「聖セシリア」の版間の差分
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2019年11月29日 (金) 09:52時点における版
セシリア(2世紀頃、生没年不詳)あるいは聖チェチリアは、キリスト教(カトリック教会・聖公会・正教会)の聖人。特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされる。記念日は11月22日。
英語ではシシーリア、スペイン語ではセシーリア、イタリア語および中世ラテン語ではチェチーリア、ドイツ語ではツェツィーリア (テンプレート:de)、フランス語ではセシルないしはセシール (テンプレート:fr)、古典ラテン語(再建音)ではカエキリア (テンプレート:la) と呼ばれる。日本のキリスト教では、西方教会ではセシリアの表記が一般的[1]である他、特にカトリック教会ではラテン語の教会式発音に基づいてチェチリアとも呼ばれる[2]。対して日本のキリスト教の中でも正教会ではキキリヤと呼ばれる。
カエキリア(Caecilia)は、カエキリウス氏族(Caecilii)の女性であることを示す名である。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスによってアフリカで刑死した聖セシリア(聖名祝日2月11日)とは別人である。
生涯
彼女が改宗させた夫や友人たちとともに、230年頃の皇帝アレクサンデル・セウェルスの時代に殉教した、と長らく伝えられていた。しかし、デ・ロッシの調査によると、ポワティエ司教フォルトゥナートゥス(没年600年)が、彼女は皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代に176年から180年の間にシチリア島で非業の死を遂げたと記しているという。要出典
伝説によれば、セシリアは斬首刀の3打を耐え抜いて死刑を中止され、その後3日間生き延びたという。[3]
死後の評価
ローマのトラステヴェレ地区には、セシリアを称え、サンタ・チェチーリア教会が5世紀頃に建築された。その後820年にはローマ教皇パスカリス1世によってさらに壮麗に建て替えられ、1599年にはスフォンドラーティ枢機卿によって再び改築された。
パスカリス1世は、サン・カリストのカタコンベに葬られたセシリアの聖遺物を、サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会に移した。この教会は、ルネサンスの彫刻家ステファノ・マデルノによる聖セシリアの大理石像で知られる。像の前の石板には「聖女の墓が開けられたときに見た遺体をそのままの姿で写した」というマデルノの宣誓が刻まれていて、この宣誓が真実だとすれば、1599年に墓が開けられた際、聖女の遺体は千数百年を経てなお生々しく保存されていたことになる。写実的に表現されたマデルノの彫刻は、スフォンドラーティ枢機卿の依頼によって制作された。
セシリアは、伝説によると神を賛美するのに楽器を奏でながら歌ったと言い伝えられており、これが様々な芸術分野において霊感の出所となってきた。ラファエロやルーベンスによる像のほか、チョーサーのカンタベリー物語(『第二の尼の話』)やジョン・ドライデンの有名なオードがある。
セシリアを称える音楽作品あるいはセシリアの祝日のミサ曲は、パーセルやアレッサンドロ・スカルラッティ、ヘンデル、リスト、グノー、パリーなどが作曲している。ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、サンタ・チェチーリア音楽院もセシリアにちなんでいる。
出典
- ↑ 日本のカトリック教会に関する出典: Laudate 聖人カレンダーおよび聖セシリア女子短期大学|聖セシリアおとめ殉教者記念日|2011年|スマートフォンサイト。また、日本聖公会京都教区、日本聖公会京都教区、日本聖公会中部教区松本聖十字教会などから日本聖公会でもセシリア表記が一般的だと考えられる。
- ↑ () 殉教者おとめチェチリアのミサ(固有式文) 国本静三 [ arch. ] 22 May 2014
- ↑ ジェイムズ・ホール (1988) ジェイムズ・ホール 高階秀爾 [ 西洋美術解読事典 ] 改 河出書房新社 1988 4309267505