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*また、戦後、華人労務者の帰国後に政府が「華人労務者移入」政策に参加した企業に国家補償金を支払った経緯を記した「華鮮労務対策委員会活動資料」も入手した<ref>石飛(2010)pp.48-49</ref>。 | *また、戦後、華人労務者の帰国後に政府が「華人労務者移入」政策に参加した企業に国家補償金を支払った経緯を記した「華鮮労務対策委員会活動資料」も入手した<ref>石飛(2010)pp.48-49</ref>。 | ||
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1960年代の後半に、中国の窓口争いによって日中友好協会運動が分裂したことを契機に、中国人強制連行事件に関する政府・企業の責任を追及する運動は退潮し、資料も散逸した<ref>石飛(2010)p.49</ref>。--> | 1960年代の後半に、中国の窓口争いによって日中友好協会運動が分裂したことを契機に、中国人強制連行事件に関する政府・企業の責任を追及する運動は退潮し、資料も散逸した<ref>石飛(2010)p.49</ref>。--> | ||
== 関連文献 == | == 関連文献 == | ||
− | * | + | * 中国人殉難者名簿共同作成実行委員会編『中国人強制連行事件に関する報告書』第1-3編、同実行委員会、1960年 |
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− | **再刊 | + | **再刊 田中宏・内海愛子・[[新美隆]](編)『資料 中国人強制連行の記録』明石書店、1990年 |
− | * | + | * 中国人殉難者名簿共同作成実行委員会編『40,000人の中国人強制連行の真相』同実行委員会、1961年 |
** 中国人殉難者全道慰霊祭事務局『戦時下における中国人強制連行の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局、1992年に付されている。 | ** 中国人殉難者全道慰霊祭事務局『戦時下における中国人強制連行の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局、1992年に付されている。 | ||
* 『日中不戦の使い-中国人俘虜殉難者名簿捧持代表団報告書』中国人俘虜殉難者名簿捧持代表団、1962年 | * 『日中不戦の使い-中国人俘虜殉難者名簿捧持代表団報告書』中国人俘虜殉難者名簿捧持代表団、1962年 | ||
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2018年1月21日 (日) 23:35時点における版
中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会(ちゅうごくじんふりょじゅんなんしゃいれいじっこういいんかい)は、1953年2月27日に、東京で、日本に連行された中国人の殉難者の遺骨を発掘・収集し、中国へ送還するため、「帰国3団体」を中心に様々な団体が参加して結成された民間団体。日本各地に委員会が結成されて遺骨の発掘・収集を行い、1953年から1964年にかけて中国へ遺骨を送還、また中国人の日本への強制連行に関する事実関係の調査や死没者名簿の作成を行ない、報告書を刊行した。
結成
1951年9月にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約、1952年4月に日台条約が締結されたことで、日中間の公的な外交関係は遮断されたが、民間では交流関係が模索され、1952年12月に、新華社は、中国に残留していた日本人の帰国支援を発表し、これを受けて1953年1月に日本の「帰国3団体」すなわち日本赤十字社、日中友好協会および平和連絡会の代表団が訪中し、同年3月に「日本人居留民の帰国援助問題に関する共同コミュニケ」が締結され、同年末から1958年7月まで21次にわたって約35千人が中国から日本へ帰国した[1]。
これと並行して、1953年2月27日に、東京で帰国3団体を中心に、仏教連合会、仏教讃仰会、曇鸞大師奉賛会、平和推進国民会議、在華同朋帰国協力会、総評、日本国民救援会などが参加して中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会(慰霊実行委員会)が結成され、日本に連行された中国人の殉難者の遺骨を発掘・収集し、中国へ送還することになった[2]。
結成時の委員長は大谷栄潤、事務局長は菅原恵慶[3]。団体の主力は日本共産党と社会党だった[4]。
中国人死没者の遺骨の発掘と送還
花岡事件 (遺骨発掘・送還運動) も参照
1953年3月に慰霊実行委員会の代表と在日華僑団体の代表は、調査のために花岡を訪問して、信正寺の供養塔下に納骨されていた遺骨を確認[5]。同月25日に花岡で行われた慰霊祭の後、同月26日に、信正寺の追善供養塔下にあった遺骨を東京・浅草のなつめ寺に移した[6]。
同年4月1日に浅草・東本願寺で「殉難者慰霊大法要」を開催[7]。
発掘・収集された華人労務者の遺骨2,300-2,400柱を、同年7月から1964年11月まで、9回に分けて、中国に送還した[8]。
- 年を経るごとに、各地で慰霊実行委員会が結成されていき、各地の労働組合が遺骨発掘運動に参加した。東京都では都議会議長が慰霊実行委員会の祭主となり各区長や区議会が協力するなど、地方自治体の参加もあった。仏教者団体は当初から参加していたが、途中からキリスト教者団体も参加し、本郷弓町協会の牧師・田崎健作は1956年の第6次遺骨送還捧持代表団の団長を務めた。[9]
1960年に花岡の鉢巻山で2遺体が発見されたことを契機に、花岡での「遺骨発掘一鍬運動」を呼びかけ、1963年6月5-13日には、地元や全国から秋教組、高教組、平和団体などから500余人が参加して、遺骨の発掘が行なわれ、遺体13柱が発掘された[10]。
中国人強制連行事件に関する報告書
慰霊実行委員会は、中国人俘虜殉難者名簿共同作成実行委員会とともに、7年間にわたり中国人強制連行事件の調査を行った[11]。
- その過程で、『外務省報告書』とその基になる「事業所報告書」を入手、1961年に『中国人強制連行事件に関する報告書』を作成、死者約7,000人の名簿を収載した[12]。同年5月には代表団を中国に派遣し、中国紅十字会に同書を手渡した[13]。
- また、戦後、華人労務者の帰国後に政府が「華人労務者移入」政策に参加した企業に国家補償金を支払った経緯を記した「華鮮労務対策委員会活動資料」も入手した[14]。
1962年にはパンフレット『日中不戦の使い-中国俘虜殉難者名簿捧持代表団報告書』、1964年には『草の墓標-中国人強制連行事件の記録』を刊行した[15]。
関連文献
- 中国人殉難者名簿共同作成実行委員会編『中国人強制連行事件に関する報告書』第1-3編、同実行委員会、1960年
- 第1編 NDLJP:1706941 (閉)
- 第2編 NDLJP:1706953 (閉)
- 第3編 NDLJP:1706969 (閉)
- 再刊 田中宏・内海愛子・石飛仁(解説)『資料 中国人強制連行』明石書店、1987年
- 再刊 田中宏・内海愛子・新美隆(編)『資料 中国人強制連行の記録』明石書店、1990年
- 中国人殉難者名簿共同作成実行委員会編『40,000人の中国人強制連行の真相』同実行委員会、1961年
- 中国人殉難者全道慰霊祭事務局『戦時下における中国人強制連行の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局、1992年に付されている。
- 『日中不戦の使い-中国人俘虜殉難者名簿捧持代表団報告書』中国人俘虜殉難者名簿捧持代表団、1962年
- 中国人強制連行事件資料編集委員会編『草の墓標-中国人強制連行事件の記録』新日本出版社、1964年、NDLJP:2989493 (閉)
脚注
- ↑ 杉原(2002)pp.176-177
- ↑ 石飛(2010)pp.45-46、杉原(2002)p.177、野添(1993)p.31、野添(1992)p.227
- ↑ 杉原(2002)p.177
- ↑ 石飛(2010)p.49
- ↑ 田中(1995)p.178、野添(1993)p.31、野添(1992)p.227
- ↑ 新美(2006)p.306、野添(1993)pp.31-32
- ↑ 新美(2006)p.306
- ↑ 新美(2006)p.306、李(2010)p.100、田中(1995)p.178
- ↑ 杉原(2002)pp.177-178
- ↑ 新美(2006)p.306、野添(1992)p.227
- ↑ 石飛(2010)pp.45-46
- ↑ 石飛(2010)pp.46-47
- ↑ 石飛(2010)p.47
- ↑ 石飛(2010)pp.48-49
- ↑ 石飛(2010)p.48
参考文献
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
- 田中(1995) 田中宏「解説」(劉,1995,pp.173-198)
- 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
- 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8