「吉備大臣入唐絵巻」の版間の差分
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===第一段=== | ===第一段=== | ||
− | + | 第一段の詞書は失われているが、概要は次の通り。 | |
吉備真備が唐に入る。長安の宮中の対応が書かれる。官人が吉備の到着を皇帝に報告する。吉備真備一行の船が唐の港に着いたところ、官人たちは真備を拉致して高楼に閉じ込めた。 | 吉備真備が唐に入る。長安の宮中の対応が書かれる。官人が吉備の到着を皇帝に報告する。吉備真備一行の船が唐の港に着いたところ、官人たちは真備を拉致して高楼に閉じ込めた。 | ||
===第二段=== | ===第二段=== | ||
鬼が登場する。夜半になり嵐の中から恐ろしい鬼が現れ、自分は[[阿倍仲麻呂]]の霊であると告げ、真備は「鬼の姿を変えよ」と伝えると、幽鬼は衣冠束帯姿で吉備真備と対面した。そこで幽鬼は、日本に残る自分の子孫の様子を問い、真備は詳しき語る。これを聞いて鬼はよろこび、この国の事すべて語ると約束する。 | 鬼が登場する。夜半になり嵐の中から恐ろしい鬼が現れ、自分は[[阿倍仲麻呂]]の霊であると告げ、真備は「鬼の姿を変えよ」と伝えると、幽鬼は衣冠束帯姿で吉備真備と対面した。そこで幽鬼は、日本に残る自分の子孫の様子を問い、真備は詳しき語る。これを聞いて鬼はよろこび、この国の事すべて語ると約束する。 | ||
− | われも日本国の遣唐使にて渡れりしものなり。物語りせむと思ふ。 | + | われも日本国の遣唐使にて渡れりしものなり。物語りせむと思ふ。 |
われは吉備にて来たりてはべりたりしにこの楼に登せられて食ひものを与へざりしかば、 | われは吉備にて来たりてはべりたりしにこの楼に登せられて食ひものを与へざりしかば、 | ||
餓ゑ死にてかゝる鬼となりて、この楼に棲みはべるなり | 餓ゑ死にてかゝる鬼となりて、この楼に棲みはべるなり | ||
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===第三段=== | ===第三段=== | ||
− | + | 真備が幽閉されている高楼に唐人は食物を運ぶと、真備が健在であることに驚く。次の難問として唐人は真備に文選を読ませ、誤りを誘発させ嘲笑しようとした。真備は鬼にそれを読み聞かせてほしいというと、鬼は楼を超えることはできないという。真備は飛行の術で宮廷にはいり、30人の博士が文選を読んでいるところを傍聴する。真備は鬼に古歴十巻を所望する。 | |
− | + | この日本の使ひ才能人に過ぎたり。文を読ませて、その誤りを笑はむといふなり。鬼の曰く、この国にきはめて読みにくき文なり。[[文選]]といふなり。 | |
===第四段=== | ===第四段=== | ||
− | + | 真備は古歴に文選を書きつけて楼内に散布する。博士の一人が勅使として[[文選]]三十巻を持参して到着する。到着した勅使は真備が「文選」の内容を知っていることに驚く。「日本では皆知っている」とうそぶき、使者が持ってきた「文選」30巻を取りあげてしまった。 | |
===第五段=== | ===第五段=== | ||
使者は事の次第を皇帝に上奏し、才能はあるが芸はないだろうとして、碁の名人と試合をさせることになる。負ければ真備を殺してしまおうと取り決める。碁を知らない吉備大臣は幽鬼から碁の手ほどきを受け、天井を碁盤に見立てて策を練る。 | 使者は事の次第を皇帝に上奏し、才能はあるが芸はないだろうとして、碁の名人と試合をさせることになる。負ければ真備を殺してしまおうと取り決める。碁を知らない吉備大臣は幽鬼から碁の手ほどきを受け、天井を碁盤に見立てて策を練る。 | ||
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==絵巻の行方== | ==絵巻の行方== | ||
*1593年(文禄2年)、[[豊臣秀吉]]正室・高台院の甥・[[木下勝俊]]が若狭国主となった際に吉備大臣入唐絵巻を献上された<ref>吉田言倫『若狭郡県志』(蘆田伊人編『大日本地誌大系』第13冊</ref>。 | *1593年(文禄2年)、[[豊臣秀吉]]正室・高台院の甥・[[木下勝俊]]が若狭国主となった際に吉備大臣入唐絵巻を献上された<ref>吉田言倫『若狭郡県志』(蘆田伊人編『大日本地誌大系』第13冊</ref>。 | ||
− | * | + | *吉備大臣入唐絵巻の詞書を[[烏丸光広]]が[[1636年]](寛永13年)に[[吉田兼好]]筆と鑑定した。 |
*1732年(享保17年)以前、京都商人の三木権太夫が所持する<ref>絵巻付属文書</ref>。 | *1732年(享保17年)以前、京都商人の三木権太夫が所持する<ref>絵巻付属文書</ref>。 | ||
*幕末頃に吉備大臣入唐絵巻は再び小浜に戻り、酒井家の宝となる。 | *幕末頃に吉備大臣入唐絵巻は再び小浜に戻り、酒井家の宝となる。 | ||
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*1964年(昭和39年)、「東京オリンピック記念特別展」東京オリンピックに合わせて里帰りした際に、保存や展示の便宜を図るため四巻に改装される。 | *1964年(昭和39年)、「東京オリンピック記念特別展」東京オリンピックに合わせて里帰りした際に、保存や展示の便宜を図るため四巻に改装される。 | ||
*1983年、[[京都国立博物館]]、全巻公開 | *1983年、[[京都国立博物館]]、全巻公開 | ||
− | *2010年(平成22年) | + | *2010年(平成22年)4月3日(土)~6月20日(日)、[[奈良国立博物館]]「平城遷都1300年記念 大遣唐使展」第一巻、第四巻 |
*2012年3月20日から6月10日、[[東京国立博物館]]「ボストン美術館 日本美術の至宝」 | *2012年3月20日から6月10日、[[東京国立博物館]]「ボストン美術館 日本美術の至宝」 | ||
==関連事項== | ==関連事項== |
2021年11月23日 (火) 19:07時点における版
吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき, Kibi daijin nittô emaki/ Minister Kibi's Adventures in China)は米国・ボストン美術館蔵にある日本で製作された絵巻物である。話の筋は遣唐使として唐に渡った吉備真備が、唐の皇帝から難題を課せられて能力を試され窮地に陥ったところ、阿倍仲麻呂の霊が鬼となって真備を助けるというものである。日本国内にあれば国宝に指定されることは間違いのない名品とされる。
概要
平安時代後半である12世紀末頃に後白河法皇の指示により製作された絵巻のひとつと考えられている。蓮華王院宝蔵に収蔵されていたが、中世に若狭国遠敷郡の松永庄にあった「新八幡宮」という神社に「伴大納言絵巻」「吉備大臣入唐絵巻」、「彦火々出見尊絵巻」の3点の絵巻が移された。伏見宮貞成親王の日記『看文日記』1441年(嘉吉元年)4月26日条に「新八幡宮」から貞成が取り寄せ、息子の後花園天皇に見せている[1]。
廿六日、雨降、公方へ岩梨一合、紫竹六束進之、内々被進、御返事悦奉、抑若州松永庄新八幡宮ニ有繪云々、浄喜申之間、社家ヘ被仰て被借召、今日到來、 有四巻、彦火々出見尊繪二巻、吉備大臣繪一巻、伴大納言繪一卷金岡筆云々、詞之端破損不見、古弊繪也、然而殊勝也、禁裏爲入見参召上了、 典侍殿泊瀬下向願書奉納、其刻有吉端云々、珍重也(『看文日記』)
絵巻がなぜ都を離れ、新八幡宮に伝わったのか、現存しない新八幡宮がいったいどこにあったのかは謎のままである[2]。ボストン美術館は時期不明だが、新八幡宮から酒井家が入手したとする。
物語
物語としては大江匡房の『江談抄』[3]巻第3の「吉備入唐間事」のストーリを使用し、絵巻にしたものである。
第一段
第一段の詞書は失われているが、概要は次の通り。 吉備真備が唐に入る。長安の宮中の対応が書かれる。官人が吉備の到着を皇帝に報告する。吉備真備一行の船が唐の港に着いたところ、官人たちは真備を拉致して高楼に閉じ込めた。
第二段
鬼が登場する。夜半になり嵐の中から恐ろしい鬼が現れ、自分は阿倍仲麻呂の霊であると告げ、真備は「鬼の姿を変えよ」と伝えると、幽鬼は衣冠束帯姿で吉備真備と対面した。そこで幽鬼は、日本に残る自分の子孫の様子を問い、真備は詳しき語る。これを聞いて鬼はよろこび、この国の事すべて語ると約束する。
われも日本国の遣唐使にて渡れりしものなり。物語りせむと思ふ。 われは吉備にて来たりてはべりたりしにこの楼に登せられて食ひものを与へざりしかば、 餓ゑ死にてかゝる鬼となりて、この楼に棲みはべるなり わが子孫は官位はゝべりやといふ。大臣詳しくありさまを語るを聞きて、鬼おほきに喜びていはく、 この恩には、この国のことをみな語り申さむと思ふなり。
第三段
真備が幽閉されている高楼に唐人は食物を運ぶと、真備が健在であることに驚く。次の難問として唐人は真備に文選を読ませ、誤りを誘発させ嘲笑しようとした。真備は鬼にそれを読み聞かせてほしいというと、鬼は楼を超えることはできないという。真備は飛行の術で宮廷にはいり、30人の博士が文選を読んでいるところを傍聴する。真備は鬼に古歴十巻を所望する。
この日本の使ひ才能人に過ぎたり。文を読ませて、その誤りを笑はむといふなり。鬼の曰く、この国にきはめて読みにくき文なり。文選といふなり。
第四段
真備は古歴に文選を書きつけて楼内に散布する。博士の一人が勅使として文選三十巻を持参して到着する。到着した勅使は真備が「文選」の内容を知っていることに驚く。「日本では皆知っている」とうそぶき、使者が持ってきた「文選」30巻を取りあげてしまった。
第五段
使者は事の次第を皇帝に上奏し、才能はあるが芸はないだろうとして、碁の名人と試合をさせることになる。負ければ真備を殺してしまおうと取り決める。碁を知らない吉備大臣は幽鬼から碁の手ほどきを受け、天井を碁盤に見立てて策を練る。
第六段
名人と初心者の真備との対局では碁石を一つ飲みこむことにより辛勝した。占い師に調べさせると「吉備大臣が一つ飲み込んだ」と宣託が出る。唐人たちは真備に下剤を飲ませ、排泄物の中まで碁石を探すが、吉備大臣は超能力で内臓の中に石を留めて難を逃れた。
第七段以降は失われている。
絵巻の行方
- 1593年(文禄2年)、豊臣秀吉正室・高台院の甥・木下勝俊が若狭国主となった際に吉備大臣入唐絵巻を献上された[4]。
- 吉備大臣入唐絵巻の詞書を烏丸光広が1636年(寛永13年)に吉田兼好筆と鑑定した。
- 1732年(享保17年)以前、京都商人の三木権太夫が所持する[5]。
- 幕末頃に吉備大臣入唐絵巻は再び小浜に戻り、酒井家の宝となる。
- 1923年(大正12年)、小浜藩酒井家の遺産分与のため東京美術倶楽部の売立に出され、大阪の古美術商、戸田弥七(戸田商店)が18万8900円で吉備大臣入唐絵巻を落札した。
- 1932年(昭和7年)、大震災による不景気で数年間、買い手がつかず、最終的に古美術を広く海外に売っていた山中商会に斡旋を依頼した。ボストン美術館の富田幸次郎(昭和6年から東洋部長)が、日本にきた際、山中商店の仲介により吉備大臣入唐絵巻を21万数千円で購入した。美術館は、購入資金を集めるため他の作品を売却して、この絵巻を購入した。
- 1933年(昭和8年)、日本にあるはずの絵巻が、ボストンにあることが知られるようになったのは1933年(昭和8年)になってからであった。国内ではマスコミなどで大騒ぎになり、富田は、当時の美術界の重鎮の滝精一から「国賊呼ばわり」されたという[6]。そこで「重要美術品等の保存に関する法律」ができる。重要美術品として認定された美術品の輸出には許可を要することとなった。
展示
何度か日本の美術展覧会で里帰り展示されている。
- 1964年(昭和39年)、「東京オリンピック記念特別展」東京オリンピックに合わせて里帰りした際に、保存や展示の便宜を図るため四巻に改装される。
- 1983年、京都国立博物館、全巻公開
- 2010年(平成22年)4月3日(土)~6月20日(日)、奈良国立博物館「平城遷都1300年記念 大遣唐使展」第一巻、第四巻
- 2012年3月20日から6月10日、東京国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」