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2018年1月14日 (日) 23:15時点における版

田中 宏(たなか ひろし、1937年2月9日-)は、日本の社会学者社会活動家東京外国語大学外国語学部(中国語)から一橋大学大学院経済学修士課程へ進んだ後、アジア文化会館に就職して在日留学生を支援する活動に携わり、その後は愛知県立大学、一橋大学、龍谷大学で日本アジア関係や在日外国人問題に関する研究・教育に携わりながら、在日外国人を支援する様々な運動の交渉・調整役として活動している。

生い立ち

1937年2月9日、東京生まれ[1]。父は教員だった[1]

1943年4月、東京の滝野川第三国民学校初等科に入学するが、縁故疎開で父の郷里の岡山県に移住[1]

敗戦後、東京に残っていた父は、第1回衆議院議員選挙に立候補し落選した後、岡山に帰郷し、田中はそのまま岡山で育った[1]。一家は岡山では農家をしていたが、『赤旗』を購読しており、普通の農家とは少し違う雰囲気だった[1]

香和中学校から岡山県立桃山高等学校に進学し、卒業後上京して、1956年4月に東京外国語大学に入学[1]

在学中、穂積五一が主宰する新星学寮に入寮[1]。同寮出身の先輩に村山富市杉浦正健がいた[1]

大学在学中、東京外国語大学の生活協同組合運動に傾倒し、そのまま生協に就職しようとしたが、先輩の勧めもあり大学院へ進学することにした[2]

1960年3月に同大学外国語学部第6部第1類(中国語)を卒業し、同年4月に一橋大学大学院経済学研究科修士課程に入学、中国経済論を専攻し、村松祐次教授の指導を受けた[3]

1963年3月に同課程を修了[3]。修士論文の題目は「盛宣徳と清末鉄道建設」だった[2]

アジア人留学生支援

大学院修了後、穂積五一の勧めで、穂積が設立したアジア学生文化協会アジア文化会館の食堂担当職員に就職[4]。同会館では、アジア人学生の相談役として、処遇改善活動に取り組んだ[5]

1964年秋には、北京シンポジウムに参加するため訪中[6]。1965年7月には、『歴史評論』の座談会に出席している[6]

1969年には、台湾から日本に留学中、「毛沢東万歳」と叫んで中華民国の旅券を破り捨てた劉祭品を支援する活動をしていた[5]

またこの頃チュア・スイリン事件を経験し、活動の成果を永井道雄と共著で『アジア留学生と日本』にまとめた[5]

愛知県立大学時代

1972年5月に愛知県立大学外国語学部の教員となり、中国語を教えながら留学生問題を中心に教育と研究を続け、また日本における外国人の人権擁護活動に関わる多様な事件の交渉・調整役として活動した[7]

田中の活動は、各種司法・行政機関、地方自治体、法律家団体からも高く評価され、自由人権協会の代表理事に選任された[7]

1990年7月5日、花岡事件補償交渉で、鹿島建設との「共同発表」に参加[8]

一橋大学時代

1993年4月、一橋大学社会学部教授[7]。日本社会における国際化の諸問題をテーマとし、留学生の大学院教育に力を入れた[7]

1993年6月29日、北京・盧溝橋中国人民抗日戦争記念館での「花岡悲歌展」の開幕式に参加[8]

1994年10月、鹿島建設との最終交渉に参加[8]

1995年4月から、京都市にある(財)世界人権問題研究センターの嘱託研究員となり、関西在住の外国人の処遇問題に関する研究を行なう[7]

1995年6月20日、大館市での花岡事件50周年の記念行事に参加[8]

龍谷大学時代

一橋大学を定年退職後、2000年4月から龍谷大学経済学部教授となる[7]

2009年当時、同年4月に同大学を退職し、世界人権問題研究センター嘱託研究員に就職予定とされている[7]

評価

中村(2009,pp.77-78)は、1969年の劉祭品事件に関わっていた頃、田中は、当時の左翼活動の主流だったデモ・集会のような示威活動や、党派的なイデオロギー論争には関与せず、東京華僑総会出入国管理局、親中国派の自民党議員、国際人権派弁護士などの関係者への相談や交渉、関係先への情報提供や情報収集にあたり、法令や先例の調査を重視した活動をしており、中国社会主義のイデオロギーに共鳴して日中友好運動を進める人々の間で不思議な実務派と見なされていたといい、1972年の三木亘「地域研究と歴史学」[9]が田中の活動について論じるなど、当時からその活動が評価されていた、としている。

著作物

  • 2008 田中宏「花岡和解の事実と経過を贈る」『世界』2008年5月号、岩波書店、pp.267-278
  • 2002 田中宏(編)『在日コリアン権利宣言』〈岩波ブックレット566〉岩波書店、2002年
  • 2000 古庄正、佐藤健生、田中宏『日本企業の戦争犯罪-強制連行の企業責任』創史社、2000年
  • 1995 田中宏・松沢哲成『中国人強制連行資料:「外務省報告書」全5分冊ほか』現代書館、1995年、全国書誌番号:96000488
  • 1994 栗屋憲太郎、田中宏、三島憲一、広渡清吾、望田幸男、山口定『戦争責任・戦後責任-日本とドイツはどう違うか』〈朝日選書506〉朝日新聞社、1994
  • 1991 田中宏『在日外国人』〈岩波新書〉岩波書店、1991年、4-00-430171-8
  • 1990 田中宏・内海愛子・新美隆(編)『資料 中国人強制連行の記録』明石書店、1990年
  • 1987 田中宏・内海愛子・石飛仁(解説)『資料 中国人強制連行』明石書店、1987年
  • 1981 田中宏「マラヤ軍政と戦後日本-中島氏の「宣言」と篠崎氏の「回想録」をめぐる考察」『愛知県立大学外国語学部紀要』No.14、1981年、NDLJP:1797429 (閉)、pp.73-97
  • 1976 田中宏(編)『アジア人との出会い-国際交流とは何か』田畑書店、1976年、全国書誌番号:72006576
  • 1973 永井道雄、原芳男、田中宏『アジア留学生と日本』〈NHKブックス〉日本放送出版協会、1973年、全国書誌番号:71018119
  • 1972 田中宏(編)『日本を見つめるアジア人の眼』田畑書店、1972年、全国書誌番号:72002949

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 中村(2009)p.75
  2. 2.0 2.1 中村(2009)p.76
  3. 3.0 3.1 中村(2009)pp.74-76
  4. 中村(2009)pp.73-74
  5. 5.0 5.1 5.2 中村(2009)pp.76-77
  6. 6.0 6.1 中村(2009)p.74
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 中村(2009)p.78
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 新美(2006)p.168
  9. 『岩波講座 世界歴史』第30巻、p.420

参考文献