)に琉球大学法文学部の林泉忠助教授が行った調査によると、独立の是非を問う質問に「独立すべき」と答えたのは24.9%にとどまった。2006年(平成18年)の沖縄県知事選で琉球独立党の候補は自公候補と基地撤去を掲げる革新統一候補の狭間で6,000票ほどを獲得した。

関連項目[編集]


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