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'''森 喜朗'''(もり よしろう、{{和暦|1937}}[[7月14日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]]。
 
'''森 喜朗'''(もり よしろう、{{和暦|1937}}[[7月14日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]]。
  

2020年1月8日 (水) 04:10時点における版

[[Image:Yoshiro mori 2.jpg|300px|thumb|森喜朗]] '''森 喜朗'''(もり よしろう、{{和暦|1937}}[[7月14日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]]。 [[文部大臣]]、[[通商産業大臣]]、[[建設大臣]]、[[自由民主党総裁]]、[[内閣総理大臣]]([[第1次森内閣|第85代]]・[[第2次森内閣|第86代]])などを歴任した。 == 経歴 == === 政界入りまで === [[Image:Vladimir Putin 25 March 2001-10.jpg|thumb|150px|[[2001年]][[3月25日]]、父の墓参りに訪れた森。]] [[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現在の[[能美市]])に、根上[[町長]]を務めた[[森茂喜]]の長男として生まれる。[[石川県立金沢二水高等学校]]時代は[[ラグビー]]部の[[キャプテン]]を務める。北陸三県大会で準優勝の成績を残した(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)。その活躍から父の知人であった当時のラグビー部監督の[[スポーツ推薦]]を受けて[[早稲田大学]]第二商学部(夜間学部)入学。[[早稲田大学ラグビー部]]に入部するも[[胃カタル]]のため4ヶ月で退部した。その後[[早稲田大学雄弁会]]に入り、政治家を志すようになる。[[1960年]]卒業、[[水野成夫]]の手引きで[[産業経済新聞社]]に半ば押しかけの形で入社(初めは[[日本工業新聞]]に勤務し、のちに移籍)。 === 議員初当選 === [[岸信介]]側近の衆議院議員・[[今松治郎]]の秘書を務めた後、[[1969年]]に[[第32回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[石川県第1区 (中選挙区)|旧石川1区]]から立候補。この選挙は10人が乱立する混戦模様で(自民党3、[[日本社会党|社会党]]1、[[公明党]]1、[[民社党]]1、[[日本共産党|共産党]]1、保守系無所属1、革新系無所属1、その他無所属1)、森は[[泡沫候補]]と見られていた([[田中角栄]][[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]は森を「泡沫候補」と呼んで公認を与えなかった)。 自民党の公認は既に満杯だった。自民前職2人([[坂田英一]]と[[井村重雄]])が健康上の理由で出馬を断念したが、[[別川悠紀夫]]と[[奥田敬和]]が新たに公認を受け、森は公認を得られなかったため、保守系無所属で出馬することになった。 出馬に際しては岸信介による応援を岸の秘書[[中村長芳]]を通じて懇願し、岸は森の要望を快諾した。[[安保闘争#60年安保|60年安保闘争]](森は「安保騒動」と呼ぶ)による悪影響を懸念する声もあったが、岸の応援で森陣営は勢いづいた。森は選挙運動中に、近隣の家の火災に遭遇し、決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。この行動と岸の応援で地元での人気が上昇し、トップ当選した。森は岸に対し終生恩義を忘れない姿勢を示している。 森の当選後、田中自民党幹事長は森を党本部に呼び、金を渡そうとした。森が反発すると、[[二階堂進]]が「([[追加公認]]の)公認料および貸付金」と説明して、森に金を受け取らせた。森は田中の態度を見て、「この人とは絶対に席を同じにはできない」と思ったという。帰途[[福田赳夫]]邸に寄り、内心資金援助を期待したものの、空振りに終わった。 この選挙では同じ選挙区で奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「[[森奥戦争]]」と呼ばれるようになる。石川1区では森の追加公認も併せて自民党が議席を独占したが、唯一の前職、[[桂木鉄夫]]は落選した。 ===自民党での地歩=== 当選後は岸の勧めに従い福田派([[清和研]]の前身の紀尾井会)に入会。[[福田赳夫内閣改造内閣]]では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、[[1983年]][[第2次中曽根内閣]]では[[文部大臣]]として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし[[1988年]]の[[リクルート事件]]で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。 福田派を継いだ安倍派では[[三塚博]]、[[塩川正十郎]]、[[加藤六月]]と並んで[[安倍派四天王]]の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。しかし安倍にリクルートの[[江副浩正]]を紹介したのは森といわれており(森自身は否定)、晩年の安倍は森と距離を置いていた。[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]後、[[第2次海部内閣]]の組閣人事で、[[海部俊樹]]首相は「リクルート関係議員は入閣させない」と公言しているにもかかわらず、安倍は森を入閣候補として推薦した。しかし、安倍は本気で森を推したのではなく、むしろ森を晒し者にしようとしたのではないかと[[薬師寺克行]]は指摘している<ref>『森喜朗 自民党と政権交代』 p295</ref>。:結果、森は入閣辞退を余儀なくされた。 安倍死去後の[[三六戦争]](三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、[[通商産業大臣]]、党[[幹事長]]、[[建設大臣]]、党総務会長と重要役職を次々と歴任。 [[1993年]]に自民党が野党に転落すると、自民党は[[河野洋平]]を総裁に選んだ。[[亀井静香]]と森らは与党復帰を目指し、連立政権に加わった[[日本社会党|社会党]]議員と交渉。 [[1994年]]に非自民の[[細川内閣]]が成立を目指した、衆議院の[[小選挙区比例代表並立制]]導入を柱とする、[[政治改革四法|政治改革関連4法案]]が、社会党の一部などの造反により否決された。[[細川護熙]]首相は、河野総裁とのトップ会談で妥協を図ろうとした。細川には小沢一郎が、河野には森が同席した。細川内閣案は[[比例代表制|比例区]]は全国1区、自民党案は47都道府県に分けていた。森は、妥協案として全国11ブロックにすることを提案し、小沢の同意を得た。森は、ブロック制にしたのは共産党対策としている。[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙]]では、もし全国1区ならば共産党は実際に獲得した26議席に加え、少なくともあと5~6、多くて7~8議席とっていたと森は述べている<ref>『森喜朗 自民党と政権交代』 pp.154-155。比例代表制は、定数が少なくなるほど1議席に必要な得票率が上がるため、比例代表の要素が弱まり、小政党が不利になる。実際には1996年総選挙における共産党は第四党だったので、全国1区なら共産党が得たはずの議席を、第一~第三党である自民党、[[新進党]]、[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]が奪うことができたという意味になる。</ref>。 その一方で、森、亀井、[[白川勝彦]]らは社会党の[[村山富市]]委員長や、[[野坂浩賢]]など、社会党で連立に不満を持つ議員への接触を試みていた。自民党内にも、[[YKK (政治同盟)|YKK]]([[山崎拓]]、[[加藤紘一]]、[[小泉純一郎]])の了解を取るなどの根回しを行ったが、[[中曽根康弘|中曾根康弘]]らには最後まで知らせなかった。[[6月28日]]、森は社会党の[[久保亘]][[書記長]](彼は連立残留派だった)と会談し、自民党は村山首班で行くと持ち出した。久保は「今の話は絶対に外に漏らさないで下さい」と言い、森は「<u>私は</u>漏らしません」と答えたが、「私」ではない[[小里貞利]]にそれとなく言うように仕向け、自民党の村山首班構想が明らかになった。[[6月29日]]、小沢は自民党から海部を首班候補として引き抜き、首班指名は村山と海部の争いになったが、決選投票の結果村山261、海部214で村山が指名された。こうして[[村山内閣]]が成立し、社会党、[[新党さきがけ]]との3党連立として、自民党は与党復帰を果たした。 [[1998年]]には三塚に派閥の継承許可を求め、「[[清和政策研究会|森派]]」とした。 === 首相時代 === {{日本の内閣総理大臣|[[第1次森内閣|85]]・[[第2次森内閣|86]] |森 喜朗<br/>(もり よしろう) |[[1937年]]([[昭和]]12年)[[7月14日]] |[[石川県]][[能美郡]][[根上町]]<br/>(現・[[能美市]]) |[[早稲田大学]]第二[[商学部]](夜間学部) |商学士 |[[建設大臣]]<br/>[[自由民主党幹事長]]<br/>[[自由民主党総裁]] |世襲ではない |[[2000年]][[4月5日]]|[[2001年]][[4月26日]] |衆院[[石川県第2区|石川2区]] |衆13回 |[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|}} [[Image:Mori and bush.jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]と会談する[[内閣総理大臣]]森喜朗([[2001年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ホワイトハウス]]にて)]] ==== 就任の経緯 ==== [[2000年]]4月5日、3日前に[[脳梗塞]]で倒れ緊急入院した[[小渕恵三]]首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。清和会議員の総理総裁就任は福田赳夫以来22年ぶりであった。このときの連立与党は[[自由民主党 (日本)|自民党]]、[[公明党]]、[[保守新党|保守党]]であり、メディア等では「自公保」と略称した。 森の首相就任は、当時の自民党の有力議員[[五人組 (自由民主党 2000年)|五人組]](森喜朗本人、[[青木幹雄]]、[[村上正邦]]、[[野中広務]]、[[亀井静香]])が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。村上から「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。五人組の1人である村上は後に[[週刊新潮]]に発表した手記で「きちんと党内の手続きを踏んで自民党[[両院議員総会]]にかけて総裁を選出したので密室で決めていない」と反論している。なお、この時に[[自由民主党総裁選挙]]が行なわれなかったのは事実である。 ==== 資質問題 ==== *[[2000年]][[5月15日]]、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言し、大きな波紋を呼ぶ([[神の国発言]])。[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]はこれに対し「日本は神の国? いいえ、民の国です」と批判する[[テレビコマーシャル|CM]]を打った。6月の「無党派層は寝ていてくれればいい」<ref>「自民党に投票してくれないだろうから、投票日には寝ていてくれればいいのだが、そうもいかないしな」と述べたのだが、「寝ていてくれればいい」と言う部分だけが誇張されて報道された(『ニュース解説室へようこそ!2008年版』 清水書院 ISBN:978-4-389-21462-3)</ref>発言や、10月に[[イギリス]]・[[トニー・ブレア|ブレア]]首相との会談における「北朝鮮による日本人拉致被害者を第三国で行方不明者として発見する案の暴露」など数々の発言で、「首相としての資質に欠ける」との批判が各層から噴出した。 *就任早々、あいさつまわりに訪れた[[橋本龍太郎]]元首相の事務所で、「[[首相動静]]」について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」と発言。マスコミの抗議に意固地となる森を、国民との対話を軽視する性格であると、早くもマスコミは警戒感を抱いていた。 *歴代内閣総理大臣の中で、森ほどマスコミが発言に対する批判を集中した例はなく、ついには総理の資質に欠けるとまでされた。[[総理大臣官邸]]での公式記者会見時、総理番記者が森に対し「今問われているのは総理の資質だと思うのですが?」という異例の質問をしたこともあった。 ==== 官房長官の交代 ==== [[2000年]][[10月27日]]、[[内閣官房長官]]の[[中川秀直]]が愛人問題や右翼幹部との交際、警察情報漏洩などのスキャンダルで辞任。後任には当時森派の派閥会長だった[[小泉純一郎]]から推された[[福田康夫]]が就任した。閣僚経験皆無での起用には疑問の声もあったが、森が頻繁にマスコミの批判を浴び、その度に福田が火消しに回る、という構図ができあがるにつれ、その執務能力の高さが明らかになった。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長となった。 ==== 加藤の乱 ==== {{Main|加藤の乱}} [[2000年]][[11月21日]]、[[衆議院]][[本会議]]において森[[内閣不信任決議案]]が野党から提出された。当時[[宏池会]]会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた[[加藤紘一]]は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、[[YKK (政治同盟)|YKK]]の盟友、[[山崎拓]]とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した。宏池会で加藤に従った者は一部にとどまり、森首相退任には至らなかった。 ==== えひめ丸事件 ==== {{see also|えひめ丸事件}} [[2001年]][[2月10日]]、[[ハワイ]]沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「[[えひめ丸事件]]」が発生した。森は第一報が入ったとき[[ゴルフ場]]におり、連絡はSPの携帯電話を通じて入った。衝突により日本人が多数海に投げ込まれたことや、相手がアメリカ軍であることも判明していたが、森は第二報のあとの第三報が入るまで1時間半の間プレーを続け、これが[[危機管理]]意識上問題とされた。国会でも採り上げられ、詳細が議事録に残っている。 午前10時50分に第一報を受けたあと午後0時20分の第三報まで、3ホールを回ったとのことである。ただし、1時間半あれば、倍の6ホールは回れるはずなので、具体的に何をどうしていたのかは不明である。森の主張によると、えひめ丸事件の一報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場で待機していたとのことである。連絡は携帯電話を通して伝えられた。当時の通信事情を考慮するとゴルフ場を離れると通信可能圏外になり、迅速な対応が取れなかった可能性が高い。この事件の報道で森のゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した(ただし、この映像は当日とは別の日に撮影されたものである)。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。 事故を起こしたアメリカ側は[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が「事故の責任は全てアメリカにある」と謝罪。マスコミはこれを異例の素早い対応と評価、日本の事後処理の印象を一層悪いものとした。 {{要出典範囲|[[佐々淳行]]は、この時の森の対応に関して「危機管理には総理が陣頭指揮すべき国家危機管理と、各省庁が国家行政組織法の定めに従い初動措置を為すべき『インジデント・マネジメント(事件処理)』と『アクシデント・マネジメント(事故処理)』とがある。えひめ丸事故は大きな国際的事故ではあるが、総理が初動措置を寸刻争って陣頭指揮すべき国家危機管理問題では無い。国交省外局の海上保安庁・防衛庁(現防衛省)・外務省が第一次的対処をすべきである<海難事故>であり、森総理が批判されるべき事では無い。森総理は早く戻ってきた方で、私の経験からすればもっと狼狽した総理はたくさんおられる」と危機管理の責任上の面から森を擁護している。|2009年10月13日 (火) 12:30 (UTC)}} ==== 支持率 ==== 上記のいきさつにより任期を通して[[内閣支持率]]は低く、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「[[蜃気楼]]内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と呼ぶ事もあった。また、民主党の[[鳩山由紀夫]]からは「(支持率が)[[消費税]](5%)並みになった」と揶揄された。政権末期には一部新聞が一面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる([[新聞辞令]])。[[2001年]][[4月26日]]、就任からちょうど1年で首相を退任した。後継総理総裁は自派閥出身の[[小泉純一郎]]になった。発足当初の小泉内閣の支持率は80%を超える史上最高記録を樹立したが、その背景には先代の森内閣の不人気ぶりの反動があったとする見方もある。 ==== 首相在任中の活動 ==== *[[2000年]][[10月30日]]、同年[[8月]]に[[シドニーオリンピック]]女子[[マラソン]]で優勝した[[高橋尚子]]に、日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功として[[国民栄誉賞]]を与えた。 *[[アフリカ]]諸国や[[南アジア]]諸国に対し積極的な外交交渉を行い、[[国際連合]]内での発言力向上に貢献した。 *[[IT革命とその周辺|IT革命]]を謳い[[インターネット博覧会]](インパク)の開催などの振興策を推進した。 *[[2001年]][[4月]]、[[李登輝]]の訪日ビザ発給要請に対し、“一つの中国”論との齟齬を懸念した[[河野洋平]][[外務大臣]]が「発給を認めるなら辞任する」と激しく抵抗し、[[福田康夫]]内閣官房長官も強く反対したが、森は「李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない」と判断し、李の訪日が実現した。 *[[ビル・クリントン|クリントン]]政権時の[[2000年]][[10月]]、[[マデレーン・オルブライト|オルブライト]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]](当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている。 *教育改革を掲げたが[[奉仕活動]]を義務化させる方針を盛り込む等物議を醸した。森の諮問機関である[[教育改革国民会議]]の議長であった[[三浦朱門]]の言動も度々物議を醸した。森自身が私学と太いパイプを持つ文教族の大ボス的存在であり[[義務教育]]廃止論者でもあることから様様な議論を呼んだ。 === 首相退陣後の動向 === 森の首相退陣後、政権は小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫へと受け継がれ清和会から四代続けて総理総裁が誕生。小泉政権時代に清和会は平成研(橋本派)を抜いて最大派閥となり、森は事実上の清和会オーナーとして隠然たる求心力を保ち続けた。 ==== 小泉政権 ==== 「変人宰相」と言われた小泉にとって森は貴重な兄貴分的存在だった。小泉が内閣改造に際して各派閥の意向を無視した一本釣り人事を行うと党内から不満が噴出し森も小泉の手法を批判したが、小泉の閣僚人事は総体的に森派からの起用が多く、森の小泉批判は党内各派のガス抜きを狙ったパフォーマンスと見る向きもある。 大学時代に売春等取締条例([[売春防止法]]の前身)による[[検挙]]歴があると報道されたことに対して、森は「事実無根」であるとし、『[[噂の真相]]』を民事提訴した。しかし、『噂の真相』側が、[[警視庁]]に犯罪歴を照会し逮捕歴の有無を確認するよう提案したところ、森側が「犯罪歴は[[個人情報]]なので照会すべきでない」と主張した。その為、逮捕歴の事実の有無が確認されなかった(訴訟そのものでは勝訴している)。 [[2002年]][[7月]]、首相就任直前に、[[前立腺がん]]の疑いがあると診断されていたことを明らかにし、手術した。当時、首相として手術はできず、発表もできない状況下、[[放射線治療]]で抑えていたという。 [[2004年]][[10月]]から、自民党新憲法起草委員会の委員長を務めている。 ==== 郵政解散 ==== {{main2|詳細は[[郵政国会]]・[[郵政解散]]を}} 2005年8月、自民党内は小泉首相が成立を目指す郵政民営化法案の採決を巡って分裂していた。同法案は衆議院では辛うじて可決されたものの、参議院では自民党内の反対派の動き次第で、法案が否決される可能性があった。会期中の成立を絶対とする小泉は、参議院で否決された場合は衆議院を解散し、総選挙では造反議員を推薦しないとしていたため、自民党内では小泉の手法に対して賛否が真っ二つに分かれていた。 小泉の後見人を自認する森は、[[8月2日]]に「参議院で否決された場合に衆議院を解散するなら派閥会長を辞める」と発言した。[[8月6日]]には[[内閣総理大臣]]公邸へ赴いて小泉と会談し、法案が否決されても衆議院を解散しないよう説得を試みた。森は「元々反対の人までが努力して協力している。その人たちを苦しめて何の意味があるんだ」と情を説いたが、説得は失敗に終わった。この会談のあと、森は報道陣の前に缶ビールと[[ミモレット]]を手にして会見し、「夕食時だから[[寿司]]でも取るのかと思ったら、出されたのが缶ビールと[[スモークサーモン]]、干からびたチーズ一切れだけだった」とぼやき(実際には高級品である)、このような対応に小泉のことを「変人以上」(狂人)と評するなど怒りを隠さなかった(この行動は、小泉の決心が固いと言うことを示すパフォーマンスだったと選挙後に明かしている)。これにより、[[加藤紘一]]元[[自民党幹事長]]ら一部から郵政解散は「干からびたチーズ解散」とも呼ばれた。小泉は後日「今度ミモレットの出るおいしいフレンチレストランにご招待したい」というコメントを出した。 [[8月8日]]の採決で、自民党からは21人の造反議員が出て法案は否決され、この結果を受けて小泉首相は衆議院の解散を決定した。同日夜、衆議院解散が決まった直後、森は派閥会長辞任発言を撤回した。 森は、派閥会長辞任発言について、「法案が否決されれば解散もある」との意味をこめた造反組への最後警告の芝居だった、と説明したという。<!--たしかに一部では、小泉との一連のやり取りは劇場型政治を煽るための出来レースだったのでは、との声もある。←有効なソースを提示してください-->元自民党議員の政治評論家[[浜田幸一]]は、「[[派閥]]会長にもっともふさわしくない人間がまたも会長に就いてしまった」と酷評した。 ==== 安倍、福田、麻生政権 ==== [[Image:Russel Mori 2007.jpg|thumb|250px|2007年10月、アメリカの大阪[[領事]][[ダニエル・R・ラッセル]]とパーティーで談笑する森。]] [[2006年]][[1月19日]]、森は自ら会長を務める森派の総会で発言し、ポスト小泉総裁候補について安倍晋三支持を公言している同派の参議院議員[[山本一太]]を批判し、特定の人物を支持する発言を慎むよう注意した。今後も安倍支持の発言をやめなければ森派から退会させると言い切ったが、山本は安倍支持の言動を今後も何ら改めるつもりは無いと発言。結局何も変わらず何も起こらないままに安倍総裁(総理)が誕生した。 2005年の[[郵政民営化法案]]を巡る政局では、解散回避を賭けて派閥会長辞任を口にしたが、実際に解散が決まると辞任発言を撤回した。なお、意中の後継会長候補には福田が有力とされたが、[[2006年]][[10月18日]]、会長職を[[町村信孝]]へ譲った(“町村派”と変わる)。退任会見で「小泉政権が終わり、私が派閥会長である役割も終わった」と語った。10月26日の町村派の総会で、同派名誉会長に就任した。 [[産経新聞]]2006年[[10月31日]]付け紙面で、「[[知事]]は必ず[[全日本自治団体労働組合|自治労]]と[[日本教職員組合|日教組]]と妥協するんです。それで次の選挙で応援させる。(中略)だから日教組、自治労を壊滅できるかどうかということが[[第21回参議院議員通常選挙|次の参院選]]の争点だろうね」と発言した([http://unkotamezo.exblog.jp/4851171/ 『森元首相に聞く 参院選争点は「日教組壊滅できるか」』]紙面の全文写し)。 [[2007年]][[10月4日]]、清和政策研究会最高顧問に就任([[清和政策研究会#森・小泉政権と自民党内最大派閥への躍進|清和政策研究会]]も参照)。 同年、自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道された。 {{main|大連立構想 (日本 2007)}} ==== 自民党下野、鳩山政権 ==== [[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]では民主党新人の[[田中美絵子]]を前に苦戦が報じられ、注目区として取り上げるマスコミに苛立ちを見せた。マスコミに報じられることによる、相乗効果を恐れたからである。[[8月8日]]には、朝日新聞記者をめがけてペットボトルのお茶をぶちまけた。さらに選挙ビラでは、「[[労働者派遣事業|非正規]]社員や労働組合の事務員、[[キャバクラ]]嬢<ref>[[太田和美_(政治家)|太田和美]]のこと。</ref>に至るまで、あまりにも国政をまかすには如何かと思われる」と民主党の候補者を非難した。選挙の結果、森は約4000票差で勝利し小選挙区の議席を維持したが、投票日は地元以外のマスコミを選挙事務所から閉め出した。 [[2009年自由民主党総裁選挙]]では有力候補と見られながら出馬しなかった舛添要一と事前に会談していたとか、早い段階から谷垣禎一の待望論を語っていたなど下野後の自民党においても求心力を維持しているような報道がされている。この総裁選の立候補者の[[河野太郎]]からは「悪しき体質」として名指しで批判された。河野は総裁選で敗れたものの、世間からは喝采を浴びた。 == 発言 == [[マスコミ]]により多くの発言が問題(失言)として報道され、首相時代には失言(「こりゃ失言失言」)が流行語となるほどであった。{{要出典}} *[[1988年]][[4月3日]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[全国組織委員長]]時代、[[京都市]]でのパーティーで「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言。 *[[1995年]][[5月10日]]、自民党幹事長時代、「村山首相は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、[[総理大臣公邸]]での[[内閣総理大臣]][[村山富市]]との会話を漏洩した。この発言に飛びついた[[読売新聞社]]が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。これにより、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受ける。それにともない、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。 *[[2000年]][[1月13日]]、福井県敦賀市で行われた講演において「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」と発言。[[2001年]]の[[国際連合|国連]]エイズ総会への派遣を批判される原因となる。 *2000年[[5月2日]]、[[イタリア]]を訪れた際に当時[[ローマ]]で活躍していた[[サッカー]]の[[中田英寿]]らを招いて会食。「[[サッカー日本代表|日本代表]]は、アウェーで[[大韓民国|韓国]]に勝ったことがないんだよ」と発言したが、すぐに中田から「え? ありますよ!」と強く訂正される。中田は森と2人での写真撮影を拒否したという。 *2000年[[5月14日]]、[[日本放送協会|NHK]]「[[日曜討論]]」において、当時存命中であり文教族の先輩として自らも指導を受けた[[坂田道太]]元衆議院議長について「亡くなられた坂田さん」と発言し、物故者扱いにして物議をかもした。<ref>また、2008年にはニコニコ動画の森喜朗チャンネルにおいて坂田道太のことを[[坂田英一]]と言っている。これは同じ時期に自民党の衆議院議員であった元[[農林大臣]]の坂田英一と混同している。</ref> *2000年[[5月15日]]、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会で演説し、「日本の国、まさに[[天皇]]を中心としている[[神国|神の国]]であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言([[神の国発言]])。NHKなどが大々的に報道して大きな波紋を呼んだ。 *2000年[[6月3日]]、自民党奈良県連合の緊急集会で「[[日本共産党|共産党]]と組むんですか、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]さん、と私は言いたいです。共産党は綱領は変えないとおっしゃっている。[[天皇制]]も認めないでしょうし、[[自衛隊]]は解散だ。[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障]]も容認しないという立場でしょうし。そういう政党とどうやって、日本の安全を、日本の[[国体]]を守ることができるのだろうか」と発言。20日には、衆議院選挙の選挙演説で「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言。「世論調査では自民優勢だが、調査では政治に関心のある人しか回答していない。まだ(投票態度を)決めていない人が40%ぐらいいる。最後の2日間にどういう[[投票行動]]をするか。そのまま、その人たちが関心がないと言って寝ていてくれればいいが、そうもいかないでしょうね。」ということを意図した発言とのことである。 *[[2000年]][[7月]]、「[[九州・沖縄サミット]]」の開催は内閣総理大臣小渕恵三の悲願だったが、小渕政権を継承した森がホスト国の首相として主催した。ところが、出席前、および、その席上、「九州・沖縄サミット」のことを「沖縄万博」と連呼していた。 *九州・沖縄サミットの際には、森の英語力の低さと失言の多さから、次のような笑い話(ジョーク)が広まった。<br> :九州・沖縄サミットにてクリントン大統領との会談を控えた森首相は、外務省の秘書官から「まずクリントン大統領に"How are you?" と話しかけ相手の返事には"Me too!"と答える様に」と教えられていた。森はその通りにクリントンに "How are you?"(「やあ、元気かい?」)と挨拶しようとして "Who are you?"(「お前は誰だ?」) と言ってしまった。ジョークだと思ったクリントンは、 "I'm Hillary's husband."(「私はヒラリーの旦那です」)と答えたが、森はすかさず "Me too!"(「私もだ!」) と返事をした(“ハウ”と“フー”を混同し、しかも声をかけて応答があったら「ミートゥー」と言えばいい、と覚えていた)。クリントンも森のこの発言には驚いた、という話である。<br> :この話は当然ジョークだが、森の失言の多さ等から実際の話と受け取った人も多く、未だこの話を本当の話だと思い込んでいる人も居る。<br> :これは森の首相就任以前から存在していたジョークであり、実際の発言ではない<ref>[http://www.eigotown.com/culture/special/clinton/clinton_p5.shtml ビル・クリントン元大統領のすべて] 2000年8月3日の産経新聞によると、この「ジョーク」の作者は台湾の著名な有識者で、オリジナルはアジア某国の元大統領が失言の主という設定だったという。</ref>韓国では森首相同様失言で有名な[[金泳三]]大統領の逸話として1998年以前から知られている<ref>[http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=46368&thread=01r04 統一日報 ソウル事情 英語は“学歴測定の道具”にあらず]</ref><ref>[http://cgi.cnn.com/ASIANOW/time/asiabuzz/2000/03/27/ Asia Buzz: Korean Kut-Up]CNNでも報じている。</ref>。 *これから会談をしようとする外国の要人と対面直後に”See you again!”と挨拶をした。 *2000年[[10月20日]]、[[イギリス]]の[[トニー・ブレア|ブレア首相]]との会談で、当時[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が否定し続けていた[[日本人拉致問題]]について、拉致された日本人を行方不明者として第三国で発見するという解決策を北朝鮮との協議で提案していたことを漏らした。 :[[1997年]]に日本政府が北朝鮮を訪問した際の訪朝団団長だった森は、北朝鮮との交渉の場でこの解決策を提案した。この解決策を考えたのは[[外務省]]で、協議の場で発言したのは[[中山正暉]]副団長だった。メンツを重んじる北朝鮮に配慮したものだった。しかし北朝鮮からは行方不明者はいないという回答だった。 :森や中川官房長官ははじめ、この提案は中山正暉副団長の私案だと言ったが、中山から抗議を受けて後に撤回した。北朝鮮の協議の場で誰が発言したかは問題ではないのだが、中山の名を挙げて批判をかわそうとした姿勢は、さらに批判を招いた。 *2000年[[10月26日]]、[[ラグビー]]の[[オーストラリア]]代表チーム、ワラビーズの歓迎レセプションで、「日本代表は未来永劫ワールドカップを抱くことはできない」と発言。2日後同チームの試合を[[秩父宮ラグビー場]]で観戦したが、観客からは一斉に[[ブーイング]]が起こった。 *IT革命(アイティーかくめい)のことをイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくとも[[iモード]]は使える」といった迷言を残す。 *[[2003年]]、「子どもを一人も産まなかった女性が自由を謳歌して、老後は[[税金]]で面倒を見ろというのは本当はおかしい」と発言。 *[[2006年]][[3月23日]]、[[JOC]]理事会において「五輪に2度行ってメドが立たない選手は、3度は出さなくていい」と発言。 *[[2007年]][[7月9日]]、[[富山県]][[富山市]]内での自民党[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]候補者との講演会で、[[東海道新幹線]]での新駅反対を表明した[[嘉田由紀子]][[滋賀県]][[知事]]に対し、「女の方だなあ、やっぱり(視野が)狭いなあと思った」と発言。 *2007年[[7月25日]]、自民党の大幅な劣勢が報じられていた、[[第21回参議院議員通常選挙|第21回参院選]]の選挙中、[[金沢市]]で行なった[[街頭演説]]の中で「北朝鮮は安倍さんが潰れてくれる事を願っている。そんな北朝鮮の不埒なやり方に黙っていてはいけない。安倍さんを勝たせるしかない」と発言した。参院選は自民党敗退。 == 西松建設からの政治資金提供 == 準大手ゼネコンの[[西松建設]]から、同社のOBらを代表とした政治団体(『新政治問題研究会』・『未来産業研究会』)を隠れ蓑に多額の政治献金を受けていた1人だったことが2008年12月末に表面化した。森はこの疑惑に関連して西松建設関係者や小沢民主党代表の公設第1秘書が[[政治資金規正法]]違反容疑で逮捕されたあとの[[2009年]][[3月5日]]に、提供を受けていた約400万円を返却する意向を表明した。森は返却について「道義的観点からであり、(献金などの)違法性を認める趣旨ではない」と説明している。 == 党内への影響力 == 前述のとおり自身の退任後も小泉・安倍・福田が続けて総理総裁に選出され、安倍の就任直後までは派閥会長として、会長退任後も名誉会長として、影響を及ぼし続けた。福田退任後は派閥からの総裁選立候補は控えたものの、自身と緊密な関係である[[麻生太郎]]が選出されたため、党内基盤が弱い麻生に最大派閥の領袖として力を貸す代わりに、人事や政策決定にいたるまで半ば公然と干渉した。結局、自身の会長就任から10年近くにわたり、多大な影響力を持ち続けている。 == 主な所属議員連盟 == *[[日本教職員組合問題究明議員連盟]](最高顧問) *[[外国人材交流推進議員連盟]] *[[日韓議員連盟]](会長) *[[天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟]](会長) *[[北京オリンピックを支援する議員の会]](顧問) **若手時代には[[青嵐会]]に属すなど、[[台湾]]ロビーの一員とされたこともある。 *日本・[[アフリカ連合]](AU)議員連盟(会長) *[[平城遷都1300年記念事業]]推進議員連盟(会長) * [[公共放送のあり方について考える議員の会]] *2000年に[[ソウル特別市|ソウル]]で開催された[[アジア欧州会合]](ASEM)首脳会議で、[[統一協会]]も推進する[[日韓トンネル]]の共同建設を[[韓国]]側に提案した。 *2007年夏の[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]後に、[[古賀誠]]元幹事長・[[二階俊博]]国対委員長らと新たな[[日中友好議員連盟]]の結成を予定していると報じられた。2007年7月4日、[[中華人民共和国]]の[[王毅]]大使と中国大使公邸で懇談し、協力を求めた。日中国交正常化35周年に合わせて日本と中国が進める「2万人交流」プロジェクトが今秋にも達成されるのに合わせ、双方で記念式典を開催することで一致したとされる。<ref>毎日新聞 2007年7月5日 東京朝刊</ref> == 人物 == [[Image:Naikakufu1.jpg|thumb|200px|[[内閣府]]の銘板は森の[[揮毫]]を基に作成された]] *身長175cm、体重103kg、血液型O(同年代の日本人男性と比較してもかなりの大柄である。) *{{要出典範囲|父親ゆずりと言われる政治的なカンの鋭さは、少年時代から地元において数々のエピソードを残している。半ば強引に金沢市の高校へ入学しラグビーを始めたのも、早稲田大学へ入学したのも全てその後の人脈づくりのためであったということが伝説化されている}}。 *内閣官房副長官時代、時の総理である[[福田赳夫]]と並んで歩いた際SP([[セキュリティポリス]])と間違えられたことがある。 *日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮である。[[衆議院]]に[[小選挙区比例代表並立制]]が導入された際、同一[[中選挙区制|中選挙区]]に同一[[政党]]の候補者が複数いる場合、候補者を[[小選挙区]]と[[比例代表]]から交互に立候補させる方式を考案し、[[コスタリカ方式]]と命名する(ただし、[[コスタリカ]]の制度は連続再選を禁止するというもので、比例転出により連続当選を前提とする森の方式とは別物である)。 *[[文部大臣]]になったことがよほどうれしかったらしく、退任後も「文部大臣ならもう一度やってもよい」と周囲に語っていた。 *[[日本体育協会]]会長、[[日本プロスポーツ協会]]会長、[[日本トップリーグ連携機構]]会長、[[日本ドッジボール協会]]会長、[[ニューヨーク・ヤンキース]][[松井秀喜]]選手の後援会名誉会長を務めている。松井の実家と隣の集落出身で、両者とも浜小学校出身である。また1995年参院選では[[ガンバ大阪]]前監督[[釜本邦茂]]を比例区で、[[新日本プロレス]][[馳浩]]を石川選挙区で擁立し当選に導く。1996年総選挙ではプロボクシングの元WBC世界ライト級王者[[ガッツ石松]]を東京9区で擁立。 *[[1988年]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]の投手[[槙原寛己]]の結婚披露宴での祝辞で、「最近の巨人軍の結婚式というと子連ればっかりだったが、槙原君はまっとうな結婚式で、本当に良かった」というスピーチ。その数日前に[[水野雄仁]]が子連れ結婚式を行ったのに関することだったが、当の槙原は照れて、水野はばつの悪い顔をして、巨人首脳陣は「デタラメ揃いだから勝てないんだ」と言われているような気がして俯いたが、会場の雰囲気をドッと和やかにして、[[江本孟紀]]は「『幸せな家庭を』とか、通り一辺倒なスピーチが多い中で、稀代の名スピーチ」と絶賛していた{{要出典}}<ref>なお江本のコメント引用として「通り一辺倒」という表現がされているが、「通り一辺倒」という日本語はない。正しくは「通り一遍」である。</ref>。 *首相在任中の[[第42回衆議院議員総選挙]]では小選挙区([[石川県第2区|石川2区]])と比例区(北信越ブロック)と[[重複立候補]]。[[小選挙区比例代表並立制]]導入後、現職首相が重複立候補したのは今のところ森だけ。森の比例の順位は現職首相でありながら比例で優遇されることなく、他の重複立候補者と同列だった(結果は小選挙区当選)。 *自由民主党の[[自由民主党幹事長|幹事長]]、[[自由民主党総務会|総務会長]]、[[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]の党三役すべてに就任しているのは森と[[安倍晋太郎]]だけであり、[[自由民主党総裁|総裁]]も勤めた唯一の人物である。党三役については選対委員長を加えて党四役となっていた時期があるが、森は選対委員長の前身である総務局長にも就任している。 *[[2006年]][[8月27日]]、清和会所属で当時文部科学副大臣であった馳の[[プロレス]][[引退]][[試合]]を観戦したが、[[VOODOO-MURDERS]]の[["brother"YASSHI]]が「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このかす野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の治世を批判し唾を掛けるという暴挙に出た。さらに、場外乱闘に乗じて[[TARU]]が森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという前代未聞の事態が発生した。さらにこのとき、観客から「森コール」が起こったものの、森の[[セキュリティポリス|SP]]がTARUに抗議しつつ森を止めたため、史上初となる首相経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対し、森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。 *自身のサイトがリニューアル1ヶ月で100万アクセスを越えた際に地元の[[北國新聞]]で取り上げられた。事務所は「写真など定期的に更新をしているから」と述べていたが、実は[[2ちゃんねらー]]による[[祭#用語としての祭り|祭り]]の結果だったことが判明している。 *都内の[[瀬田 (世田谷区・川崎市)|瀬田]]に邸宅を構え、さらに[[六本木ヒルズ]]に住んでいた時期も有るが2007年に退去している<ref>村上正邦、平野貞夫、筆坂秀世『自民党はなぜ潰れないのか』(2007、幻冬舎新書)</ref><ref>「月刊BOSS」2008年8月号より</ref>。 <!--*裏方としての能力は高いとの下馬評もある。そのため「森さんは首相になりさえしなければ、名幹事長として名を残しただろう」と言う者も少なくない。(ソースご提示ください)--> *派閥を「心のオアシス」と呼んでいる。 *かつて「お絞り、それと中川君」が口癖であったほど中川秀直を寵愛し自身の内閣の官房長官にも登用したが、[[小泉改革]]をめぐり徐々に亀裂が生まれ、中川が[[2008年自由民主党総裁選挙|2008年の総裁選]]に[[小池百合子]]を出馬させたことで、二人の関係は完全に決裂した。 *上記のとおり、あらゆる発言が問題発言としてマスコミに取り上げられ続けたため、首相後期にはほとんどマスコミを相手にしなくなった。 == 家族 親族 == *祖父 - [[森喜平]](政治家・根上町長) *父 - [[森茂喜|茂喜]](政治家・根上町長) *長男 - [[森ゆうき]](政治家・石川県議会議員 会派は自民党) *長女の夫 - [[藤本真佐]](ふじもと しんすけ、[[1967年]][[10月16日]] - 、[[デジタルハリウッド]]代表取締役社長兼CEO) *姪の夫 - [[岡田直樹]](参議院議員) == 系譜 == *''森氏'' 森家は[[江戸時代]][[加賀藩]]で、代々村の[[肝煎]]を務めた。喜平、茂喜は[[根上町|根上]]の村長、町長を長く務めた。なお、喜平は森家に養子入りしている。 <pre> 喜平━━茂喜━━喜朗━━祐喜 </pre> == 栄典 == *キューバ文化功労章([[キューバ共和国]]) **キューバで開催された国際音楽祭「クバデイスコ2005」に対し、日本からの広範な参加・協力が得られるように尽力した功績により。 *特種大綬景星勲章([[中華民国|台湾]]) **日本における台湾人観光客への査証免除実現への協力及び台日関係の促進への貢献により。 == 略歴 == *[[1937年]][[7月14日]]:[[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現・[[能美市]])に生まれる。 *[[1956年]][[3月]]:[[石川県立金沢二水高等学校]][[卒業]]。高校時代はラグビ─部の主将として活躍。 *[[1959年]][[4月]]:[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]学生部に入党。 *[[1960年]]3月:[[早稲田大学]]第二商学部(夜間学部)卒業。 *[[1960年]]4月:[[産業経済新聞社|サンケイ新聞社]]入社。[[日本工業新聞]]記者となる。 *[[1963年]]4月:衆議院議員[[今松治郎]]の秘書になる。 *[[1969年]][[12月]]:[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[無所属]]で出馬。 *[[1975年]]12月:[[総理府]]総務副長官就任。 *[[1977年]][[11月]]:[[内閣官房副長官]]就任。 *[[1978年]]12月:党政調文教部会長就任。 *[[1981年]]12月:衆議院大蔵委員長就任。 *[[1983年]]12月:[[文部大臣]]就任。 *[[1987年]]11月:自由民主党全国組織委員長。 *[[1991年]]1月:衆議院議院運営委員長就任。 *[[1991年]]10月:自由民主党政務調査会長就任。 *[[1992年]]12月:[[通商産業大臣]]就任。 *[[1993年]]7月:[[自由民主党幹事長]]就任。 *[[1995年]]8月:[[建設大臣]]就任。 *[[1996年]]11月:自由民主党総務会長就任。 *[[1998年]]7月:自由民主党幹事長就任。 *[[1998年]]12月:清和政策研究会会長就任。 *[[2000年]]4月:第85代[[内閣総理大臣]]就任。 *[[2001年]]1月:第6代清和政策研究会会長就任 *[[2002年]]7月:第2代[[財団法人]][[日本プロスポーツ協会]]会長就任 *[[2004年]]10月:自由民主党新憲法起草委員会委員長。 *[[2006年]]10月19日:清和政策研究会会長退任。 *2006年10月26日:清和政策研究会名誉会長就任。 == 参考文献 == *[[五百旗頭真]]・[[伊藤元重]]・[[薬師寺克行]]編 『90年代の証言 森喜朗 自民党と政権交代』 [[朝日新聞社]]、[[2007年]]10月30日、310頁。ISBN 978-4-02-250338-1 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[自由民主党国会議員一覧]] *[[自由民主党総裁]] *[[自由民主党幹事長]] *[[ネオ・ニューリーダー]] *[[清和政策研究会]] *[[第1次森内閣]] *[[第2次森内閣]] **[[第2次森改造内閣 (中央省庁再編前)|第2次森内閣改造内閣(中央省庁再編前)]] **[[第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)|第2次森内閣改造内閣(中央省庁再編後)]] *[[加藤の乱]] *[[四三会]] == 外部リンク == *[http://www.mori-yoshiro.com/index.html Yoshiro Mori WebSite](公式サイト) *[http://ch.nicovideo.jp/channel/ch119 森喜朗チャンネル] - [[ニコニコ動画]]の森の公式チャンネル *[http://m79s420.hp.infoseek.co.jp/kei-mori-kakizawa.htm 関連系図] {{start box}} {{s-off}} {{s-bef|before=[[小渕恵三]]}} {{s-ttl|title={{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]|years=第85・86代:2000年 ‐ 2001年}} 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