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2020年1月12日 (日) 20:02時点における最新版
フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する共和制国家。島国であり、フィリピン海を挟んで日本、ルソン海峡を挟んで中華民国、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んでベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。首都はマニラ。国名は16世紀のスペイン皇太子フェリペにちなんでいる。
国名[編集]
正式名称は、Republika ng Pilipinas (フィリピノ語: レプブリカ ナン ピリピーナス)、Republic of the Philippines (英語: リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ)。略称は、Pilipinas(フィリピノ語)、Philippines(英語)。
日本語表記による正式名称の訳は、フィリピン共和国、通称はフィリピンである。かつてはフイリッピン、ヒリピンという表記もなされていた。漢字では、比律賓、菲律賓と表記され、比、菲と略される。
国名は、1542年に、スペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者によってラス・フィリピナス諸島[1]と名づけられたことに由来する。
歴史[編集]
フィリピンの歴史参照
先史時代[編集]
フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。
洪積世中期の遺跡として、ルソン島北部のカガヤン渓谷にあるリワン遺跡が発見されている。そこからエレファス(古代象)、ステゴドン(ステゴゾン象)、ライノセラス(古代犀)などの絶滅種の動物化石が出土し、他の出土品ではチョッパー(片面礫器)、チョッピング・トゥール(両面礫器)、フレーク・トゥール(剥片石器)など多量に発見されている。カガヤン渓谷に「カガヤン原人」の骨化石を求めて発掘作業が行われている。
古代[編集]
紀元前500年~紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900年頃の日付が記録されているラグナ銅版碑文などによれば、当時すでにカウィ文字やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。
イスラームの流入[編集]
14世紀後半にイスラム教が広まった。中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7,000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。
スペイン植民地時代[編集]
西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。 1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したが、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。
スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。
ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。
支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。彼は、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルド[2]らの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。
1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。
第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代[編集]
米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国がサンボアンゲーニョによって建国された。
フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている。
その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立。1934年アメリカ議会はタイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンに膨大な利権を確保し続けた。
第二次世界大戦と独立[編集]
第二次世界大戦中の1941年12月に、米軍との間に開戦した日本軍が米軍を放逐しマニラに上陸した。敗走を続けるアメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡し、日本軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。
アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月に御前会議でフィリピンとビルマを独立させた。ラウレルを大統領としたが、軍の統帥権は日本軍が握り傀儡政権をたてた。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。しかし、ラウレル政権は必ずしも日本の言うことを全て聞き入れた訳ではなく、地主支配の維持を図ったために、アルテミオ・リカルテのようなフィリピン親日派からも離反が相次ぎ、新たなる親日組織マカピリが設立された。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。日本軍はこれら抗日ゲリラを鎮圧することができず。日本軍が実質的に支配できていたのはフィリピン全土中の3割程度に過ぎなかった。
その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。
再独立[編集]
1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年のマニラ条約 (1946年)で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国が再独立した。
冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。
マルコス独裁[編集]
1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家体制を築いた。アメリカからの支持を得たマルコス政権は20年に渡る長期政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍 (NPA) による武装蜂起が発生した。
エドゥサ革命[編集]
1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が首都の中心部でデモや集会、座り込みを行った。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に放映した。これらのマスメディアが心理的圧力となり、軍は発砲できなかった。
マルコスはアメリカのハワイ州に亡命した。新人民軍による三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年11月15日 - 1987年3月31日)が発生。
第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり米軍に基地を提供していたが、1990年代初頭の冷戦終結を受けた米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ火山の噴火に伴う基地機能の低下により、米軍は軍備を沖縄に集約しフィリピンから撤退した。
アジア通貨危機以降[編集]
- フィリピン経済に転機が訪れたのは、1990年代後半だった。1997年にアジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、IMFの管理下になることを免れた。
- フィリピンの経常収支は1000万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられており、出稼ぎ、特に看護師こそフィリピン最大の産業と言っても過言ではない。主要な貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は距離的にも近い中国や韓国との貿易も増えている。
- 東南アジアではベトナム・インドネシアと共にNEXT11の一角にも数えられており、今後も経済発展が期待できる新興国の一つに含まれている。
- また、長年の懸案であった、ミンダナオ島を活動拠点とする、南部武装ムスリム勢力(MILF・モロ・イスラム解放戦線)との和解交渉成立後、ミンダナオ島にも、アメリカなどからの直接投資も入り始めている。
政治[編集]
東南アジア諸国連合(ASEAN)創設以来の加盟国である。
元首・行政[編集]
大統領を元首とする共和制国家であり、フィリピンの大統領は、行政府の長である。大統領と副大統領は、同日に別枠で国民の直接選挙により選出される。任期は6年で再選禁止。
立法[編集]
議会は、元老院(上院)と代議院(下院)の両院制(二院制)。上院は、24議席で任期6年。3年ごとに半数改選。下院は、憲法上は250議席以下と規定されているが、現在は214議席。20%を政党別の候補者リストから、残りを小選挙区制で選出され任期は3年である。選挙は、2007年など3で割り切れる年に行われる。アロヨ政権は現在の大統領制から議院内閣制へ、両院制議会から一院制へ移行する憲法改正を提案するが進展は見られない。地方自治体の州、市町村の正副首長と地方議会の議員は任期3年。
憲法[編集]
フィリピン初の憲法は1899年に公布されたマロロス憲法であり、アジア初の共和制を定めた憲法であった。次は1902年のフィリピン組織法(クーパー法)で選挙による議会が設置された。
1935年にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの承認と国民の賛成でフィリピン1935年憲法が実施され、フィリピン・コモンウェルスが成立、大統領の権限が強化された。
1971年6月に憲法制定会議が開催され、全面的な改正に着手した。熱心な討議の末新憲法草案は、1972年11月に入って承認され、1973年1月に実施された。このフィリピン1973年憲法は、大統領制下での議院内閣制が特徴である。しかし、欠点もあり、1980年と1981年に一部改正された。
フィリピン紛争[編集]
フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍 (NPA New Peoples Army) を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年現在、武力行使は継続中である。
ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、現在はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した。
モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年MNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年MILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る。
アブ・サヤフ・グループ (Abu Sayyaf Group) は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年現在、武力闘争を継続中である。
軍事[編集]
フィリピン軍は陸軍、海軍、空軍の三軍により構成される。現有兵力は、1998年現在で、陸軍10万、海軍1万5000、空軍1万6000の合計13万1000、予備役13万1000。軍隊の始まりは、1868年にスペインが警察軍を創設したことによる。スペイン支配下では、通常軍と国家警察を使い分けた。アメリカ植民地支配下では正規軍をマニラおよびその周辺に配置し、準軍事的な国家警察軍を全土に展開した。1916年Constabulary Academyが開校、1922年にフィリピン大学に予備役見習将校団 (ROTC) が設立され、1936年に陸海空の将校養成を目的としたフィリピン士官学校 (PMA) が設立された。国軍は治安対策であり、米軍が外的対策を担当した。
国際関係[編集]
米菲関係[編集]
基本的にフィリピンは親米的であり、日本と同じく軍事的、経済的、政治的にアメリカとの関係が深い。フィリピンは植民地から独立したが、アメリカが介入した朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦し、現在行われている対テロ戦争にも参戦、反対世論が多かったイラク戦争(武装勢力によるフィリピン人拉致事件でフィリピン軍はイラクから全面撤退した)に同調し、東南アジア条約機構や米比相互防衛条約を結んでいる。 一方で、かつてクラーク基地にあった在比米軍の軍人によるフィリピンでのレイプ事件では、米兵容疑者に対し、最高裁判所で最高刑となる終身刑を確定し、容疑者の身柄の引渡しにおいて米国と外交問題になった。他にスービック基地でのレイプ事件も問題になった。
クラーク空軍基地は1991年4月に近くのピナトゥボ火山が噴火し、火山灰の降灰により基地の大部分が使用不可能となり、アメリカ政府は同基地の放棄を決定した。また、スービック海軍基地は米海軍のアジア最大の国外基地だったため維持を希望したが、フィリピン政府により拒否されたため両基地とも1991年11月26日にフィリピンへ返還された。
2013年1月7日、米軍無人機が漂流されているのが発見され、続いてフィリピン南西部のパラワン島近くの世界遺産に登録されているトゥバタハ岩礁のサンゴ礁で、米海軍の掃海艦ガーディアンが座礁し、修復不可能な損傷を与えた。無人機の事故では、主権侵害との批判は一部に留まっていたが、ガーディアンの座礁事故では、環境保護団体や地元政治家、市民にまで非難の声が広がっている。
英語教育が進んでいるため、フィリピンは英語圏での出稼ぎに大いに役立っている。
第二次大戦において、米軍に協力したフィリピン軍人に対しアメリカでの労働が許可され、多くのフィリピン人がアメリカへ渡ろうとしたものの、1924年のアメリカの移民法によってフィリピンからは年100人がアメリカに渡れるに過ぎなかった。1965年のアメリカの移民法 (1965年)によって国別人数制限が改正されて撤廃されたことにより、多くのフィリピン人がアメリカに入国できるようになった。この時期の出稼ぎは主として医師、看護師、技術者、歯科技工士など高度な専門職に就く者が多く、また1960年代にはホテルのボーイやメイド、看護師、家政婦などの職を得てヨーロッパに渡る者も出始めている。近年、旬な職業は「看護師」と「IT技術者」と言われており、特に看護婦不足のアメリカでは看護師資格で永住権が優先されるために家族も呼び寄せてそのまま移民するケースもあるという程である。
しかしフィリピン人の富裕層やエリート層がアメリカなどの英語圏に移住してしまうケースが多く、優秀な人材が海外へ移住してしまうケースが多いため、これが経済発展を妨げている。
現在ではフィリピン系アメリカ人はアメリカで2番目に多いアジア系で、移住や高い出生率で年々増加し、現在400万人存在する。
2000年代になり米軍がフィリピン国内の基地から撤退したことを機に、中国による南シナ海への領有権主張など中国の軍事力の台頭による東南アジアのパワーバランスが悪化することに対応するため、フィリピン政府内でも米軍の再駐留を望む声も出てきている。
周辺諸国関係[編集]
2000年代に入り中国がスカボロー礁やスプラトリー諸島の領有権の主張を活発するようになり、実効支配を巡り、2012年4月に両国の公船が出動し、この事件はその後、暫く貿易や観光などでしこりを残しており、以降該当海域などではお互いに睨み合う状況が多発している。2013年1月にはフィリピンが「平和的解決に向けたほぼ全ての政治・外交手段を尽くしてしまった」として、国連海洋法条約に基づく国際仲裁裁判を請求し、同年4月に国際海洋法裁判所は仲裁裁判に必要な仲裁人5人を選定したと発表したが、中国は仲裁自体に応じない姿勢である。この係争に関してフィリピンは自国だけでは解決に辿り着けないとして、同じ領有権で中国と争っているベトナムや日本などと協力し、日本からは海上保安庁が巡視船を提供したり、フィリピン海岸警備隊との合同訓練を行ったりしている。更に以前基地ごと軍隊を駐留をしていたアメリカにも圧力をかけてもらうために近年は米軍とフィリピン軍の合同演習を行ったりしているが、アメリカ政府としてはこの件に関し中立的な立場を維持することを表明している。
2013年5月9日、フィリピン公船が台湾との排他的経済水域で係争する海域にて、警告のない上、作業中の台湾籍漁船団にに乱射し、銃弾は一人の台湾人漁師に当たりこの漁師は死亡した。台湾当局はフィリピン政府に正式な謝罪と賠償を求め、フィリピン政府は後日この件に関し正式な謝罪は受け入れられないとする一方、「乗組員の遺族にお悔やみを申し上げたい」と述べ、賠償などを行うか検討する方針を表明。
地方政治[編集]
地方政府[編集]
地方政治家は、地方選挙区から選ばれる議員(下院議員)や州知事、市長、町長などの地方政府の首長が当てはまる。 地方政治家は、大土地所有の大地主で地方権力を握り、経済的支配を背景に、その地方政治支配が行わる。つまりは「金持ちによる支配」。地主と農民が互報酬制、つまりパトロン・クライアント関係で結び付けられている。伝統的な政治家(トラディショナル・ポリティシャン)を省略した「トラポ」に象徴される汚職、公職を利用した汚職による私的蓄財というイメージが強い。また、私兵的な暴力集団を持つ地方政治家や選挙時に票買収の活動するというイメージもある。
これらの地方政治家を表現する場合、「ボス」、「ウォーロード」などが使われる。例として、イサベラ州のディー、ヌエバ・エシハ州のホソン、タルラック州のコファンコとアキノ、カマリネス・スル州のフエンテペリャ、セブ州のオスメーニャとドゥラノなど。
地方政治家は、中央政府から比較的自由で、自分の支配地では「好き勝手やり放題」という認識が多い[3]。
地方行政区画[編集]
地方行政の最上位単位は、州と公認都市である。州と都市の数は、2006年12月時点で、州が81、公認都市が61。これらは、17の地方にグループ分けされる。
地方 | 称号(タガログ語) | 中心都市 |
---|---|---|
イロコス地方 | Rehiyon I | サン・フェルナンド |
カガヤン・バレー地方 | Rehiyon II | トゥゲガラオ |
中部ルソン地方 | Rehiyon III | サン・フェルナンド |
カラバルソン地方 | Rehiyon IV-A | カランバ |
ミマロパ地方 | Rehiyon IV-B | カラパン |
ビコール地方 | Rehiyon V | レガスピ |
西ヴィサヤ地方 | Rehiyon VI | イロイロ |
中部ヴィサヤ地方 | Rehiyon VII | セブ |
東ヴィサヤ地方 | Rehiyon VIII | タクロバン |
サンボアンガ半島地方 | Rehiyon IX | パガディアン |
北ミンダナオ地方 | Rehiyon X | カガヤン・デ・オロー |
ダバオ地方 | Rehiyon XI | ダバオ |
ソクサージェン地方 | Rehiyon XII | コロナダル |
カラガ地方 | Rehiyon XIII | ブトゥアン |
イスラム教徒ミンダナオ自治地域 | ARMM | コタバト |
コルディリェラ行政地域 | CAR | バギオ |
国家首都地方 | NCR | マニラ |
地理[編集]
ルソン島・ヴィサヤス諸島・ミンダナオ島などを中心に、大小合わせて7107の島々から構成される多島海国家である。フィリピン海、南シナ海、セレベス海に囲まれる。フィリピン海のフィリピン海溝は太平洋側にあり、世界3位の深さである。この海溝は、ルソン島中部からミンダナオ島のずっと南方まで続く。いくつもの海溝の地殻運動が東西1100キロ、南北1800キロの海域に大小合わせて7000以上もの島々が散らばるという地形を作り出したと考えられている。。
国土は約30万平方kmでマヨン山、ピナトゥボ山、タール山など活動中の火山を含む山岳と熱帯雨林が占める。マニラの東南に位置するパナハオ山はラグナ州とケソン州の境に聳える標高2177メートルの休火山であり、宗教的な聖地、聖山として知られている。
最高地点はミンダナオ島の東部よりにあるアポ山の標高2,954mである。因みに、マニラの北、ルソン島の北よりにあるプローク山(Mt.pulog)は2934メートルある。
火山と地震が多いのはプレートテクトニクスによるものである。また、鉱物資源に富み、金鉱床は南アフリカに次ぐ規模を誇り、銅鉱床は世界規模で、ニッケル・クロム・亜鉛も多い。地熱発電は電力需要の18%を賄い、アメリカに次ぐ量である。
220万平方kmに達する領海には豊富な海洋資源があり、魚類は2,400種、サンゴは500種あるといわれる。アポ・リーフはオーストラリアのグレート・バリア・リーフに次ぐ規模のサンゴ礁である。
スプラトリー諸島(南沙諸島)で領有権問題を抱えている。違法伐採による森林減少も大きな問題である。
全国的に日本のような詳細な地図・道路地図は発行されておらず書店、空港などで購入できる地図も非常に大まかなものである。
気候[編集]
フィリピンの気候は熱帯海洋性で、いつも暑く湿度が高い。季節は3つあり、3月から5月が暑く乾燥している。6月から11月は雨季、12月から2月が涼しく乾燥している。南西からと北東からの季節風がある。気温は21℃から32℃で、1月がいちばん低く、5月が最も高い。
台風の通り道にあたり、年間平均19回通過する。とくに7月から10月にかけて多く、年間降水量は東部海岸山岳地帯で最大5,000mmに達することがある。
フィリピンのはるか東の西太平洋海上で6月から12月にかけて熱帯低気圧が多く発生し、西に進み、フィリピンやインドシナ半島に進むものがある。
経済[編集]
IMFによると、フィリピンの2011年のGDPは2131億ドルであり、福岡県とほぼ同じ経済規模である。一人当たりのGDPは2223ドルであり、世界平均のおよそ20%の水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は3842万人と推定されており、国民の40%以上を占めている。
農業[編集]
フィリピンは他の東南アジア新興国と同様に基本的には農業国であり、全人口の約40パーセントが第一次産業に従事している。亜熱帯に属することから多種多様な作物を作ることが可能で、サトウキビやココナッツ、コプラ、マニラ麻、タバコ、バナナなどの生産が盛んである。主食用には米、トウモロコシを産し、特に米の生産が多く、毎年約1500万トンもの米を産出する世界第8位の米生産国であるが、その自給率は低く、大量の米を輸入している。特に米に至っては世界最大の米輸入国であり、アジア有数の農業国でありながら、大量の食糧を輸入するというジレンマ状態に陥っている。そのことが、フィリピンの社会問題となっており、2007年-2008年の世界食料価格危機には政治的に大きな影響を受けた。その根本原因には過剰な人口(人口爆発)と、過酷な貧困問題に加え、前近代的な農法から来る農業生産性の低さと、フィリピン政府・官僚の腐敗、外貨を得るために輸出商品作物の栽培に偏っているなど、様々な原因が指摘されている。
かつては緑の革命により、1970年代から1980年代を通して米の大増産に成功し、米自給率100パーセントを達成し、米輸出国となったが、1990年代に入ると、緑の革命は頭打ちを迎えるようになり、生産量の横ばいになり、あるいは化学肥料の使いすぎ、水資源の枯渇などで生産量の減少さえ引き起こし、工業化による農地減少もあって、再び米輸入国に逆戻りしてしまう。現在も食料の自給率は遅々として回復せず、国民の生活は昨今の穀物価格の高騰やベトナム政府の米輸出制限措置の影響を大きく受けている。漁業は全国で幅広く行われるが、自給用の小規模なものが多い。豊富な森林を有しているため、林業は盛んであり、マホガニー、ラワン材なども重要な輸出品の一つである。アメリカ領土になった当時の1898年、国土の70%は森林で覆われていた。航空写真での森林調査が始まった1968年には、55.5%が残されていた。しかし、1981年の調査では40.8%にまで減っていた。そして原生林は森林面積の13%ほどしかない。
アメリカによる植民地政策では農業政策が失敗し、スペイン時代のプランテーション農業に基づく地主と小作人の関係が現在も続いている。この地主は全国に数十人おり、彼らの家族が国土の半分以上の土地を所有している。農村部では半数以上が一日1ドル以下の生活をする最貧困層で、これが南部イスラム地域では更に75パーセント以上が最貧困層とされる。
財閥[編集]
植民地時代・独裁時代に一部の特権階層が経済を独占してきたアシエンダ制(大農園)の影響が残っており、財閥による寡占状態にある。Andrés Sorianoによって急成長したサンミゲル醸造所を傘下に収めるサン・ミゲル社、不動産開発で成功したアヤラ財閥、砂糖プランテーションから不動産開発に多角化したアラネタ財閥を所有するオルティガス財閥、ミンダナオのバナナプランテーションや銃器メーカーArmscorで有名なツアソン財閥 (Tuason Family)、コラソン・アキノの父Jose Cojuangcoの興したホセ・コファンコ・アンド・サンズ (Jose Cojuangco and Sons Inc., JCSI) 社を擁すコファンコ財閥、Alfonso Yuchengco率いるユーチェンコ財閥 (Yuchengco Group)、John Gokongwei率いるコーヒー会社や食品会社Universal Robinaで有名なゴコンウェイ財閥 (Gokongwei)、ヘンリー・シィ率いるSM Prime Holdingsを擁すシューマート財閥 (SM Investments Corporation)、マリアノ・ケ 率いるMercury Drugなどが知られている。
鉱業[編集]
フィリピンは鉱物資源(銅・金・ニッケル・クロム等)に恵まれた国で、かつてはインドネシアに次ぐ東南アジア有数の鉱産国であったが、1980年代から衰退し始め、銅の生産量は1980年の30万トンをピークに落ち込みが続き、2000年には3万トンしか生産されず、この20年間で銅生産量は10分の1にまで落ち込んでいる。これは、生産コストの上昇、金属価格の低迷によって引き起こされ、さらに1986年に起こったマルコス元大統領の亡命に見られるような政治的、社会的不安が鉱業の衰退に拍車を掛けた。1994年の鉱産税の減税、1995年の新鉱業法制定により、鉱業の再生が進むものと見られたのにも拘らず、その後も鉱業は冷え込んでいる。操業中の鉱山も2001年には12鉱山(金鉱山3、銅山4、ニッケル鉱山3、クロマイト2鉱山)となっている。しかし、未開発の鉱山もまだまだ多数存在しているとされており、北スリガオ州、マニラなどで優良な金鉱や銅鉱が発見されており、セブでも新たに金、銅、亜鉛を含む多金属鉱床が発見されており、フィリピン鉱業の潜在能力は非常に高いものである。
工業・貿易[編集]
フィリピンは工業の中心は食品加工、製糖、製剤、繊維などの軽工業が中心である。近年では電子部品の生産も盛んである。フィリピンの工業化はマルコス政権時代から図られ、中国、ベトナムなどの共産圏と対峙するために、反共の砦としてアメリカに軍事的、政治的に従属する代わりに莫大な支援を受けて、マルコス独裁のもとに開発独裁を進めた結果、農業国から軽工業国へと変貌を遂げ、1960年にはフィリピンは東南アジアで最も豊かな国となった。しかし、1980年頃を境に一人当たりの所得は頭打ちとなり、マルコス大統領の独裁による政治腐敗や、1983年におきたアキノ上院議員の暗殺事件などを経て、1986年のエドゥサ革命によりマルコス政権が崩壊するともともと脆弱だったフィリピンの社会情勢は一気に政情不安状態に陥り、新人民軍とモロ族との内戦状態など、次第に外国企業にとってビジネスのやりにくい国、投資のしにくい国になり、タイやマレーシアなどの他の東南アジア諸国が急成長する中「東南アジアの病人」と言われた程経済成長が伸び悩んでいた。また、フィリピンのインフラストラクチャは極めて貧弱で、とりわけ道路、鉄道、エネルギーなどの社会資本の立ち遅れなど、工業化を妨げる一つの要因となっている。その代わりに重工業化がタイなどに比べるとまだ進んでいないために皮肉にも原油価格の変動を受けにくいとも言える。
観光[編集]
セブ島やボラカイ島などリゾートを中心とした観光業が重要な産業となっており、より観光客や工業投資を誘致するため、観光地の州政府はインフラ整備に余念がない。またカジノも多くの観光客を惹き付ける魅力の一つなっている。
経済成長率[編集]
近年の経済成長率は2007年7.3%・2008年4.6%・2009年0.9%・2010年7.6%・2011年3.7%とリーマンショックのあおりを受けた2009年を除いては比較的安定して成長しており、80年代から90年代前半と比べると大きく回復していることもNEXT11に選定された要因といえる。
交通[編集]
航空[編集]
- フィリピン航空、エアフィル・エクスプレス-フィリピン資本、フラッグキャリア
- セブ・パシフィック航空-中華系フィリピン資本
- エアアジア・フィリピン-元フィリピン資本、マレーシア資本との合弁
- タイガーエア・フィリピン-元フィリピン資本、シンガポール資本との合弁
などのキャリアがある。
道路[編集]
マニラ南部ニノイ・アキノ国際空港近辺からカヴィテ州を結ぶ高速道路があるが、極短距離である。 近年は、SCTEX (Subic-Clark-Tarlac Expressway) やSkyway(マカティ-ビクータン)等の路線も開通しているが、マニラへ続く木の幹に当たる一本の幹線道路に全ての枝状の道路が集中する構造の貧弱な道路網とあいまって、道路信号なども十分に整備されておらず、慢性的な交通渋滞が発生している。ごく短時間の間に警察官による車線規制を行い時間帯によって一本の道路を上り専用、下り専用道路として運用されたり、複車線の道路も時間帯で上り下りの車線数が変更されることが有る。
以下の代表的な交通機関がある。(料金はマニラ近郊基準)
初乗り8.5ペソ
- トライシクル
初乗り15ペソ
初乗り40ペソ
メーターが付いているが、メーターを使わずメーター表示値の数倍相当額を要求するタクシーが多い。クリスマスシーズン等タクシー需要が多くなると、行き先を告げて料金を交渉するケースが増える。
初乗り12ペソ(エアコンバス)から エアコン付でない通常のバスは10ペソから
日本から中古のバスを輸入しているケースが多いが、フィリピンの自動車道路は右側通行であるため左ハンドルに改造されている。座席は3列+2列の5列構造となっているものが多く、一席に付き初乗り12ペソ(又は10ペソ)である。子供を膝の上に乗せていれば料金はかからない。マニラ市の基幹道路ともなっているエドサ通りの渋滞の原因ともなっているのが、このバス(市内、郊外向け)のどこでも乗せて、どこでも下ろす営業形態である。乗客を乗り降りさせるバス停は決められてはいるが、交通巡視員がいなくなると遵守されないことが多い。また、マニラ首都圏から各地方への中長距離バスが発着していて、すごいものでは南部のルソン島外のイロイロやダバオ行きのバスが各島間の連絡船フェリーを介して最長48時間以上かけて運行されるバスもある。
鉄道[編集]
海運[編集]
イギリスや日本と同様に島国であるため、フェリーボート、貨客船の航路が発達しているが、使用船舶は他国での中古船が多く新造船は殆ど無く旅客定員も改造によって安全基準を超過しているものもあり、安全に対する意識が低く、事故率も高い。
国民[編集]
民族[編集]
住民はマレー系を始めとする多民族国家である。タガログ族・ビサヤ族(セブアノ族・ヒリガイノン族・ワライ族・イロカノ族・ビコラノ族・カパンパンガ族・パンガシナン族・モロ族(マギンダナオ人・バジャウ人・ヤカン人・タウスグ人・サマル人・イヴァタン人(台湾原住民)・華人・サンボアンゲーニョ・メスティーソ・ネグリト(アエタ族・アティ族・バタク族・ルマド族・ボントック・イゴロッテ族(イフガオ族)・ティルライ人など。
フィリピン人[編集]
現在ではフィリピン人とは、当たり前のことであるが、フィリピンに生まれ育った土着の人々の名称である。このような考え方は19世紀半ば以降に意識され始め現在に至っている。かつては、スペイン本国生まれのスペイン人と区別して、フィリピン諸島生まれのスペイン人を指して用いられた。そして、土着の人々をインディオといった。また、スペイン人や中国人の移住者の男性と現地の女性との間に生まれた子どもはメスティーソと呼ばれた。この背景には、インディオやメスティーノのなかの富裕層の子弟たちが、スペインの圧政に耐え兼ね、改革や自治を求めた様々な運動があったことが考えられる。
タガログ族[編集]
フィリピンの中心的な主要民族はタガログ族であり、ルソン島のリサール州、ラグナ州、タルラック州、ブラカン州、バターン州などに住む、タガログ語は他のフィリピン諸語と同じく、オーストロネシア語に属する。これを母語とする者は2500万人以上と推計される。16世紀後半から約300年にわたるスペイン人の支配により、タガログ族の80パーセント以上がカトリック教徒となっている。大半が木やニッパヤシでつくった小さな高床式の家屋に住み、水稲耕作を主とする農業を営んでいるが、主要な換金作物はサトウキビとココナッツである。19世紀から20世紀初頭にかけて起こった白人(スペイン人、アメリカ人)と日本人の植民地支配に対する革命運動で、最も重要な役割を演じた民族でもある。そのため、フィリピン国民の主要な英雄や、独立後の政府の指導者多く輩出している。ルソン島にはその他にもイロカノ族(人口約810万人)、ビコラノ族(人口約540万人。ビゴール語を話す)、カパンパンガ族(約人口300万人)、パンガシナン族(約人口110万人。但し、イロカノ族との混血が進んでいる)など、他にも多数の中小部族を抱えている。
ビサヤ族[編集]
続く主要民族はビサヤ諸島(セブ島、パナイ島、レイテ島、サマール島)を中心として、ルソン島からミンダナオ北部にかけて居住する新マレー系住民のビサヤ族である。オーストロネシア語族に属するビサヤ諸語を話し、人口は2000万を超えると推定されるが、政治的に、社会的地位は、タガログ族が圧倒的優位を占めている。但し、一言にビサヤ族と言えど、実際には多数の部族が存在している。ビサヤ族の最大の部族はセブアノ族であり、セブアノ語を話し、セブ、シキホール、ボホール島などの各島に居住し、1200万人の人口を誇る。2番目の人口を有するヒリガイノン族の人口は約700万人であり、ヒリガイノン語を話し、パナイ、西ネグロス、南ミンドロなどの各島に居住している。3番目にはワライ族であり、人口は約310万人。ワライワライ語を使用し、サマール、東レイテ、ビリランの各島に居住し、おもな生業は水田耕作による水稲栽培であるが、一部は漁労や商業にも従事している。主食は米、魚、野菜、果物である。双系親族、儀礼的親族を有する。かつてはラオンと呼ぶ至上神を信仰し、アニミズム信仰も盛んであったが、現在はほとんどキリスト教に改宗している。他にも多数の中小部族が存在している。そのため、マニラ中心の中央政府と協調関係を取りながらも、独自の文化、習慣、言語、民族性を保持している州政府が多い。
モロ族[編集]
ミンダナオ島などの南部にはイスラム教徒のモロ族(バジャウ族・ヤカン人・タウスグ人・サマル人など)が存在する。
華人[編集]
フィリピン華人の大部分は中国福建省南部の出身である。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫である。現在でも中国語を話し、中国の習慣になれている者は60万人から80万人程度と推定される。
メスティーソ[編集]
過去数百年で中国系(華人)やスペイン人(サンボアンゲーニョ)との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。混血者はラテンアメリカと同様にメスティーソと呼ばれる。外国へ出稼ぎに行く国民が10人に1人はいる出稼ぎ国家で、外国で働く労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人・アメリカ人とフィリピン人のハーフが多い。
少数民族[編集]
山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオなどがいる。フィリピン各地の山岳地帯や南部のミンダナオ島、スールー諸島、パラワン島の住民は中北部の低地住民とは文化や生活様式を異にしてきた人々を少数民族という。これらの人々は全人口の10%前後であるといわれている。南部に住むムスリム(モロ族)と各地の山岳地帯に住む住民の二つに分けられる。アメリカは、少数民族を「非キリスト教徒部族民」と名付け、後進的な野蛮人と見なした(モロの反乱 )。これらの少数民族からも国会議員や地方議員が出ているが、彼らは地域の「ボス」であることが多く、少数民族の利害や権利は政治に反映されなかった。差別の原因を宗教の違いにされたり、無知からくる偏見にさらされた。
人口[編集]
2005年の人口は、87,857,473人。国連等の推計では、2020年には1億人を超え、2030年には1億1千万人、2040年には1億2千万人、2050年には1億2千7百万人になるとされる。
言語[編集]
国語はフィリピン語 (Filipino)、公用語はフィリピン語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族に分類されるが、アウストロネシア語族の言語間にもほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語にはスペイン植民地の歴史を反映してスペイン語(フィリピンのスペイン語)やチャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)、中国語(北京語や福建語)、イスラム教徒の間で使われるアラビア語がある。
フィリピン語 (Filipino) は、1987年に成立した憲法において初めて国語を言い表すのに正式に採用された新言語である。実質的にはメトロマニラを中心として話されている地方語のひとつであるタガログ語 (Tagalog) を基にして採用された言語である。 そもそもフィリピン国内では、ルソン島やミンダナオ島、セブ島を含む7100以上の島々からなる地域において、タガログ語をはじめ、セブアノ語(ビサヤ語)、イロカロ語、ビゴール語、など8大言語を含む100近い言語集団があると言われている。
アメリカの植民地であったこともあり英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に務めてきた。1934年のタイディングス・マクダフィ法を受けて、同年に開かれた憲法制定委員会で、公用語や国語の問題が話し合われ大論争となった。最終は、固有の一言語を基礎として国語の確立をすることで収まった。これを受けて、1937年、ケソン大統領がタガログ語を国語の基礎として選択するという宣言を行った。
現行のフィリピン1987年憲法は、フィリピン語を国語と定めるとともに、「フィリピンの公用語はフィリピン語と、法律による別の定めがあるまでは英語である。」と規定し、将来はフィリピン語だけを唯一の公用語とすることを宣言した。これに伴い公教育においても、教授言語のフィリピン語への移行がすすめられ、フィリピン人の英語力は低下傾向にある。
人名[編集]
フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。
婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓をミドルネームとして相手の姓を用いるか、相手の姓のみを用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続ける(夫婦別姓)ことも可能、との判断を下した。
宗教[編集]
フィリピンは東ティモールを除けば東南アジア唯一のキリスト教国である。キリスト教はスペイン植民地時代に広まった。スペインが16世紀に伝えたものは、ローマ・カトリックであった。そのため、今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者である。キリスト教徒は、フィリピンの全人口の90%以上を占める。2000年のセンサスでは、カトリックが82.9%(ローマ・カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、エヴァンジェリカルが2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占める。
2000年のセンサスでのキリスト教の他の宗教は、スペイン人到来以前にもたらされたイスラームが南部を中心に5%、その他が1.8%、不明が0.6%、無宗教が0.1%である。イスラム教やキリスト教が入ってくる以前は、各島の自然の精霊などを信じる原始的な宗教(フィリピン神話)があった。(フィリピンの神話上の生き物も参照されたい)。
教育[編集]
2008年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%(男性:95%、女性:95.8%)である。2009年の教育支出はGDPの2.9%だった。
教育政策として高等教育を重視しているのが特徴である。これはスペイン植民地時代から引き継いでいる。高等教育の就学率は27.4%(1995年)で、アジアの中でも高い方であり、高等教育機関は、国公立・私立合わせて1489(2003年)もの大学が存在する。その中でも聖トマス大学は、アジアでも最古で、1645年の創設であり、在フィリピンのスペイン人に聖職者教育を施すことを目的とした。1908年に設置されたフィリピン国立大学は、アメリカ統治時代のもので、英語でアメリカ式の教育を行い、現地調達の行政官や大学教員を育てることが目的であった[4]。
文化[編集]
食文化[編集]
フィリピンは国際捕鯨委員会 (IWC) を脱退しており、現在でも食用に捕鯨を行っている。
文学[編集]
フィリピンの初の近代小説はペドロ・パルテノによる『ニノイ』(1885年)によって幕を開き、そのすぐ後にスペイン語で書いた二作の小説、『ノリ・メ・タンヘレ』(1886年)と『エル・フィリブステリスモ』(1891年)でスペインによるフィリピン植民地支配を告発したホセ・リサールが現れた[5]。米比戦争によって20世紀初頭にアメリカ合衆国に併合された後、公教育を通じて英語が教えられると、1925年頃から英語による作品が書かれるようになり、また、1939年にフィリピン作家連盟が結成されている。他方、20世紀前半の現地語による文学は大衆娯楽小説が主であり、第二次世界大戦中の日本占領期にタガログ語創作が奨励されたものの、第二次世界大戦終結後は再び英語が文学語として重視されるようになった。
20世紀後半の文学は英語、タガログ語、その他のフィリピン地方言語などの様々な現地語で書かれた。著名な作家としては、『二つのへそを持つ女』(1961年)でフィリピン人のアイデンティを題材にしたニック・ホワキンや、英語で『ロザレス物語』、『エルミタ』などを著しフィリピン近現代史を題材にしたF・シオニル・ホセ、タガログ語で『マニラ 光る爪』(1968年)を書いたエドガルド・レイエスらの名が挙げられる。
スポーツ[編集]
フィリピン武術(エスクリマまたはカリ、アーニスと呼ばれる)がフィリピンの国技である。他にも地方や種族によって様々な武術がある。フィリピンの武術は実戦的であるとして評価が高く、各国の軍人や警察官にも愛好者が多い。
スポーツでは、バスケットボール、ボクシング、ビリヤード、バドミントンなどが人気を集めている。特にバスケットボールはアジアで初めてのプロリーグでありNBAに次ぐ歴史を持つフィリピンプロバスケットボールリーグ (PBA) を立ち上げ、国民的人気を誇る。また、世界選手権でのフィリピン代表は1954年にアジア最高位の3位の記録がある。
ボクシングやビリヤードは世界チャンピオンを多く輩出している。「アジアの怪物」と呼ばれているボクサーマニー・パッキャオや、ビリヤードのエフレン・レイズなどはその世界では伝説的である。パッキャオの世界的活躍は彼を祖国の英雄へと押し上げ、後に続くフィリピン人ボクサーの米国での成功や世界的評価の急上昇という好循環を齎している。
その他、チアリーディング、バドミントン、バレーボール、ソフトボール、ゴルフ、テニスなども人気がある。空手、テコンドーなども行われており、ボクシングを含めて格闘技が盛んである。気候的理由から、屋外スポーツはあまり人気がない。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Araw ng Bagong Taon | |
1月1日 (旧暦)(旧暦) | 旧正月 | Araw ng Bagong Taon ng mga Tsino | |
2月25日 | エドゥサ革命記念日 | Araw ng EDSA Revolution | コラソン・アキノが大統領に就任した日 |
復活祭直前の木曜日 | 聖木曜日 | Huwebes Santo | |
復活祭直前の金曜日 | 聖金曜日 | Biyernes Santo | |
4月第三日曜日 | 復活祭 | Linggo ng Pagkabuhay | |
4月9日 | バターンの日 | Araw ng Kagitingan | バターン死の行進の日 |
5月1日 | メーデー | Araw ng Manggagawa | |
6月12日 | 独立記念日 | Araw ng Kalayaan | 革命軍の最高指導者アギナルド将軍が独立を宣言した日 |
8月21日 | ニノイ・アキノの日 | Araw ni Ninoy Aquino | ニノイ・アキノが暗殺された日 |
8月最終日曜日 | 英雄の日 | Araw ng mga Bayani | |
11月1日 | 万聖節 | Todos los Santos/Undas | |
ヒジュラ暦9月の最終日 | ラマダーンの末 | End of Ramadan | |
11月30日 | ボニファシオの日 | Araw ni Andres Bonifacio | アンドレ・ボニファシオの誕生日 |
12月25日 | クリスマス | Araw ng Pasko/Notsebuwena | |
12月30日 | リサールの日 | Araw ni Jose Rizal | ホセ・リサールが処刑された日 |
12月31日 | 大晦日 | Medyanotse |
脚注[編集]
- ↑ 「イスラス・フィリピナス」(フェリペの島々)清水展「フィリピン人」/ 大野拓司・寺田勇文編著『現代フィリピンを知るための60章』明石書店 2001年 18ページ
- ↑ 中国系の血をひき、マニラ南西の町長だった。(レイナルド・C・イレート/寺田勇文訳「フィリピン革命」/ 大野拓司・寺田勇文編著『現代フィリピンを知るための60章』明石書店 2001年 34ページ)
- ↑ この節は川中豪「地方政治」/ 大野拓司・寺田勇文編著『現代フィリピンを知るための60章』明石書店 2001年 161-166ページを参照した。
- ↑ 津田守「教育」/ 大野拓司・寺田勇文編著『現代フィリピンを知るための60章』明石書店 2001年 66ページ
- ↑ 寺見元恵『激動の文学――アジア・アフリカ・ラテンアメリカの世界』 信濃毎日新聞社、信濃毎日新聞社、長野市、1995年3月15日、初版、56-57頁。
参考文献[編集]
歴史[編集]
- 鈴木静夫『物語フィリピンの歴史-盗まれた楽園と抵抗の500年』中央公論社
- 大野拓司『現代フィリピンを知るための60章』明石書店
- 早瀬晋三『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』法政大学出版局
- 早瀬晋三『海域イスラーム社会の歴史-ミンダナオ・エスノヒストリー』岩波書店
- 関恒樹『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』世界思想社
政治[編集]
- 野村進『フィリピン新人民軍従軍記-ナショナリズムとテロリズム』講談社
- 作本直行『アジアの民主化過程と法-フィリピン・タイ・インドネシアの比較』日本貿易振興会アジア経済研究所
- 五十嵐誠一『フィリピンの民主化と市民社会-移行・定着・発展の政治力学』成文堂
- 五十嵐誠一『民主化と市民社会の新地平-フィリピン政治のダイナミズム』早稲田大学出版部
経済[編集]
- 貝沼恵美など『変動するフィリピン-経済開発と国土空間形成』二宮書店
- 小野行雄『NGO主義でいこう-インド・フィリピン・インドネシアで開発を考える』藤原書店
環境[編集]
- 津田守『自然災害と国際協力-フィリピン・ピナトゥボ大噴火と日本』新評論
国際紛争[編集]
- アンドリュー・ボイド『世界紛争地図』創元社
- ダン・スミス『世界紛争軍事地図』ゆまに書房
- 松井茂『世界紛争地図』新潮社
- フランソワ・ジェレ『地図で読む現代戦争事典』河出書房新社
- 日本経済新聞社『ベーシック-世界の紛争地図』日本経済新聞社
- 古藤晃『世界の紛争ハンドブック』研究社
- 毎日新聞社外信部『世界の紛争がよくわかる本』東京書籍
関連項目[編集]
- フィリピン関係記事の一覧
- フィリピンのスペイン語(en:Spanish language in the Philippines)
- ラテンアジア(pt:Ásia Latina)
- 在日フィリピン人
- 日系フィリピン人
外部リンク[編集]
- 政府
- フィリピン共和国政府 (英語)
- フィリピン大統領府 (英語)
- フィリピン大使館 (英語)(日本語)
- 日本政府
- 日本国外務省 - フィリピン (日本語)
- 在フィリピン日本国大使館 (日本語)
- 航空会社
- 観光
- フィリピン政府観光省 (日本語)
- その他