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== 経歴 == | == 経歴 == | ||
1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納与三郎として生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の日淵上人に弟子入りして出家した。 | 1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納与三郎として生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の日淵上人に弟子入りして出家した。 | ||
− | 仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。[[1587年]](天正15年)閏11月13日、[[徳川家康]]は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の奥平信昌が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものである。 | + | 仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。 |
+ | [[1578]](天正6年)、上洛した[[織田信長]]が寂光寺に立ち寄って僧・日海(本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒めたたえられ、「名人」の用語の起源とされている。このとき算砂は19歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられる<ref>[http://textview.jp/post/hobby/21521 信長をして「まさに神業」と言わしめた棋士・本因坊算砂]NHK出版,2015-08-17</ref>。 | ||
+ | [[1587年]](天正15年)閏11月13日、[[徳川家康]]は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の奥平信昌が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものである。 | ||
+ | [[1588年]](天正16年)に[[豊臣秀吉]]御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。 | ||
[[1603年]](慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。 | [[1603年]](慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。 | ||
+ | [[1603年]]、日本初の囲碁の本『本因坊碁経』を刊行した。 | ||
後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、[[権大僧都]]の位に上った。 | 後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、[[権大僧都]]の位に上った。 | ||
[[1611年]](慶長16年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。 | [[1611年]](慶長16年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。 | ||
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== 人物 == | == 人物 == | ||
*林元美(1778-1861)の著書『爛柯堂棊話』には、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の三武将と囲碁を通じて接したと記されている<ref> 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978</ref>。 | *林元美(1778-1861)の著書『爛柯堂棊話』には、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の三武将と囲碁を通じて接したと記されている<ref> 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978</ref>。 | ||
− | * | + | *優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となる。 |
*『兼見卿記』は | *『兼見卿記』は | ||
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+ | と記しており、信長が碁に関心があったことを示す<ref>吉田兼見『兼見卿記』1575年</ref>。 | ||
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と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。 | と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。 | ||
*墓所は京都[[寂光寺]]である。 | *墓所は京都[[寂光寺]]である。 | ||
*辞世の句は「碁なりせば 劫なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。 | *辞世の句は「碁なりせば 劫なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。 | ||
*1923年(大正12年)には、[[寂光寺]]で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。 | *1923年(大正12年)には、[[寂光寺]]で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。 | ||
+ | *[[寂光寺]]には、「碁道名人 第一世本因坊算砂旧跡」の碑が設置されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160106/dde/012/040/008000c 本因坊70年の旅],毎日新聞,2016年1月6日</ref>。 | ||
== 棋風 == | == 棋風 == | ||
+ | *最古期の棋譜は天正年間の本因坊算砂と利玄との対局である<ref>古作登『本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する : 囲碁将棋界の基礎を築いた400年前の「伝説の棋士」』大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要,vol15, pp.215-240, 2013-06</ref>。 | ||
== 門下生 == | == 門下生 == |
2017年9月10日 (日) 10:54時点における版
本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ、1559年(永禄2年)- 1623年6月13日( 元和9年5月16日))は、囲碁棋士。一世名人。初代本因坊であり、本因坊家の始祖である。安土桃山時代後期から江戸時代にかけて活躍し、日本の囲碁界の基礎を築いた。2004年、囲碁殿堂入りした。
経歴
1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納与三郎として生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の日淵上人に弟子入りして出家した。 仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。 1578(天正6年)、上洛した織田信長が寂光寺に立ち寄って僧・日海(本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒めたたえられ、「名人」の用語の起源とされている。このとき算砂は19歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられる[1]。 1587年(天正15年)閏11月13日、徳川家康は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の奥平信昌が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものである。 1588年(天正16年)に豊臣秀吉御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。 1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。 1603年、日本初の囲碁の本『本因坊碁経』を刊行した。 後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、権大僧都の位に上った。 1611年(慶長16年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。 1623年(元和9年)5月16日、後継の算悦の後見を弟子の中村道碩に託して死去した。
人物
- 林元美(1778-1861)の著書『爛柯堂棊話』には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三武将と囲碁を通じて接したと記されている[2]。
- 優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となる。
- 『兼見卿記』は
三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也。
と記しており、信長が碁に関心があったことを示す[3]。
- 『伝信録』は
慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事 一 五拾石五人扶持 本因坊
と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。
- 墓所は京都寂光寺である。
- 辞世の句は「碁なりせば 劫なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。
- 1923年(大正12年)には、寂光寺で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。
- 寂光寺には、「碁道名人 第一世本因坊算砂旧跡」の碑が設置されている[4]。
棋風
- 最古期の棋譜は天正年間の本因坊算砂と利玄との対局である[5]。