「越勃組」の版間の差分
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越勃組(おぼつぐみ)は、明治維新の後、新政府に仕官せず、旧藩領で帰田した尾張藩士をオボツ(小魚)になぞらえた呼称。オボツは名古屋の東在の小川を特定の時期に群れを成して遡上し、また貪食な魚として知られていた。帰田した尾張藩士たちは、仲間や知人に任官する人が出ると、その「変節」を見咎め、お祝いと称して大挙してその家に行って酒や肴を飲み食いしたことから、自らをオボツになぞらえて「越勃組」を自称した。[1]
不平士族[編集]
明治維新の後で帰田した尾張藩士の中には、戊辰戦争のとき国事に関わったものの、明治政府が(尊皇攘夷の理念を掲げていたにもかかわらず)王政復古が実現した後に洋化を進めたことなどに反発して新政権に参与しなかった人物も多く、また政府の施策によって士族が困窮することに不満を抱いていた[2]。
廃藩置県の後、秩禄処分を受けて、旧尾張藩士たちは、神風連の乱や前原一誠ら萩の乱を起した不平士族のように、新政府に対し反乱を起すことも企図した[1]。
- 1874年(明治7)7-8月頃、田中不二麿、丹波賢、松本暢、間島冬道らが徳川慶勝に進言して家令・白井逸造を退職させ、宮内省で在官していた中村修を家令とした際に、角田弘業や長谷川惣蔵は中村を退職させ、白井を復職させた[3]。
- 同年、台湾出兵のとき、角田は名古屋近郊の浜沼で「鯉漁」と称して士族約2,000人で集会を開いた。会議内容は明らかでなかったが、出兵を要望しようとしていたのではないかと噂された。[3]
- 1875年(明治8)頃、明治政府は、角田、長谷川、吉田知行、丹羽清五郎らを、鹿児島の士族とも連携して動乱を起す可能性のある不穏分子とみて警戒していた[4]。
- 1876年(明治9)の晩夏、家塾・和合書院で旧藩士の子弟を教育していた海部昂蔵は、前原一誠から挙兵の勧誘を受けたが、大義名分を説いて応じなかった[5]。
加藤久兵衛[編集]
西南戦争の後、明治政府に対する反乱への意欲は減退して、デカダンス的な雰囲気を持つ人物も出てきた[1]。
「越勃組」の中でも有名だったのは加藤高明の養祖父・加藤久兵衛で、貧乏な武芸家で酒が好きな人物で、破れた布子を着て刀を腰に着け、欠けた徳利を持って酒屋へ酒を買いに行き、徳利の口まで酒が入ると満足して帰るという人だった[6]。
北海道への移住者[編集]
西南戦争の後、「越勃組」の関心は産業の振興やロシアの進出への対抗に移り、その首領と目されていた人々のうち、吉田知行と海部昂蔵は北海道への移民を尾張徳川家の当主・徳川慶勝にはかって賛同を得、「越勃組」や海部が開いていた和合書院の門下生が北海道の開拓地への移住に参加した[7]。
このため「越勃組」は旧尾張藩から北海道への移住者を指す言葉としても用いられた[8]。
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
- 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23
- 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971