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'''酒井 忠順'''(さかい ただより、[[昭和]]49年(1974年)- )は、旧[[庄内藩|庄内藩主]][[酒井氏#左衛門尉酒井家|酒井家]]19代目、松岡物産[[株式会社]]・[[代表取締役]][[社長]]。(財)[[致道博物館]]評議員。
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{{otheruses|小浜藩主|旧庄内藩主家|酒井忠順 (実業家)}}
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'''酒井 忠順'''(さかい ただより)は、[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]の第11代藩主。小浜藩酒井家12代。
  
== 略歴 ==
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{{武士/開始|酒井忠順}}
* {{和暦|1974}} - 酒井忠久の長男として[[山形県]][[鶴岡市]]に生れる。
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{{武士/時代|[[江戸時代]]後期}}
* {{和暦|1993}} - [[羽黒高等学校]][[普通科 (学校)|普通科]]国際コース卒業。
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{{武士/生誕|[[寛政]]3年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]][[1791年]][[4月16日]])}}
* [[獨協大学]][[大学院]][[経済学研究科]][[修士課程]]修了。
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{{武士/死没|[[嘉永]]6年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]][[1853年]][[2月24日]])}}
* {{和暦|2001}} - [[信用保証協会|東京信用保証協会]]に勤務。
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{{武士/別名|亀太郎、与太郎(幼名)}}
* {{和暦|2006}} - [[荘内銀行]]に入社。
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{{武士/戒名|天性院殿霊雄道智大居士}}
* {{和暦|2009}} - 松岡物産株式会社・代表取締役社長に就任。
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{{武士/墓所|[[福井県]][[小浜市]]男山の空印寺}}
** [[5月13日]] - [[致道博物館#松ヶ岡開墾場|松ヶ岡開墾場]]を視察に訪れた[[吉村美栄子]]山形県[[都道府県知事|知事]]と懇談する。
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{{武士/官位|従五位下、従四位下、修理大夫}}
** [[9月3日]] - [[慶應義塾大学]]教養研究センター主催 『庄内セミナー「一般公開:セミナープログラム」』([[東北公益文科大学]][[大学院]]ホール)で[[富塚陽一]]鶴岡市長、[[松村宏]]慶應義塾大学名誉教授、[[黒田昌裕]]公益文科大学学長、等と共に[[コメンテーター]]を務める。
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{{武士/藩|若狭小浜藩主}}
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{{武士/氏族|[[酒井氏]]}}
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{{武士/父母|父:[[酒井忠貫]]<br>養父:''[[酒井忠進]]''}}
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{{武士/妻|正室:久松[[松平定国]]の娘}}
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{{武士/子|養子:''[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]''}}
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{{武士/終了}}
  
== 関連項目 ==
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1791年(寛政3年)3月14日、第9代藩主・酒井忠貫の次男として生まれる。[[1806年]]([[文化 (日本)|文化]]3年)に父が死去したとき、若年だったため、父の養子であった酒井忠進が後を継ぎ、忠順はその養子となった。[[1807年]](文化4年)12月、従五位下、修理大夫に叙任する。[[1828年]]([[文政]]11年)、忠進の死去により後を継いで藩主となる。同年12月、従四位下に昇進する。
*[[酒井氏#左衛門尉酒井家系譜|左衛門尉酒井家系譜]]
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== 主な出典 ==
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この頃、小浜藩には30万両の借金があったため、忠順は10万石の格式を簡略化して財政再建に取り組んだが、[[1833年]]([[天保]]4年)に領内大凶作で[[一揆]]が起こり、失敗してしまった。[[1834年]](天保5年)2月5日、養子の酒井忠義(忠貫の五男)に家督を譲って[[隠居]]する。
* [http://www.matsu.cc/ 松岡物産HP]
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* [http://www.mokkedano.net/cgi/0/infovw.cgi?p=112: 庄内観光コンベンション協会HP]
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== 外部リンク ==
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1853年(嘉永6年)1月17日に死去。享年63。
* [http://www.matsu.cc/ 松岡物産HP]
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* [http://www7.ocn.ne.jp/~chido/ 致道博物館HP]
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[[Category:酒井氏|たたより]]
 
[[Category:酒井氏|たたより]]
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[[Category:江戸の大名]]
[[Category:存命人物]]
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[[Category:譜代大名]]
[[Category:日本の実業家]]
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[[Category:1791年生]]
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[[Category:1853年没]]

2009年12月11日 (金) 13:19時点における版

酒井 忠順(さかい ただより)は、若狭小浜藩の第11代藩主。小浜藩酒井家12代。

テンプレート:武士/開始 テンプレート:武士/時代 テンプレート:武士/生誕 テンプレート:武士/死没 テンプレート:武士/別名 テンプレート:武士/戒名 テンプレート:武士/墓所 テンプレート:武士/官位 テンプレート:武士/藩 テンプレート:武士/氏族 テンプレート:武士/父母 |- | style="border-style:none none solid" | 妻 | style="border-style:none none solid solid" | 正室:久松松平定国の娘 テンプレート:武士/子 テンプレート:武士/終了

1791年(寛政3年)3月14日、第9代藩主・酒井忠貫の次男として生まれる。1806年文化3年)に父が死去したとき、若年だったため、父の養子であった酒井忠進が後を継ぎ、忠順はその養子となった。1807年(文化4年)12月、従五位下、修理大夫に叙任する。1828年文政11年)、忠進の死去により後を継いで藩主となる。同年12月、従四位下に昇進する。

この頃、小浜藩には30万両の借金があったため、忠順は10万石の格式を簡略化して財政再建に取り組んだが、1833年天保4年)に領内大凶作で一揆が起こり、失敗してしまった。1834年(天保5年)2月5日、養子の酒井忠義(忠貫の五男)に家督を譲って隠居する。

1853年(嘉永6年)1月17日に死去。享年63。


テンプレート:小浜藩主