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2018年1月14日 (日) 20:38時点における最新版

朝日新聞・高橋 純子

高橋 純子(たかはし じゅんこ)とは、朝日新聞の政治部次長。

その思想は反資本主義・反日・反米・反自民党であり、典型的な朝日新聞ブサヨ記者である。

降旗 学の高橋考察[編集]

朝日新聞・高橋 純子

朝日新聞社には、高橋純子さんという政治部の次長サンがいる。りんりんリーチの高橋純子さんではない(こちらは女性プロ雀士。麻雀ゲーム『極』では、リーチをかけるとき、りんりんリーチと叫ぶ)。

朝日のほうの高橋純子次長だが、この方がお書きになる記事は毎度毎度、実に難解で、朝日の編集局や校閲はよくこんな原稿を通したなあ、と思ってしまう内容ばかりなのである。次長サンのスタンスは「アンチ安倍政権」で凝り固まっているが、はっきり言って、何が言いたいかわからない文章をお書きになる。

高橋次長サンは『だまってトイレをつまらせろ』なるタイトルのコラムを書いた。内容は以下のようなものである。

(前略)ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。

①代表団を結成し、会社側と交渉する。②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。

まあ、この二つは、普通に思いつくだろう(中略)ところが、船本洲治という1960年代から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第三の道を指し示したという。

 ③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる(中略)。

生かされるな、生きろ。わたしたちは自由だ〉

この「生かされるな、生きろ」ってセンテンスは、いったいどこから出てきたのか不明なのだが、船本洲治氏が残した言葉なのか?ちなみに、高橋次長は記さなかったが、船本洲治という「活動家」は山谷釜ケ崎の労務者問題に取り組んでいますが、地域センターを爆破した疑いで指名手配されている。テロリストじゃないですか。彼は逃走中の1975年、皇太子殿下(当時)の訪沖に反対し、嘉手納基地の前で焼身自殺を遂げている。船本氏は29歳だった。

高橋次長サンは、船本氏が指名手配されていたことや焼身自殺をした事実を省いて書いた。それどころか、指名手配犯を「活動家」とまで持ち上げた。おいおい、と言いたいところだが、都合の悪いことを隠すのはアカイアサヒがよくやる手法だ。たとえば――。

杉山審議官は、慰安婦の強制連行を裏付ける資料がなかったことを説明するとともに、強制連行説は吉田清治(故人)による「捏造」で、それをさも事実のごとく朝日新聞が報じたことが「国際社会にも大きな影響を与えた」と指摘した。朝日の誤報問題を名指ししたわけだ。

ところが、翌17日の朝日新聞は、国連で対日審査があったことは報じたが、記事には「朝日新聞」の「あ」の字も書かなかった。杉山審議官の発言は全てスルーされた。自分たちに都合の悪いことは報じない、朝日新聞は。

朝日の偏りはとりあえず措いといて……、高橋次長サンは、トイレを詰まらせることを奨励しているわけではない、と綴る一方で、新聞紙を流されて詰まらされたくなければ「チリ紙を置いときな、という精神のありようを手放したくない」とも書く。まるで脅迫だ。

他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない〉

高橋次長サンの原稿の特徴は、脈絡もなくワケのわからない理屈が飛び出すことだが、どーしていきなり「お前は無力だ」という歌が出てくるのか?他者を従わせたいと欲望する人というのは……?

〈「ほかに選択肢はありませんよ――」

メディア論が専門の石田英敬東大教授は2013年安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。

「この道しかない」

固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?はい、もう一回。だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている〉

高橋次長サンの難解でハイレベルかつハイブロウな原稿を拙い読解力で解釈すると――、安倍政権の指針方針実力行使は私たちの生活を脅かす、だからときにはトイレを詰まらせるくらいの強硬手段をもってしてでも抵抗しよう、だってぼくらはみんな生きているんだもん、と言いたいようだ。でなければ、ぼくらはみんな生きているんだから、トイレを詰まらせて会社に迷惑をかけよう、業務を停滞させよう、抵抗マンセーと言っているとか?

高橋次長サンのコラムを、産経新聞古森義久ワシントン駐在客員特派員は、「あまりにくだらなくて鳥肌が立った」と評した。同感である。元毎日新聞編集委員でジャーナリストの徳岡孝夫氏は「大新聞というより、高校の校内新聞に出てくるような記事。文章が幼稚で下品」と評した。ごもっともだ。

このコラムを取り上げた週刊新潮は「アジテーションや独善的主張、説明不足のオンパレードで、いまどきの女子高生のほうがもう少しまともな表現をする」と切り捨てた。高橋次長サンの表現力は難解なのではなく、JK以下だったのである。

「“一刻も早く安倍体制を終わらせたい”という朝日の執念が伝わってきて、興味深く読みましたよ」

こんな感想を口にしたのは、高橋次長サンには先輩にあたる朝日新聞・元経済部記者の永栄潔氏だ。朝日は、安倍ちゃん……、もとい、安倍総理がお嫌いなのだ。

「“だまってトイレを”というのは、問答無用の発想ですよね。話しあいなどは一切なく、安倍は危険だから次の選挙で間違っても自民党に投票してはいけませんよ、と言わんとしているのだと思いました。それでいわゆる権威や制度、世間の仕組みを拒否する、超過激な思想の人を紹介することにしたのでしょう。憧れがあるんだろうけれど」

あの文章をそこまで読み解くとは恐れ入ったが、永栄氏が続ける。

「コラムでは、総理が“この道しかない”と言ったことを批判していますが、政治とはそもそもそういうもの。自民党が“この政策しかない”と言い、それに対して野党が“いや、こっちが最善だ”と主張をぶつけ合って議論する。これが代議制なのです。それを彼女は、為政者に言われたくないと書く。これでよく政治部の記者が勤まりますね」

先輩に政治記者に向かないと言われた高橋次長サンは、かなり問題がある人らしい。筋金入りの「反権威・権力」主義者なのだと朝日の同僚記者が明かす。

森喜朗さんが首相だった2000年に番記者を務めたときは、慣例だった番記者による誕生日プレゼントを拒否して話題になりました」

だったら幹事社制度にも異を唱えてくれればいいのに・・・記者会見では、持ちまわりで「幹事社」が決められ、会見前に段取りを説明する。そして質疑応答ではX社、Y社、P社の順に質問しますので……、と質問者を割り振っていく。ひどいときにはあらかじめ質問状が先方に渡されていたり、会見後は輪になって「答え合わせ」をする。あのときはこう言ったよね、あの発言はこういう意味だよね等々。それが政治部記者の正体。高橋次長サンのご同輩が続ける。

2009年には、『自民党支持者だった奈良県の元森林組合長が、悪政に愛想を尽かし民主党と共産党との選挙協力を主導している』という記事を書いたものの、当事者から抗議を受け、おわびを掲載しましたし、これまで過去の同じコラムでも、再三安倍批判を行なっています」

2009年1月11日、高橋次長サンは朝刊の一、二面に『ルポにっぽん 解雇…そこには共産党』という記事を書いたが、これが朝日のお家芸でっちあげだった。嘘をつくりあげる朝日の伝統は、高橋次長サンにもしっかり受け継がれていたのである。

記事に取り上げられた元森林組合長から人権救済の申し立てがあり、朝日新聞社の『報道と人権委員会(PRC)』は、高橋次長サンが書いた記事には「事実として認めることができなかった」との見解を発表。後日、「おわび」を掲載した。

高橋次長サンの過去の記事を読むと、なるほど、安倍政権嫌いなのがよくわかる。

〈下がり続ける投票率と、それにもかかわらず「選挙に勝った我々こそ民意だ」とばかりに独善的に振る舞う政治家(中略)首相は昨年、消費増税の先送りについて国民の信を問うと衆院を解散した。ところがいま、安保法制の整備も公約だった、それで選挙に勝ったのだから国民から支持を得た、と涼しい顔をしている(中略)

「レッテル貼りだ」なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。さあ、奪いにいきましょう。堂々と貼りにいきましょう〉(社説余滴「政治=選挙」ですか?/2015年5月22日)

高橋次長サンは、安倍政権にレッテル貼りをしよう、と呼びかけるのである。

「不真面目な人たちによって、戦後日本が営々と築き上げてきたものが解体される瀬戸際にある」「それに甘んじることは、我々が辱められること。跳ね返しましょう」

場が沸き、拍手が起こる。「デートをキャンセルして来た」と言う女子大学生。「首相に勉学意欲を刺激され、賢くなっている」と皮肉る男子大学院生。「私たちが目指す平和は『平和安全法制』の中にはない」「国民なめんな!」「勝手に決めるな!」。これからを生きる世代の言葉と、これまでを生きた先達の言葉が路上で混ざり合った(中略)「私の言う通りにすれば間違いないぞ」とうそぶく政治権力に、自分なりの言葉とスタイルで対峙しようとしている〉(社説余滴「いざという時」が来た/2015年7月3日)

〈(前略)戦後70年の夏、全国各地で、若い世代が反対の声を上げ始めている。彼らは自分たちが享受している平和や自由が、何と引き換えだったのか、歴史の中に身を置き、自分の頭で考えている。だからこそいま「誰も殺すな」と声を響かせ、次の世代の目印となる旗を立てようとしているのだと思う〉(社説余滴「一息で言う」ということ/2015年8月7日)

朝日新聞SEALDs支援に余念がないが、つい先ごろ、SEALDsも公安調査庁の「監視対象」になりました。共産党やオウム真理教と同じ立場になったわけです。監視と言えば、メディアが政権を監視し、そのうえで批判するのはお役目のひとつだが、読者・視聴者の誘導はご法度だ。左派政党と隣国の「機関誌」然とした記事ばかりが目につく朝日新聞をクオリティペーパーと呼ぶことに私は首を傾げるが、元週刊朝日編集長の川村二郎氏も、朝日新聞の劣化を嘆いている。

「いちばんの問題はこの人が政治部の次長だということ。若い記者の書いた文章を、こういう人が直して、同じような記者を作っていくかと思うと、恐ろしいね」

恐ろしいです。でも、とどのつまり、「だまってトイレをつまらせろ」にきらめく何かを感じた高橋純子次長サンは、朝日新聞は便所紙レベルのニュースペーパーですよってことをカミングアウトしたかったんじゃないだろうか。朝日はもうすぐ沈むのだと。それならみんな納得する。

「だまってトイレをつまらせろ」?朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム[編集]

今年2月28日付朝日新聞の4面のコラム「政治断簡」は、高橋純子・政治部次長によるこんな内容だった。

「だまってトイレをつまらせろ」

このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。

ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。

①代表団を結成し、会社側と交渉する。

②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。

まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。

ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。

③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。

チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。

船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。

生かされるな、生きろ。私たちは自由だ。

念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。

他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。

気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。

「ほかに選択肢はありませんよ――」

メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。

「この道しかない」

固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?

はい、もう一回。

だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。

私は朝日新聞を購読しているのだが、当日紙面で読んで唖然とした。翌日、通勤電車の中でtwitterを見ている時、ふとこのコラムのことを思い出した。ツイートを検索してみると、絶賛の声が多くてびっくりした。批判的な声はまるで見当たらない。一部をリツイートしておいたので、現物が気になる方はそちらを見ていただきたいが、

  • 安倍政治の本質を突く暗喩に満ち、政治部記者もこうした切っ先鋭い視点で記事を届けてもらわねばと思う。
  • 良コラムと読んだ。やるじゃないか。
  • これ結構良かった。無論トイレをつまらせるのは掃除の人が大変だけど。生かされるな、生きろ。
  • これ面白い。権力側の横暴に対し、善処をお願いするのではなく、その横暴がもたらす結果を突きつけてやれと説いた、ある活動家の思想を紹介。
  • 言葉が生きてるよいコラムです
  • いや実に爽快だなあ。心に浮かぶ雲を吹き飛ばすような文章。いまの朝日にこんな感性しかも女性の政治部次長がいるとは思わなんだ。いやもう、惚れちゃいそうww
  • 中国の「上に政策あれば下に対策あり」と同じ、民衆によるサボタージュ戦略。
  • こういう記者の比率が増えてくると朝日もガーディアンを目指せる…かもしれない。知らんけど。
  • 冨歩さんから聞いた「JAM」に似ている。対案を示す必要はない。別のシステムを自ら構築する必要もない。システムに異物を挟めば、流れは変わる。
  • 昨年のインタビュー記事も面白かった。この人の記事をもっと読みたい。
  • これは、政権批判です。私は支持します。
  • 軽やかな文章。閉塞感あふれる世の中だけに、なおさら爽快。

いや大したものだ。私のように唖然とさせられる者は、読者の中では異端なのだろう。

  • 午年総理に話しても聞く耳持たずなら念仏を唱えずに黙ってトイレを詰まらせた方が良さそうだ!安倍手法はヒトラーだけでなく893にも学んでいるように見える

紙を用意しないならトイレをつまらせるという実力行使の方がよほどヤクザの手法ではないかと思うが。さて。「だまってトイレをつまらせろ」。

鉄道の駅のトイレって、最近はそうでもないようだが、ひと昔は、当然のようにトイレットペーパーは置いておらず、ポケットティッシュの自動販売機が設置されていた。利用者は自分であらかじめティッシュを持参して用を足すか、持っていなければ買って下さい、ということだろう。そこで、「チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな」と、新聞紙でふいて流してトイレをつまらせてもいいのだろうか。そうすりゃ鉄道会社も紙を用意するようになるだろう?ほかの利用者はどうなる。修理の費用は誰が負担する。そもそもつまることを見越して新聞紙を流せば器物損壊という犯罪になるだろう。と、まず思った。

いや、トイレをつまらせろとは例え話であって、高橋次長も「念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」と言っているではないか、ただ、そうした自由な精神のありようの大切さを示しているのだ。――といった反論が有り得るだろう。

しかし、他人の迷惑をかえりみない自由なんてものが、そんなに推奨に値するのだろうか。船本洲治という活動家を私は知らない。しかし、おそらく彼が言っているのは、あくまで経営者への抵抗としてそうした手段もあるということだろう。それを、「何で拭こうがそもそも自由……という精神のありよう」一般の話に広げて、何をどうしたいのだろうか。

給料が少なくて食費に困っている者が食べ物を万引きして、給料が十分でないなら万引きせざるを得ないんだ、十分な給料をよこせば万引きをやめてやるよ、と犯人が開き直ったとして、そんな言い分を誰が認めるというのか。

朝日の購読者である私が、朝日新聞のこのコラムとこの記事とこの投書が気に食わん、こんなものを新聞に載せてくれと頼んだ覚えはない、これらの分を新聞代から差し引いてくれ、と主張すれば、ASAはそれを受け入れてくれるのだろうか。

私はこのコラムを読んで、「あらゆる犯罪は革命的である」という昔の文芸評論家の本のタイトルを思い出した。毛沢東が、革命とは、お上品で、穏やかなものではないと述べたことも思い出した。「きらめくなにか」「精神のありよう」を賞賛し推奨してゆけば、結局そういう話になるのではないか。

そして、このトイレをつまらせるという話が、後段の安倍政権批判とどうつながるのか、私にはまるでわからない。政権打倒のためには、社会秩序を守るなんてお行儀良さは少々無視してもかまわない。そういう話につながるようにしか思えないのだが、それが高橋次長の本意なのだろうか。高橋氏個人がどのような政治観や人生観をもとうが、それは氏の自由だ。しかし、それがもし氏の本意なら、それは、大新聞の役職者が紙面で口にするにふさわしいことなのだろうか。

安倍政権のメッセージが「ほかに選択肢はありません」というものなのかどうか、私は知らない。しかし、「この道しかない」と言われるのが嫌だというなら、ほかの道を示せばよい。すぐに示すことができないのなら、時間をかけて考えればよい。ほかの道を示すことも、それを考えることもなく、為政者に「この道しかない」と言われるのが嫌だからって、それで何故、「だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。」となるのか、そしてそれが何故もてはやされるのか、私には全く理解できない。

それって、代案は出さないけど、嫌なものは嫌なんだという、単なる好悪の表明でしかないのではないか。だから何だというのか。そんな記者個人の好き嫌いを知るために、私は新聞を購読しているのではない。

「道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるもの」

そんなことはない。一人が歩いただけでは道はできない。多くの者が同じルートを歩くことによって、初めて道ができるのだ。だから、ここに道があるということが、後に続く者にわからなければ、道はできない。国家をどのように運営していくべきか、為政者がそれを明らかにしなければ、国民はその是非を判断することすらできない。なのに、高橋次長は、まるで道を示さない政権が良い政権であると考えているかのようだ。

では、仮に安倍政権が道を示さず、わが国は将来どうなるかわかりませんが、まあどうにかなるでしょう、自分の足で歩いているうちに自ずと道はできるでしょうからと説いて、何ら将来のプランを語らなければ、高橋次長は「生かされるな、生きろ。私たちは自由だ」「ぼくらはみんな生きている」と言って、それに賛同するだろうか。

絶対にそんなことはない。為政者たる者、国家の進むべき道を示せ、それが政権を託した国民に対する責任ではないかと絶叫するに違いない。批判のための批判。くだらないことこの上ない。

また、「他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を……朗々と歌いあげる」って、人ごとのように言ってるけど、これってまさに、朝日新聞のようなメディアがこれまでやってきて、今も続けていることじゃないの。60年安保が通ったら大変だ、70年安保が通ったら大変だ、PKO法が通ったら大変だ、イラク特措法が通ったら大変だ、特定秘密保護法が通ったら大変だ、集団的自衛権行為容認は大変だ、安保法制が大変だ、国民の人権が損なわれる、いつか来た道に戻ることになると、さかんに煽り立ててきたじゃないの。

「うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない」って、まさにそれあなたがやってることじゃないの。

はい、もう一回。だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。って、シュプレヒコールを笑顔で促しているじゃないの。

早野透や若宮啓文が去り、星浩がニュースキャスターへの転身でこれまた去ることとなり、朝日の政治記事に少しは変化が見られるかと期待していたのだが、まだまだその種の人材は尽きないようだ。

安倍首相とトランプ氏は「嗤う」が板についている。あざけって、わらう。さげすんで、わらう。なかなかできることではない[編集]

「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?(政治断簡)政治部次長・高橋純子

類は友を呼ぶ。日米首脳会談から1週間余、この言葉を?かみしめている。脳内BGMは「世界は二人のために」。どこに行くのかあなたと2人、厚遇、おべっか、ナイスショット。

2人は、「嗤う」が板についているという点で「類」だと私は思っている。人をバカにしたり見下したりは誰しもついつい普通にあるが、それと「嗤う」ではステージが違う。あざけって、わらう。さげすんで、わらう。なかなかできることではない。ある意味才能。褒めてないけど。

1月26日、衆院予算委員会。民進党の大西健介氏が質問している最中、ツツーと安倍晋三首相が退席した。え?なに?トイレ?騒然とする委員室。やがて戻ってきた首相は、ズボンをずり上げるしぐさに続き、両手を上げて伸びをして、閣僚らからドッと笑いが起きた。

国会審議を軽んじている。カリカリと質問する野党議員を見下し、嗤っている――。「真意」はこの際関係ない。権力者の言動はそれ自体がメッセージだからだ。ああ。心がザラザラする。お前は無力だ、お前のやることには何の価値もないというメッセージを、まんまと感受してしまった。嗤われる側はそうやって少しずつ気力をそがれ、政治のダイナミズムは失われる。

もちろん逆に、嗤う権力者を痛快で頼もしいと感じる人もいるだろう。だが、嗤いは嗤いを、軽蔑は軽蔑を招き、社会はすさむ。そう。俳優のメリル・ストリープさんが先月、ゴールデングローブ賞の授賞式で、かの大統領を念頭にスピーチしたように。

「衝動的に人を侮辱するパフォーマンスを権力のある人間が演じれば、あらゆる人たちの生活に影響が及び、他の人たちも同じことをしてもいいという、ある種の許可証を与えることになるのです」

嗤われるのは、数の力という「現実」に抗し、理念や理想を語る者。所与の現実から最大限の利益を得ることに腐心する「現実主義者」にとって、理想なんて1円にもならないキレイゴトだから。しかし――。現実ってなんだ?

「現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません」(丸山真男「『現実』主義の陥穽」)

そのように捉えられた現実は、容易に「仕方がない」に転化する。こうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に食い入り、日本の「現実」を泥沼に追い込んだか。丸山はこう、言葉を継ぐ。

「ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした『現実』観ではなかったでしょうか」

既成事実への屈服が、さらなる屈服を生む。対米追従は仕方ない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない……。現状追認の無限ループ、そんな「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?

嗤われたら笑い返せ。現実は「可能性の束」だ。私もあなたも一筋の可能性を手に、この世に生まれてきたのだ。(政治部次長・高橋純子)

関連項目[編集]