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* '''触覚体験''' [[触覚]]からもたらされるクオリアには以下のようなものがある。シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなど。 | * '''触覚体験''' [[触覚]]からもたらされるクオリアには以下のようなものがある。シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなど。 | ||
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* '''嗅覚体験''' [[嗅覚]]から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる[[味噌汁]]の香り、病院に漂う[[消毒液]]の匂い、[[公衆便所]]の芳香剤の臭いなど。それぞれがどのような香りなのか説明してみろ、と言われても説明に困るのではないだろうか。分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合したさいに、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、この組み合わせはかなり恣意的に思える。この組み合わせがどのように成立しているかは、依然として何も分かっていない。 | * '''嗅覚体験''' [[嗅覚]]から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる[[味噌汁]]の香り、病院に漂う[[消毒液]]の匂い、[[公衆便所]]の芳香剤の臭いなど。それぞれがどのような香りなのか説明してみろ、と言われても説明に困るのではないだろうか。分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合したさいに、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、この組み合わせはかなり恣意的に思える。この組み合わせがどのように成立しているかは、依然として何も分かっていない。 | ||
* '''味覚体験''' [[味覚]]は[[甘味]]、[[酸味]]、[[塩味]]、[[苦味]]、[[うま味]]の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。 | * '''味覚体験''' [[味覚]]は[[甘味]]、[[酸味]]、[[塩味]]、[[苦味]]、[[うま味]]の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。 | ||
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: 生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から開放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて[[色]]、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。 | : 生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から開放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて[[色]]、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。 | ||
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: [[コウモリ]]はどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している([[反響定位]])。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する。<ref name="bat_en">[[トマス・ネーゲル]]. (1974). "What Is it Like to Be a Bat?", Philosophical Review, pp. 435-50. [http://members.aol.com/NeoNoetics/Nagel_Bat.html オンライン・テキスト]</ref><ref name="bat_ja">[[トマス・ネーゲル]](著), [[永井均]](訳) 『コウモリであるとはどのようなことか』 勁草書房 1989年 ISBN 4-32-615222-2</ref> | : [[コウモリ]]はどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している([[反響定位]])。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する。<ref name="bat_en">[[トマス・ネーゲル]]. (1974). "What Is it Like to Be a Bat?", Philosophical Review, pp. 435-50. [http://members.aol.com/NeoNoetics/Nagel_Bat.html オンライン・テキスト]</ref><ref name="bat_ja">[[トマス・ネーゲル]](著), [[永井均]](訳) 『コウモリであるとはどのようなことか』 勁草書房 1989年 ISBN 4-32-615222-2</ref> |
2007年7月29日 (日) 15:04時点における版
この項目では、感覚質について説明しています。SONYの音響・映像機器ブランドのクオリアについては「QUALIA」をご覧ください。 |
クオリア(英語: Qualia)とは、意識体験の内容のことである要出典。「感覚質」(かんかくしつ)とも呼ばれる。
目次
概要
外部からの刺激(情報)を体の感覚器官が捕えそれを脳に伝達する。すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。たとえばある波長の光(視覚刺激)を目を通じて受け取とったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。
簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な感覚そのものである。
こうした非常に身近な概念であるにも関わらず、クオリアは科学的にどう取り扱われるべき概念なのかが良く分かっていない。この問題は「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」[1]と呼ばれている。すなわちクオリアとは一体どういうものなのか、そしてそれは私たちのよく知る「物質」と一体どういう関係にあるのか。こうした基本的な点に関してさえ全ての研究者からの合意を取り付けているような意見は未だにない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行なわれており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、実に様々な考え方が提出されている。
現在こうした議論は心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に展開されており、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、クオリアの問題が議論されている。
また科学の側では、脳科学、認知科学といった人間の心を扱う学術分野を中心にクオリアという語が頻繁に使用される。
クオリアとは
『もの』には大体名前が付いている。新商品、斬新なアイディア、新種の生物等が、開発、創造、発見されれば、既存の『もの』と区別するために新たな名前を付けることになるであろう。一方、我々の頭や心が感じる『もの』にも名前がついていることがある。例えば砂糖をなめてみると何かを感じる訳であるが、その感じた『もの』を称して「甘さ」と言い、「甘さ」を感じた、もしくは単に「甘い」と表現する。実際、我々は様々な『もの』を感じ取っている。何も気付かずに焼き鳥屋の前を歩いていて、何か匂うぞと感じた次の瞬間「あっ焼き鳥だ」と気付き、「いい匂いだな」とも感じている。この感じ方のプロセスはそれぞれが感じた『もの』として捕えることができる。「熱さ」「怒り」「痛み」も、大事な人を失った時の「悲しさ」「切なさ」も感じることのできる『もの』である。これらの感じる『もの』を称して『クオリア』と呼ぶのである。
複合的なクオリア
風邪をひいたりして鼻がつまり匂いを感じない時に、食事が美味しく無いと感じた事のある人は多いであろう。我々が普段感じている「味」や「美味しさ」は味覚そのもの以外にも匂いや食感と言う他の感覚器官が伝える情報が複合的に造り出す感覚なのである。次項の「様々なクオリア」で詳しく解説されているが、各感覚器官がもたらすクオリアは学問上の正式な分類であるかどうかは別にして、感じる『もの』を詳しく観察することにより得られるが、普段感じている『もの』とは少し趣が違うと感じられるかもしれない。感じる『もの』を『クオリア』と命名し改めて詳しく観察すると色々なことが判ってくる。身の回りにある『もの』と、感じる『もの』を比較すると、それは人工物よりは生き物に近い。生物の体を調べるには解剖する方法もある。内臓器官はそれぞれが生命維持のため重要な役割を担っているが単体では「生き物」としての意味をもたない。しかしある臓器がどんな役割を持っていて、他の臓器と如何に連係しあっているかを調べることが有益であることは言うまでもない。『クオリア』についても同じことが言える。感じる『もの』をどの様に分類すべきか、最小単位は何か、そもそもその存在自体が疑うべきものではないか?等々。様々なアプローチがある。
理由:クオリアの同一/相違
視力の良い人とそうでない人では見えている『もの』に違いがあることは容易に想像できる。これは何を意味するかというと同じ『もの』を見てもそれを脳に伝えるセンサーに個人差があるということである。当たり前に過ぎるが、二人の人間の脳に全く同じ情報を伝えることは不可能である。
では一体いくつのクオリアが存在するのであろうか? 昨日なめた砂糖と今日の砂糖ではクオリア(「甘さ」)に違いが存在するであろうか? 厳密に言えば、何一つとして同じ『もの』は存在せず、『クオリア』は無限に存在するとも言える。
ここから『クオリア』の核心(問題)に話を移す。一例として赤緑色盲の人を挙げる(この人達は日常的には支障をきたすことなく社会生活を営むことが出来、健常者となんら変わりはない。ただ、色盲の程度がかなり強いと自動車の運転が許可されない場合がある)。色盲であるかを判定する簡易な方法は青色のバックグラウンドの上に赤色で文字を書きその文字が読み取れるかをみることである。赤緑色盲は赤色と緑色を識別できないということであるが、もし赤色と緑色を逆に認識している人がいたらどうだろう。つまり普通の人が赤色に見えるものが、この人達には緑色に見えるのである。普通が緑色に見えるものを見たとき赤色に見えるのである。赤緑反転以外はなんら健常者と変わりないこの人達を探し出す方法はあるだろうか?
もう一つ例を示す。大きな家電量販店へ行くと所狭しと大型テレビが並んでいる。よく観察すると微妙に映り方が違う。あるのもはクッキリとしていて、またあるものは濃厚な発色をしている。中には少し赤みがかったものもある。同じ情報を再現しているにも拘らず、その映像が微妙に異なる。では、我々の頭の中で描かれる映像はどうであろう?個人差があるだろうなとは想像できるが、はっきりと比較することが出来そうもない。なぜか? この問に対する回答が『クオリア』という言葉を敢えて使用する理由の一つなのである。
人間社会の意志疎通は共通認識を元に成立している。ある『もの』を「A」と呼ぶことに決めたら、次に同じ『もの』が現れた時、それを「A」と呼べることが共通認識を持ったことになる。これは頭の中に、ある『もの』のイメージ(情報)とその名称「A」が互いに結び付いた形で刻み込まれているからである。しかし頭の中に刻み込まれたある『もの』のイメージは外部からは見ることが出来ない。本人だけが感じる『もの』であり、それを表現するときは「A」となってしまう。
ただ、理解しづらい、または理解し合えない『もの』を表すクオリアよりは、様々に感じることのできる豊かさ、多様性の象徴としてのクオリアの方が、より親しみやすい言葉になるはずである。
人が痛みを感じるとき、脳のニューロンネットワークを走る電気信号自体は、「痛みの感触そのもの」ではない。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係こそあるものの、両者は別のものである。
クオリアとは、ここで「脳の状態」だけからは説明できない「痛みの感触それ自体」にあたるものである。しかし、クオリア自体を言語で正確に記述することは難しい。
類義語を採用しない理由
現象的意識や主観的体験などもクオリアとほぼ同義の言葉であるが、しかしながらこれらの言葉は「同時に体験されている種々雑多なクオリアの集まり全体」のことを指して使われる事が多い。例えば仕事帰りのあなたが体験しているクオリアには次のようなものがある。脇を走り抜ける車が出すブンブンとした音、夕暮れの空の赤さ、近所の家の換気扇から流れてくるおいしそうなシチューの匂い、心地よい疲労感などなど。このとき、同時に体験しているこれらクオリア全体のことを指して現象的意識、主観的体験などと言うのが一般的である。
クオリアとほぼ同じ意味内容を持った言葉は他にも多く存在する。西洋哲学においては表象、現象学における現象などが、また東洋哲学においては仏教における六境という概念などがクオリアと非常に近い意味を持つ。にも拘らずクオリアという新らしい呼び名が使われる背景には、次の二つの理由がある。ひとつは、表象や現象という言葉が既に多義語であり、厳密な意味を持たせて使用するのが困難であること。そしてもうひとつは、先述の語とは用いられる文脈が異なることをはっきりさせる目的があることである。つまり表象や現象という言葉が純粋に思弁的な議論で用いられることが多いのに対し、クオリアという言葉は、必ずと言って良いほど、神経細胞や原子、物理法則、脳といった科学タームと一緒に登場し、かつそういった自然科学的な知識を重視したスタンスでの議論が行われる、という事である。この意味の厳密さへの志向と科学的な傾向の強さの二点のから、旧来の用語とは異なる「クオリア」という新語が好んで使われる。
様々なクオリア
人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる。
- 視覚体験 視覚体験には様々なクオリアがともなう。その単純さから最も頻繁に議論の対象にされるのが色であり、これには例えば、リンゴの赤い感じ、空の青々とした感じ、などがある。他にも形、大きさ、明るさ、暗さ、そして奥行きがある。片目で世界を眺めるよりも、両目で世界を眺めた方が、世界はより三次元である。つまり奥行きのクオリアが伴なう。
- 聴覚体験 聴覚からもたらされるクオリアも非常に豊かである。笛から発せられた空気振動がもたらすピーッというあの感じ、また特定の高さの音を同時に聞いたとき、つまりマイナーコードやメジャーコードといった和音を聞いたときに受けるあの感じ、そしてそれらの音が時間的につらなったときに受けるあの感じ、つまり音楽を聞いたときにうける独特の感覚などである。
- 触覚体験 触覚からもたらされるクオリアには以下のようなものがある。シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなど。
- 嗅覚体験 嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の芳香剤の臭いなど。それぞれがどのような香りなのか説明してみろ、と言われても説明に困るのではないだろうか。分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合したさいに、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、この組み合わせはかなり恣意的に思える。この組み合わせがどのように成立しているかは、依然として何も分かっていない。
- 味覚体験 味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。
- 冷熱体験
- 痛み 痛覚
- 他の身体感覚
- 心的表象
- 意識的思考
- 感情 感情
- 自分という感覚
このようにクオリアが持っている基本的に異なったいくつかの種類のことを感覚のモダリティーと呼ぶ。しかし時には違ったモダリティーが混ざり合うこともあり、そのような現象は共感覚と呼ばれている。
クオリアに関する思考実験
クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。
- 逆転クオリア
- 同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる。
- 哲学的ゾンビ
- 全ての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学において、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。
- マリーの部屋
- 生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から開放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて色、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。
- コウモリであるとはどのようなことか
- コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する。[2][3]
自然科学との関係
たとえば林檎の色について考えた場合、自然科学の世界では「林檎の色は林檎表面の分子パターンによって決定される」とだけ説明される。つまり、林檎表面の分子パターンが、林檎に入射する光の内特定の波長だけをよく反射し、それが眼球内の網膜によって受け取られると、それが赤さの刺激となるのだ、と。 そしてこの一連の現象の内、次のような点に関しては神経科学・物理学・哲学といった専攻や立場の違いに関わりなく、ほぼ全ての研究者の間で意見が一致する。
- どのような分子がどのような波長の光をどれぐらい反射するのか(⇒光化学)
- 反射した光は、眼球に入った後、どのようにして網膜の神経細胞を興奮させるのか(⇒網膜)
- その興奮は、どのような経路を経て脳の後部に位置する後頭葉(視覚野)まで伝達されるのか(⇒視神経)
- 後頭葉における興奮は、その後どのような経路を経て、脳内の他の部位に伝達していくのか(⇒神経解剖学)
だが一般に、こうした物理、化学的な知見を積み重ねても最後のステップ、すなわち「この波長の光がなぜあの「赤さ」という特定の感触を与え、この範囲の光はどうしてあの「青さ」という特定の感触を与えるのだろうか」といった問題は解決されないまま残されてしまうことになる。この現在の自然科学からは抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、1994年にオーストラリアの哲学者ディビッド・チャーマーズは、「それは本当に難しい問題である」として「ハード・プロブレム」という名前を与えた。
クオリアの自然化
向精神薬や脳表電気刺激の実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には緊密な関係がある。しかしながらそれが具体的にどのような関係にあるのかは未だ明らかではない。この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的なレベルにとどまってはいるが様々な仮説が提唱されている。こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう。」という試みは、クオリアの自然化(Naturalization of Qualia)と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている。
論点
クオリアに関する主な論点には以下のようなものがある。
- クオリアは実体的に扱うべき存在なのか、または単に有用な概念であるにすぎないのか。前者の立場を取る哲学者の代表的人物としてディビッド・チャーマーズが、また後者の立場をとる哲学者の代表的人物としてダニエル・デネット[4]が挙げられる。
- クオリアの科学はどのようにして可能なのか 科学的方法論に基づいてクオリアを扱っていこうとした時に出会う最大の困難は、実験によってクオリアを測定することが出来ない、という点である。このことを『我々は意識メーターを持たない』などと比喩的に表現する事もある。どうすればクオリアや意識を科学の表舞台に引き上げることができるのか。科学哲学の知見を絡めて議論される。
歴史
クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語に由来する。この言葉自体の歴史は古く、四世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。まず1929年、アメリカの哲学者C.I. Lewisが著作「Mind and the world order」[5]において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用する。以下「Mind and the world order」(1929)より抜粋。
There are recognizable qualitative characters of the given, which may be repeated in different experiences, and are thus a sort of universals; I call these "qualia." But although such qualia are universals, in the sense of being recognized from one to another experience, they must be distinguished from the properties of objects. Confusion of these two is characteristic of many historical conceptions, as well as of current essence-theories. The quale is directly intuited, given, and is not the subject of any possible error because it is purely subjective. |
私達に与えられる異なる経験の中には、区別できる質的な特徴があり、それらは繰り返しあらわれているものだと考えられる。そしてこれらには何らかの普遍的なものだと考えられる。私はこれを「クオリア」と呼ぶことにする。クオリアは普遍的だが、様々な経験から得られるものを比較していくならば、これらは対象の特性とは区別されなければならない。この二つの混同は、非常に多くの歴史上の概念に見られ、また現代の基礎的な理論においても見られる。クオリアはダイレクトに直感され、そして与えられるものであり、純粋に主観的なものであるため、何らかの勘違いといった類の話ではない。 |
その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められる[6]。1974年には、クオリアの問題にとって大きい転機となる論文が現れる。アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において[2][3]、物理主義はクオリアの具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強くアピールされる。1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、メアリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱される[7]。こうしたネーゲル、ジャクソンの論文が登場しはじめた1970年代後半あたりから、徐々に科学や物理学との関連の中でクオリアの議論が展開されることが多くなる。最終的にこの流れを決定付けるのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズである。1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作[1]を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、非常に詳細な議論を展開する。この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなる。以後、現在に至る。
発展
クオリアを言語や物理的特性として記述しきることができないことは、哲学でしばしば議論される幾つかの疑問と結びついている。
- また、人工知能など、一般に意識を持つと考えられていないものが、センサーを通じて光の波長を処理できるとしたら、そのときその人工知能には意識があり、人工知能は赤さを感じているのか[8](⇒人工意識)。
- 自分以外の人間に意識があり、クオリアを経験しているのか(⇒他我問題、独我論)。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 デイヴィッド・チャーマーズがハード・プロブレムについて論じた二本の論文。"Facing up〜"に対して寄せられた様々な批判に答える形で出されたのが"Moving forward〜"
- ↑ 2.0 2.1 トマス・ネーゲル. (1974). "What Is it Like to Be a Bat?", Philosophical Review, pp. 435-50. オンライン・テキスト
- ↑ 3.0 3.1 トマス・ネーゲル(著), 永井均(訳) 『コウモリであるとはどのようなことか』 勁草書房 1989年 ISBN 4-32-615222-2
- ↑ ダニエル・デネット 『解明される意識』 青土社 1998年 ISBN 4-7917-5596-0
- ↑ Lewis, C.I. (1929) "Mind and the world order". New York: C. Scribner's Sons.
復刻版 Lewis, C.I. "Mind and the World-Order: Outline of a Theory of Knowledge" Dover Pubns 1991年 ISBN 0486265641 - ↑ The Structure of Appearance. Harvard UP, 1951. 2nd ed. Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1966. 3rd ed. Boston: Reidel, 1977.
- ↑ フランク・ジャクソン (1982) "Epiphenomenal Qualia", Philosophical Quarterly, vol. 32, pp. 127-36. オンライン・テキスト
- ↑ 柴田正良 『ロボットの心』 講談社<講談社現代新書> 2001年 ISBN 4-06-149582-8
関連項目
外部リンク
日本語
- クオリア3 - 「哲学的な何か、あと科学とか」内の一ページ。現在の物理学の中にクオリアを還元仕切れない、という点についてわかりやすく説明している。
- Qualia F.A.Q. - 心の哲学の研究者である茂木健一郎が運営するサイト、「クオリア・マニフェスト」内の一ページ。クオリアについてのよくある質問と、それに対する簡潔な返答をまとめている。分量が少なく気楽に読める。
- クオリア・マニフェスト - 同じく茂木氏のサイト、「クオリア・マニフェスト」内の一ページ。クオリア問題の歴史、意味、そして重要性について熱く語っている。現在の心脳問題の概況を知るのにも使える一ページ。
- クオリアとは何か? - 同じく茂木氏のサイト、「クオリア・マニフェスト」内の一ページ。このページではクオリアについて、かなり踏み込んだ解説をしており、茂木氏の研究上の視点がモロに現れている文章でもある。「脳内でのニューロンの時空間的な発火パターンに対応してクオリアが生起している」という茂木氏独自の作業仮説をもとに、クオリアに関する一連の議論を展開している。
- コウモリ論文を読む - サイト「迷宮旅行社」内の一ページ。ネーゲルのコウモリの思考実験についての、分かりやすい解説が読める。
英語
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- Consciousness and Qualia - 心の哲学者ディビッド・チャーマーズによって編纂された、意識とクオリアを扱っている書籍と論文の一大リスト。全部で1523編の書籍や論文がリストアップされており、一部はその場ですぐに読むことが出来る。