「木谷実」の版間の差分
(著書) |
細 |
||
59行目: | 59行目: | ||
== 著書 == | == 著書 == | ||
− | 木谷実『新布石の針路 : 木谷実昇七段記念』日本棋院,1936年 | + | *木谷実『新布石の針路 : 木谷実昇七段記念』日本棋院,1936年 |
− | 木谷実『わたしの碁 : 木谷実選集 第1巻 (思い出の局)』日本棋院,1967年 | + | *木谷実『わたしの碁 : 木谷実選集 第1巻 (思い出の局)』日本棋院,1967年 |
− | 木谷実『木谷実全集 第1巻』筑摩書房,1977年 | + | *木谷実『木谷実全集 第1巻』筑摩書房,1977年 |
− | 木谷実『木谷実全集 第2巻』筑摩書房,1977年 | + | *木谷実『木谷実全集 第2巻』筑摩書房,1977年 |
− | 木谷実『木谷実全集 第3巻』筑摩書房,1977年 | + | *木谷実『木谷実全集 第3巻』筑摩書房,1977年 |
− | 木谷実『木谷実全集 第4巻』筑摩書房,1977年 | + | *木谷実『木谷実全集 第4巻』筑摩書房,1977年 |
− | 木谷実『木谷実全集 第5巻』筑摩書房,1978年 | + | *木谷実『木谷実全集 第5巻』筑摩書房,1978年 |
− | 木谷実『打ち込みと消し』実業之日本社,1957年 | + | *木谷実『打ち込みと消し』実業之日本社,1957年 |
− | 木谷実『布石と定石の統合』誠文堂,1934年 | + | *木谷実『布石と定石の統合』誠文堂,1934年 |
− | 木谷実『機山遺譜』機山会,1942年 | + | *木谷実『機山遺譜』機山会,1942年 |
− | 木谷実『近代囲碁ノート』日本棋院,1955年 | + | *木谷実『近代囲碁ノート』日本棋院,1955年 |
− | 木谷実『中盤戦この一手』東京創元新社,1966年 | + | *木谷実『中盤戦この一手』東京創元新社,1966年 |
− | 木谷実『木谷定石集 [第2] (互先之部)』大阪屋号書店,1957年 | + | *木谷実『木谷定石集 [第2] (互先之部)』大阪屋号書店,1957年 |
− | 木谷実『囲棋革命新布石法 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年 | + | *木谷実『囲棋革命新布石法 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年 |
− | 木谷実『手筋と形 : 木谷システム』池田書店,1959年 | + | *木谷実『手筋と形 : 木谷システム』池田書店,1959年 |
− | 木谷実『木谷実定石集』集文館,1972年 | + | *木谷実『木谷実定石集』集文館,1972年 |
− | 鈴木為次郎, 木谷実『定石小辞典 上 (星・3三・超定石)』誠文堂新光社,1965年 | + | *鈴木為次郎, 木谷実『定石小辞典 上 (星・3三・超定石)』誠文堂新光社,1965年 |
− | 鈴木為次郎,木谷実『定石小辞典 下(小目 高目 目はずし)』誠文堂新光社,1975年 | + | *鈴木為次郎,木谷実『定石小辞典 下(小目 高目 目はずし)』誠文堂新光社,1975年 |
− | 木谷実『囲碁百年 2』平凡社,1980年 | + | *木谷実『囲碁百年 2』平凡社,1980年 |
− | 木谷実『思い出の局』日本棋院,1967年 | + | *木谷実『思い出の局』日本棋院,1967年 |
− | 木谷実『新布石興る』平凡社,1968年 | + | *木谷実『新布石興る』平凡社,1968年 |
− | 木谷実『新布石・木谷定石』日本棋院,1968年 | + | *木谷実『新布石・木谷定石』日本棋院,1968年 |
− | 木谷実『新布石法 : 囲棋革命 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年 | + | *木谷実『新布石法 : 囲棋革命 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年 |
− | 木谷実,久保松勝喜代『囲碁の研究 : 玄覧・機山夜話』博文館,1937年 | + | *木谷実,久保松勝喜代『囲碁の研究 : 玄覧・機山夜話』博文館,1937年 |
− | 木谷実,前田陳爾『新旧綜合現代新布石法』大阪屋号書店,1952年 | + | *木谷実,前田陳爾『新旧綜合現代新布石法』大阪屋号書店,1952年 |
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2017年9月13日 (水) 23:50時点における版
木谷 実(きたに みのる、1909年1月25日 - 1975年12月19日)は、昭和を代表する囲碁棋士。獲得タイトル数は4。紫綬褒章受章。従四位勲二等瑞宝章。2010年に日本棋院囲碁殿堂入り。
経歴
1909年(明治42年)1月25日兵庫県神戸市水木通に生れる[1]。父親は理髪業を営み、実は第一子である。小さい頃から知人に将棋と囲碁を習い、8歳の頃、鳥居鍋次郎初段に入門し、鴻原正広に師事した。鳥居の二段昇任パーティーで久保松勝喜代四段を紹介され、大正7年、久保松勝喜代八段に入門した。久保松門下には橋本宇太郎(後に本因坊)がいた。久保松の紹介で東京のトップ棋士鈴木為次郎名誉九段に弟子入りするため、高等小学校を中退して1921年(大正10年)に12歳で上京する[2]。鈴木六段の家に内弟子としてすぐに住み込む予定であったが、たまたま改築中であったため久保松のツテで相撲の二所ノ関部屋に下宿した。翌年春まではそこから鈴木六段の家に通って指導を受けた。このとき二所ノ関部屋にいた玉錦(のち横綱)などとも親交を深めた。 1924年(大正13年)2月15日付入段する。1926年春、日本棋院定式手合で二段に昇段。同年夏、推薦により三段に進む。 1927年には毎日新聞主宰の新進打切碁戦で十人抜きを達成した(1月から5月掲載)。18歳、四段の時、日本棋院と棋正社との対抗戦で8人抜きを成し遂げ、新進木谷の声価は決定づけられた。3月に四段に昇進。 1930年2月15日、五段に昇進。鈴木為次郎の許から独立し妹の幸子と一緒に青山の家に住む。 1931年10月10日に柴野美春(1910.3.16-1991.6.3)と結婚し、麹町に新所帯を構える。柴野美春は長野県地獄谷の出身で、1929年に坂口常次郎五段がたまたま木谷を伴って休暇に訪れ、その時に知り合った。 1933年夏に、木谷実と呉清源は信州の地獄谷温泉で新布石を研究し、秋頃から2人で実戦で打ち出した。 1934年(昭和9年)2月、六段に昇進。呉清源(当時五段)との第一次十番碁を開始。三勝三敗となり、第六局で木谷昇段のため打ち切りとなる。 1936年1月1日付けで七段の免状を授与される。
1938年本因坊秀哉の引退に際し「本因坊名人引退碁」の相手に選ばれた。持ち時間が40時間という長丁場で、6月26日に開始し、打ち継ぎ15回を経て、12月4日に終局した。結果は木谷の先番五目勝に終わる。この対局の模様は川端康成が観戦記に執筆し、それをもとに小説『名人』を執筆した。 1939年6月、「木谷・呉清源十番碁」(第二次)が開始される。木谷の4勝6敗(1941年(昭和16年)まで)。 1942年9月1日に呉清源とともに八段に昇進した。 1947年(昭和22年)、岩本薫和本因坊に挑戦するが、2-3で敗退した。 1953年(昭和28年)、高川秀格本因坊(高川格)に挑戦するが、4-2で敗退した。 1954年(昭和29年)、脳溢血で倒れ、二年間療養に入った。 1956年12月、第二期最高位戦リーグで前田陳爾八段を破り、九段に昇進した。
1957年、第2期最高位戦で坂田栄男最高位を3-1で破りタイトルを奪取した。 1958年、第3期最高位戦で島村俊廣八段を3-2で破りタイトル防衛した。 1959年(昭和34年)、高川秀格本因坊に挑戦するが、4-2で敗退した。 1960年、第7回NHK杯で優勝。 1961年、第8回NHK杯準優勝。 1965年、紫綬褒章受章。1965年から1969年にかけて日本棋院理事となる。 1974年(昭和49年)、3月木谷道場閉鎖。 1975年(昭和50年)、12月19日心不全のため平塚の自宅で死去した。12月28日、日本棋院葬。 1976年、従四位勲二等[[瑞宝章](没後受章)。 2010年、囲碁殿堂に入る。
棋風
- 棋風は3回の変遷がある。低段の頃は戦闘的な棋風の力戦で相手をなぎ倒し「怪童丸」と呼ばれた[3]。1936年ごろからの中期は実利を重んじる棋風となり中盤では相手に大模様を張らせて突入する戦法を採用していた。円熟期では独自の手厚さを維持しつつ均整のとれた碁になった。
- 驚異的な読みの深さが特徴で、妥協なく深く読み、妥協がないため、木谷の碁は険しい変化が多い。
- 昭和8年に呉清源と新布石法を発表し、位の高い碁に変わった[4]。
- 「木谷定石」は木谷が好んで打った型であり、他の棋士はほとんど採用せず、一般には不利といわれているが、それでも使い続ける愚直さが見られた。
人物
- 木谷は相撲部屋に住んでいたころ、部屋の力士たちに負けないくらい、ちゃんこを食べていた。
- 本因坊に3度挑戦したがいずれも敗れ、悲劇の棋士と呼ばれる。
- 小林光一は「先生にとって碁盤というのは「真理を追求する場所」ですから「一手もおろそかにしてはいかん」という思い」があったと語る[5]。
新布石
- 新布石が一般に広がったのは木谷実・呉清源・安永一共著の「囲碁革命・新布石法」が出版されたのがきっかけであった。安永が「発売当日、本を買いに来た人が二重三重に取り巻いた」と言ったが、碁の本で10万部売れたことは極めて珍しい[6][7]。
- 中央を重視しつつスピーディーに展開しようというのが新布石の考え方である。序盤も含めた発想の転換を迫り、打ち方が「革命的」に変わった。部分よりも碁盤全体を広く捉えるという発想が考え方の基本となっている。
- 囲碁界では初手を右上隅の「小目」に打つ方法が良い打ち方であるとされていた。木谷と呉の二人は小目ではなく、その隣の星に打ったらどうか、更にはその更に内側の点(五五)に打ったらどうか、という誰もが打ったことのない、新しい布石を考え出した。
木谷道場
1937年(昭和12年)、大磯町から平塚に転居し、その後、桃浜町に居を移して「平塚木谷道場」を開設する。 自宅の木谷道場は内弟子をとり多くの棋士を育てた。「木谷道場」には、全国は基より韓国からも才能豊かな弟子が集まり、木谷は戦前・戦後を通し、一貫してプロの囲碁棋士を育てた。ピーク時に内弟子は30人を越えていた[8]。1985年ら1998年まで三大タイトル、1985年から1988年まで七大タイトルを木谷一門で独占していた。70名以上が弟子入りし50名以上がプロ棋士となった。人材の多くは、木谷實が全国で行った指導碁(稽古碁)の際に見出された子供たちで、木谷はこの子供たちを何不自由なく囲碁だけに集中できる環境と場所を自宅に確保し、自分の子供と同じように育てた[2]。
美春夫人は、けがや病気が起きるなら、預かっている子供たちでなく、自分の家族の方に当たってほしいと、神様に真剣にお祈りしていたという[8]。
門下生
門下に 戸沢昭宣九段、大竹英雄名誉碁聖、岩田達明九段、故大平修三九段、故加藤正夫名誉王座、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫)、武宮正樹九段、小林光一名誉棋聖、趙治勲名誉名人、小林覚九段、梶和為九段、石榑郁郎九段、佐藤昌晴九段、宮沢吾朗九段、故上村邦夫九段、本田幸子七段、小林健二七段、小川誠子六段、小林千寿六段、故筒井勝美四段ほか多数[2]。
内弟子の朝はそうじから始まり、碁の勉強、朝食の台所当番を行う。石田芳夫二十四世本因坊のキャベツの千切りとカレーは絶品と言われた[9]。早碁の一番手直りで、一か月に三百局以上を打っている[10]。
著書
- 木谷実『新布石の針路 : 木谷実昇七段記念』日本棋院,1936年
- 木谷実『わたしの碁 : 木谷実選集 第1巻 (思い出の局)』日本棋院,1967年
- 木谷実『木谷実全集 第1巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷実全集 第2巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷実全集 第3巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷実全集 第4巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷実全集 第5巻』筑摩書房,1978年
- 木谷実『打ち込みと消し』実業之日本社,1957年
- 木谷実『布石と定石の統合』誠文堂,1934年
- 木谷実『機山遺譜』機山会,1942年
- 木谷実『近代囲碁ノート』日本棋院,1955年
- 木谷実『中盤戦この一手』東京創元新社,1966年
- 木谷実『木谷定石集 [第2] (互先之部)』大阪屋号書店,1957年
- 木谷実『囲棋革命新布石法 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年
- 木谷実『手筋と形 : 木谷システム』池田書店,1959年
- 木谷実『木谷実定石集』集文館,1972年
- 鈴木為次郎, 木谷実『定石小辞典 上 (星・3三・超定石)』誠文堂新光社,1965年
- 鈴木為次郎,木谷実『定石小辞典 下(小目 高目 目はずし)』誠文堂新光社,1975年
- 木谷実『囲碁百年 2』平凡社,1980年
- 木谷実『思い出の局』日本棋院,1967年
- 木谷実『新布石興る』平凡社,1968年
- 木谷実『新布石・木谷定石』日本棋院,1968年
- 木谷実『新布石法 : 囲棋革命 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年
- 木谷実,久保松勝喜代『囲碁の研究 : 玄覧・機山夜話』博文館,1937年
- 木谷実,前田陳爾『新旧綜合現代新布石法』大阪屋号書店,1952年
参考文献
- ↑ 木谷實,日本棋院
- ↑ 2.0 2.1 2.2 木谷道場と木谷実年譜平塚市まちづくり財団
- ↑ 菊池 達也『木谷実とその時代』,棋苑図書,244p,ISBN:48736515141999年
- ↑ 呉清源, 木谷実,安永一『新布石法』三一書房,ISBN:4380942821,1994
- ↑ 小林光一名誉棋聖が語る師匠・木谷實九段,NHK出版,2014-04-06
- ↑ 木谷実・呉清源・安永一『囲棋革命新布石法:星.三々.天元の運用』154p,平凡社,1934年
- ↑ 地獄谷温泉で新布石研究(寄稿連載)読売新聞,2013-02-12
- ↑ 8.0 8.1 木谷 美春『木谷道場と七十人の子どもたち』,日本放送出版協会,ISBN: 414080047X,1992
- ↑ 木谷道場での濃密な生活(寄稿連載1)読売新聞,2012-02-14
- ↑ 木谷道場での濃密な生活(寄稿連載2)読売新聞,2012-02-14