「ソンミ村虐殺事件」の版間の差分
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− | [[Image:Haeberlehutonfire.jpg|住居に火を放つ用意をするダスティン4級特技兵]] | + | [[Image:Haeberlehutonfire.jpg|200px|住居に火を放つ用意をするダスティン4級特技兵]] |
− | [[Image:Mylaiman.jpg|身元不明のベトナム人男性の遺体]] | + | [[Image:Mylaiman.jpg|200px|身元不明のベトナム人男性の遺体]] |
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2009年10月31日 (土) 23:21時点における版
ソンミ村虐殺事件(ソンミむらぎゃくさつじけん、英:Son My massacre、My Lai Massacre)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。
事件概要
1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊の、ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンミ村ミライ集落(省都クアンガイの北東13km 人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を機関銃の無差別乱射で虐殺。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2008年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。
当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にシーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。
なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。
その後
ソンミ村は現存せず、「ティンケ村」と名前が変わった。
仮釈放後、カリーはマスコミの取材に応じることはなかったが、41年経った2009年8月19日、ジョージア州コロンバスで開かれた奉仕活動団体の昼食会に出席し、事件について口を開き、謝罪した[1]。これに対し、3人の生存者の一人で犠牲者追悼活動を続けるパン・タン・コン(ティンケ村記念公園博物館長、事件当時10歳。家族を皆殺しにされ孤児となった)は23日、「謝罪は無いものと思っていた、あまりにも遅くて驚いたが、犠牲者を代表して受け入れたい」「カリー氏にはベトナムに来て、当時とその後40年の思いを語ってほしい」と述べている[2]。
脚注
- ↑ (2009-08-22) ソンミ村虐殺で終身刑、仮釈放の元中尉が謝罪 読売新聞 [ arch. ] 2009-08-22
- ↑ 元中尉の謝罪、受け入れたいとソンミ生存者同上、8月24日
関連項目
- アメリカの戦争犯罪
- オリバー・ストーン
- 北緯15度(西の空に沈む太陽) はしだのりひことシューベルツがこの事件を題材に歌った反戦歌。
- ミーチャック村虐殺
外部リンク
- ベトナム・ソンミ村大量虐殺事件を振り返る(ヒューライツ大阪)
- "Report of the Department of Army review of the preliminary investigations into the My Lai incident. Volume III, Exhibits, Book 6 — Photographs, 14 March 1970". From the Library of Congress, Military Legal Resources