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'''昭南陸軍刑務所事件'''(しょうなんりくぐんけいむしょじけん)は、旧日本軍の占領統治下にあった[[シンガポール]](当時は[[昭南特別市]])の{{仮リンク|オートラム路|en|Outram Road}}にあった昭南陸軍刑務所で、刑務所関係者が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]人の[[捕虜|俘虜]]・抑留者および一般市民多数を虐待し、俘虜・抑留者17人、一般市民24人を死亡させた事件。戦後、[[イギリス軍]]シンガポール裁判で44人が起訴され、39名が有罪、うち5人が死刑の判決を受けた。<ref>この記事の主な出典は、遠藤(1996) 210-212頁、岩川(1995) 197頁、東京裁判ハンドブック(1989) 116頁、神谷(1967)、神酒沢(1967)および坂(1967) 146-147頁。</ref>
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'''昭南陸軍刑務所事件'''(しょうなんりくぐんけいむしょじけん)は、[[1942年]][[2月15日]]以降、[[日本占領時期のシンガポール|日本占領下シンガポール]]のオートラム路にあった昭南陸軍刑務所で、刑務所関係者が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]人の捕虜・抑留者および一般市民多数を虐待し、[[1945年]][[8月15日]]までの間に、捕虜・抑留者17人、一般市民24人を死亡させた事件。戦後、[[イギリス軍シンガポール裁判]]で44人が起訴され、39名が有罪、うち5人が死刑の判決を受けた。
  
 
== 事件 ==
 
== 事件 ==
1942年2月15日から<ref>神谷(1967)によると、オートラム路にあった刑務所内に陸軍刑務所が開設されたのは1942年8月1日で、それ以前は憲兵が管理する囚禁場だった(神谷(1967) 110頁)</ref>1945年8月15日までの間に、シンガポール市内のオートラム路にあった陸軍刑務所で、同刑務所の関係者が共謀して、戦争の法規と慣例に違反して、同所に収容中の連合軍の俘虜・抑留者と一般市民を虐待し、連合国人<ref>イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、中国人、インド人、マレー人など</ref>約41名を死亡させた<ref>神谷(1967) 110頁。戦犯裁判における起訴内容による</ref>。
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戦後の戦犯裁判の起訴理由によると、シンガポール市内のオートラム路([[:wiki:en:Outram Road|Outram Road]])にあったオートラム刑務所内に置かれていた昭南陸軍刑務所には、日本軍がシンガポールを占領した1942年2月16日から<ref>{{Harvtxt|神谷|1967|p=110}}によると、オートラム路にあった刑務所内に陸軍刑務所が開設されたのは1942年8月1日で、それ以前は憲兵が管理する囚禁場だった。</ref>1945年8月15日までの間、連合国人の捕虜や民間人が収容されていたが、同刑務所の職員の虐待によって、イギリス人の捕虜13人、オランダ人の捕虜4人、オランダ人の民間人22人の合計39人が死亡し、その他にも多数の連合国人に対して虐待が行なわれた<ref>{{Harvnb|茶園|1989|p=189}}。{{Harvtxt|神谷|1967|p=110}}は、オーストラリア人、オランダ人、中国人、インド人、マレー人など約41名を死亡させた、とし、{{Harvtxt|東京裁判ハンドブック|1989|p=116}}は俘虜17人、一般市民24人を死亡させた、としている。</ref>。
  
神谷<ref>神谷春雄。この事件では、1944年5月から同年9月まで刑務所長を務めていたため、その間に発生した2件の死亡事件の責任を問われて、終身刑に処せられた(遠藤(1996) 211頁)。[[双十節事件]]で拷問死を免れた極東情報局長の{{仮リンク|ロバート・H・スコット|label=スコット|en|Robert Heatlie Scott|preserve=1}}が残虐行為に責任を持つべき1人として神谷の名前を挙げたことが、責任を問われる契機になった(遠藤(1996) 212頁)</ref>(1967)は、死者の多くは、陸軍刑務所が開設される前の、憲兵隊の囚禁場時代の不適切な管理が原因で、囚禁場時代ないし陸軍刑務所開設後の短期間に相次いで衰弱死した病人と、戦争末期に食糧事情の逼迫や薬品の不足により死亡した病死者だったとしている<ref>神谷(1967)</ref>
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== 戦犯容疑者の拘置 ==
 
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1945年10月に、戦犯事件の容疑者は、事件の舞台となったオートラム刑務所に拘置され、その後、1946年1月にチャンギ刑務所([[:wiki:en:Changi Prison|Changi Prison]])に移された{{Sfn|神谷|1967|p=104}}。
== 戦犯容疑者の虐待 ==
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*戦犯容疑者の手記によると、監視にあたった連合国軍関係者の多くは事件の被害者の関係者だったため、戦犯容疑者は虐待に遭い、特に同年11月にいわゆる首実検(被害者の視認による被告人の特定)によって陸軍刑務所の職員が特定されると、凄惨な虐待の標的となって容疑者全員が負傷したという{{Sfn|神酒沢|1967}}{{Sfn|神谷|1967}}
戦犯事件の容疑者は、1945年10月に事件の舞台となったオートラム刑務所に収容され、その後1946年1月に[[チャンギ刑務所|チャンギー刑務所]]に移された<ref>神谷(1967) 104頁</ref>。戦犯容疑者の監視にあたった連合国軍関係者の多くは事件の被害者の関係者だったため、戦犯容疑者は虐待に遭い<ref>虐待の詳細については神谷(1967)、神酒沢(1967)に詳しい<!--編注:戦犯事件の内容よりも余程詳しく書いてある。--></ref>、特に同年11月にいわゆる[[首実検]](被害者の視認による被告人の特定)によって陸軍刑務所の職員が特定されると、凄惨な虐待の標的となって容疑者全員が負傷したとされる<ref>神酒沢(1967) 51頁</ref>
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== 裁判 ==
 
== 裁判 ==
戦後、[[イギリス軍]]シンガポール裁判で、同裁判の被告数では最多の44人が起訴された<ref>神谷(1967) 110頁による。東京裁判ハンドブック(1989) 116頁では45人</ref>。
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[[イギリス軍シンガポール裁判]]では、[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]法務部や昭南陸軍刑務所の関係者44人ないし45人が起訴された。1事件あたりの被告人数は同裁判で最多だった<ref>{{Harvtxt|神谷|1967|p=110}}は44人、{{Harvtxt|東京裁判ハンドブック|1989|p=116}}は45人としている。{{Harvtxt||1967|pp=146-147}}には被告人44人の名前があり、うち3人が起訴取消とされている。{{Harvtxt|茶園|1989|pp=189-191}}には被告人43人の名前があり、うち1人が起訴取消とされている。</ref>。
 
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開廷以来2ヶ月<ref>実日数1ヶ月程度(神谷(1967)120-121頁)</ref>の審理により、起訴取消し<ref>人違いや、入院中で公判を欠席したため(神谷(1967)120-121頁)</ref>と無罪の合計5名を除いて、有罪39名、うち死刑5名、終身刑5名、懲役15年1名、12年4名、10年以下24名の判決が下った<ref>神谷(1967) 120-121頁</ref>。
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事件の当事者であった陸軍刑務所の所長、[[軍医]]、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]][[曹長]]のほか、[[南方総軍]]法務部の[[日高己雄]]部長、[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]法務部の[[大塚操]]部長が死刑判決を受け、処刑された<ref>岩川(1995) 197頁、東京裁判ハンドブック(1989) 116頁。5人のうち1人は病死((1967) 146頁)。</ref>。
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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*遠藤(1996): 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年。
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*岩川(1995): [[岩川隆]]『孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判』[[講談社]]、1995年。
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*東京裁判ハンドブック(1989): 東京裁判ハンドブック編集委員会(編)『東京裁判ハンドブック』[[青木書店]]、1989年。
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*神酒沢(1967): K.K(神酒沢孝四郎)「シンガポール、オートラム刑務所における虐待」現代史料室・坂邦康編『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、27-54頁。
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*神谷(1967): H,K(神谷春雄)「チャンギー刑務所の虐待」現代史料室・坂邦康編『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、104-121頁。
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*坂(1967): 「英領地区戦犯被告名(濠軍を除く)」現代史料室・坂邦康編『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、137-168頁。
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== 関連項目 ==
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開廷以来2ヶ月、実日数約1ヶ月の審理により、起訴取消と無罪の合計5人を除いて、39人が有罪となり、うち5人が死刑、5人が終身刑、1人が15年、4人が12年、24人が10年以下の有期刑の判決を受けた{{Sfn|神谷|1967|pp=120-121}}{{Sfn|坂|1967|pp=146-147}}。
*[[日本の戦争犯罪]]
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*陸軍刑務所の所長・小林法務少佐、軍医の矢島大尉、後藤准尉<ref>階級は、{{Harvtxt|坂|1967|p=146}}では准尉、{{Harvtxt|茶園|1989|p=189}}では一等兵、{{Harvtxt|岩川|1995|p=197}}では憲兵曹長とされている。ここでは仮に{{Harvtxt|坂|1967|p=146}}によった。</ref>のほかに、[[南方総軍]]法務部長だった[[日高己雄]]少将、第7方面軍法務部長だった[[大塚操]]少将も死刑判決を受けた。
*[[BC級戦犯]]
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*小林所長は病死し{{Sfn|坂|1967|p=146}}、矢島大尉と後藤准尉は1947年3月26日、日高少将と大塚少将は同年4月17日に処刑された{{Sfn|茶園|1989|p=189}}。
*[[シンガポールの歴史]]
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*1944年5月から同年9月まで刑務所長を務めていた神谷春雄は、その間に発生した2件の死亡事件の責任を問われて、終身刑に処せられた{{Sfn|遠藤|1996|p=211}}。{{Harvtxt|遠藤|1996|p=212}}によると、[[双十節事件]]で拷問死を免れた極東情報局長のロバート・H・スコット([[:wiki:en:Robert Heatlie Scott|Robert H. Scott]])が残虐行為に責任を持つべき1人として神谷の名前を挙げたことが、責任を問われる契機になったという。神谷は、戦後匿名で記した手記({{Harvnb|神谷|1967}})の中で、死者の多くは、陸軍刑務所が開設される前の、憲兵隊の囚禁場時代の不適切な管理が原因で、囚禁場時代ないし陸軍刑務所開設後の短期間に相次いで衰弱死した病人と、戦争末期に食糧事情の逼迫や薬品の不足により死亡した病死者だった、としている。
*[[双十節事件]]
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== 付録 ==
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=== 脚注 ===
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=== 参考文献 ===
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*{{Aya|遠藤|year=1996}} 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年、ISBN 4087811379
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*{{Aya|岩川|year=1995}} [[岩川隆]]『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
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*{{Aya|茶園|year=1989}} 茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 下』不二出版、1989年、{{JPNO|89052289}}、189-191頁
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*{{Aya|東京裁判ハンドブック|year=1989}} 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年、ISBN 4250890139
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*{{Aya|神酒沢|year=1967}} K.K(神酒沢孝四郎)「シンガポール、オートラム刑務所における虐待」坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、27-54頁、{{NDLJP|3005871}}{{クローズドアクセス}}
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*{{Aya|神谷|year=1967}} H,K(神谷春雄)「チャンギー刑務所の虐待」坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、104-121頁、{{NDLJP|3005871}}{{クローズドアクセス}}
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*{{Aya|坂|year=1967}} 「英領地区戦犯被告名(濠軍を除く)」坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、137-168頁、{{NDLJP|3005871}}{{クローズドアクセス}}
  
 
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2018年4月25日 (水) 20:08時点における最新版

昭南陸軍刑務所事件(しょうなんりくぐんけいむしょじけん)は、1942年2月15日以降、日本占領下シンガポールのオートラム路にあった昭南陸軍刑務所で、刑務所関係者が連合国人の捕虜・抑留者および一般市民多数を虐待し、1945年8月15日までの間に、捕虜・抑留者17人、一般市民24人を死亡させた事件。戦後、イギリス軍シンガポール裁判で44人が起訴され、39名が有罪、うち5人が死刑の判決を受けた。

事件[編集]

戦後の戦犯裁判の起訴理由によると、シンガポール市内のオートラム路(Outram Road)にあったオートラム刑務所内に置かれていた昭南陸軍刑務所には、日本軍がシンガポールを占領した1942年2月16日から[1]1945年8月15日までの間、連合国人の捕虜や民間人が収容されていたが、同刑務所の職員の虐待によって、イギリス人の捕虜13人、オランダ人の捕虜4人、オランダ人の民間人22人の合計39人が死亡し、その他にも多数の連合国人に対して虐待が行なわれた[2]

戦犯容疑者の拘置[編集]

1945年10月に、戦犯事件の容疑者は、事件の舞台となったオートラム刑務所に拘置され、その後、1946年1月にチャンギ刑務所(Changi Prison)に移された[3]

  • 戦犯容疑者の手記によると、監視にあたった連合国軍関係者の多くは事件の被害者の関係者だったため、戦犯容疑者は虐待に遭い、特に同年11月にいわゆる首実検(被害者の視認による被告人の特定)によって陸軍刑務所の職員が特定されると、凄惨な虐待の標的となって容疑者全員が負傷したという[4][5]

裁判[編集]

イギリス軍シンガポール裁判では、第7方面軍法務部や昭南陸軍刑務所の関係者44人ないし45人が起訴された。1事件あたりの被告人数は同裁判で最多だった[6]

開廷以来2ヶ月、実日数約1ヶ月の審理により、起訴取消と無罪の合計5人を除いて、39人が有罪となり、うち5人が死刑、5人が終身刑、1人が15年、4人が12年、24人が10年以下の有期刑の判決を受けた[7][8]

  • 陸軍刑務所の所長・小林法務少佐、軍医の矢島大尉、後藤准尉[9]のほかに、南方総軍法務部長だった日高己雄少将、第7方面軍法務部長だった大塚操少将も死刑判決を受けた。
  • 小林所長は病死し[10]、矢島大尉と後藤准尉は1947年3月26日、日高少将と大塚少将は同年4月17日に処刑された[11]
  • 1944年5月から同年9月まで刑務所長を務めていた神谷春雄は、その間に発生した2件の死亡事件の責任を問われて、終身刑に処せられた[12]遠藤 (1996 212)によると、双十節事件で拷問死を免れた極東情報局長のロバート・H・スコット(Robert H. Scott)が残虐行為に責任を持つべき1人として神谷の名前を挙げたことが、責任を問われる契機になったという。神谷は、戦後匿名で記した手記(神谷 1967 )の中で、死者の多くは、陸軍刑務所が開設される前の、憲兵隊の囚禁場時代の不適切な管理が原因で、囚禁場時代ないし陸軍刑務所開設後の短期間に相次いで衰弱死した病人と、戦争末期に食糧事情の逼迫や薬品の不足により死亡した病死者だった、としている。

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 神谷 (1967 110)によると、オートラム路にあった刑務所内に陸軍刑務所が開設されたのは1942年8月1日で、それ以前は憲兵が管理する囚禁場だった。
  2. 茶園 1989 189。神谷 (1967 110)は、オーストラリア人、オランダ人、中国人、インド人、マレー人など約41名を死亡させた、とし、東京裁判ハンドブック (1989 116)は俘虜17人、一般市民24人を死亡させた、としている。
  3. 神谷 1967 104
  4. 神酒沢 1967
  5. 神谷 1967
  6. 神谷 (1967 110)は44人、東京裁判ハンドブック (1989 116)は45人としている。坂 (1967 146-147)には被告人44人の名前があり、うち3人が起訴取消とされている。茶園 (1989 189-191)には被告人43人の名前があり、うち1人が起訴取消とされている。
  7. 神谷 1967 120-121
  8. 坂 1967 146-147
  9. 階級は、坂 (1967 146)では准尉、茶園 (1989 189)では一等兵、岩川 (1995 197)では憲兵曹長とされている。ここでは仮に坂 (1967 146)によった。
  10. 坂 1967 146
  11. 茶園 1989 189
  12. 遠藤 1996 211

参考文献[編集]

  • 遠藤 (1996) 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年、ISBN 4087811379
  • 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
  • 茶園 (1989) 茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 下』不二出版、1989年、JPNO 89052289、189-191頁
  • 東京裁判ハンドブック (1989) 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年、ISBN 4250890139
  • 神酒沢 (1967) K.K(神酒沢孝四郎)「シンガポール、オートラム刑務所における虐待」坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、27-54頁、NDLJP 3005871 (閉)
  • 神谷 (1967) H,K(神谷春雄)「チャンギー刑務所の虐待」坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、104-121頁、NDLJP 3005871 (閉)
  • 坂 (1967) 「英領地区戦犯被告名(濠軍を除く)」坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、137-168頁、NDLJP 3005871 (閉)