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== 経歴 ==
 
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1874年(明治7年)6月24日東京の[[芝]]桜川町に生まれる<ref name=zensyu5>[本因坊秀哉全集]第5巻,秀哉会,日本棋院,ISBN:4-8182-0158-8,Date:1981-06-10</ref>(本因坊自伝では東京の[[番町]]とする<ref name=jiden>[『本因坊自伝』,本因坊秀哉著]Private Lands,2015</ref>)。名は田村保寿、祖父は肥前唐津藩・小笠原氏の家臣。赤坂氷川町・神田猿楽町・牛込榎町などに転居しながら育つ。内務省勤務の父田村保永から囲碁を教わり、8歳で碁を解す。父に同行して、神田猿楽町の碁席小野塚に通う。10歳の時席亭小野塚の勧めで、方円社に入塾、[[村瀬秀甫]]に師事した。[[1884年]]母、[[1891年]]父を失う。[[1891年]]方円社から二段格を認定され、石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社三小僧と呼ばれた<ref name=zensyu5></ref>。その後、青年期の放浪時代を過ごす。
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1874年(明治7年)6月24日東京の[[芝]]桜川町に生まれる<ref name=zensyu5>『本因坊秀哉全集』第5巻,秀哉会,日本棋院,ISBN:4-8182-0158-8,Date:1981-06-10</ref>(本因坊自伝では東京の[[番町]]とする<ref name=jiden>[『本因坊自伝』,本因坊秀哉著]Private Lands,2015</ref>)。名は田村保寿、祖父は肥前唐津藩・小笠原氏の家臣。赤坂氷川町・神田猿楽町・牛込榎町などに転居しながら育つ。内務省勤務の父田村保永から囲碁を教わり、8歳で碁を解す。父に同行して、神田猿楽町の碁席小野塚に通う。10歳の時席亭小野塚の勧めで、[[方円社]]に入塾、[[村瀬秀甫]]に師事した。[[1884年]]母、[[1891年]]父を失う。[[1891年]]方円社から二段格を認定され、石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社三小僧と呼ばれた<ref name=zensyu5></ref>。その後、青年期の放浪時代を過ごす。
 
[[金玉均]]の紹介で十九世[[本因坊秀栄]](当時七段)と対局し、三子で三連勝し、四段の免状を授けられる。[[1897年]]4月には五段に昇段、[[1900年]]六段、[[1905年]]5月に七段に昇段した。[[1907年]]中川千治六段との十番碁を開始する。対局場は上野・鶯谷の「伊香保」。秀栄亡き後の第一人者を決定する一戦として人気を集めた。第1局2目勝、第2局5目負、第三局中押勝、第4局8目勝で従前の打込み2局を加算し、先二の手合いとなる。11月30日修了後に手合いは中止となる。
 
[[金玉均]]の紹介で十九世[[本因坊秀栄]](当時七段)と対局し、三子で三連勝し、四段の免状を授けられる。[[1897年]]4月には五段に昇段、[[1900年]]六段、[[1905年]]5月に七段に昇段した。[[1907年]]中川千治六段との十番碁を開始する。対局場は上野・鶯谷の「伊香保」。秀栄亡き後の第一人者を決定する一戦として人気を集めた。第1局2目勝、第2局5目負、第三局中押勝、第4局8目勝で従前の打込み2局を加算し、先二の手合いとなる。11月30日修了後に手合いは中止となる。
  
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その後[[1910年]]に井上因碩と十番碁を打ち、9局目で先二に打込むなど、すべての棋士達を先二以下に打込んだ。
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[[1911年]]に八段昇段。研究会「月曜会」を主宰する。
 
[[1911年]]に八段昇段。研究会「月曜会」を主宰する。
 
[[1914年]](大正3年)3月、41歳の時に[[名人 (囲碁)|名人]]に推挙され、名実ともに棋界第一人者になる。
 
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[[1919年]]9月27日、[[段祺瑞]]の招待で、[[広瀬平治郎]]、[[高部道平]]らとともに訪中する。11月24日帰国。
 
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[[1924年]]日本棋院が創設され、[[中川亀三郎]]とともに元老に押される。
 
[[1926年]]赤坂溜池に日本棋院が竣工し、落成式に棋士代表として答辞を述べた。
 
[[1926年]]赤坂溜池に日本棋院が竣工し、落成式に棋士代表として答辞を述べた。
 
[[1926年]]9月27日、正力読売新聞の企画で、日本棋院対棋正社の争碁に総帥同士として、[[雁金準一]]との一局を読売楼上の一室で打つ。結果は10月18日、254手にて雁金の時間切れ負けとなる。
 
[[1926年]]9月27日、正力読売新聞の企画で、日本棋院対棋正社の争碁に総帥同士として、[[雁金準一]]との一局を読売楼上の一室で打つ。結果は10月18日、254手にて雁金の時間切れ負けとなる。
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== 棋風。人物 ==
 
== 棋風。人物 ==
 
*棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。
 
*棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。
*木谷實との引退碁は小説「名人」(川端康成)を生んだ。観戦記者は川端康成、解説は呉清源六段。川端康成はこの観戦記を題材にして小説「名人」を書いた。
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*木谷實との引退碁は小説「名人」(川端康成)を生んだ。観戦記者は川端康成、解説は[[呉清源]]六段(当時)。川端康成はこの観戦記を題材にして小説「名人」を書いた。
  
 
=== 日本棋院 ===
 
=== 日本棋院 ===

2017年8月23日 (水) 23:18時点における版

本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい、1874年明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日)は、明治41年本因坊21世を継ぎ,1914年(大正3年)世襲制では最後の名人となった。2008年囲碁殿堂入り。


経歴

1874年(明治7年)6月24日東京の桜川町に生まれる[1](本因坊自伝では東京の番町とする[2])。名は田村保寿、祖父は肥前唐津藩・小笠原氏の家臣。赤坂氷川町・神田猿楽町・牛込榎町などに転居しながら育つ。内務省勤務の父田村保永から囲碁を教わり、8歳で碁を解す。父に同行して、神田猿楽町の碁席小野塚に通う。10歳の時席亭小野塚の勧めで、方円社に入塾、村瀬秀甫に師事した。1884年母、1891年父を失う。1891年方円社から二段格を認定され、石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社三小僧と呼ばれた[1]。その後、青年期の放浪時代を過ごす。 金玉均の紹介で十九世本因坊秀栄(当時七段)と対局し、三子で三連勝し、四段の免状を授けられる。1897年4月には五段に昇段、1900年六段、1905年5月に七段に昇段した。1907年中川千治六段との十番碁を開始する。対局場は上野・鶯谷の「伊香保」。秀栄亡き後の第一人者を決定する一戦として人気を集めた。第1局2目勝、第2局5目負、第三局中押勝、第4局8目勝で従前の打込み2局を加算し、先二の手合いとなる。11月30日修了後に手合いは中止となる。

1907年、秀栄は後継を決めずに死去。坊門では、後継者に実力第一の田村を推す派と、秀栄の遺志を優先して雁金を推す派に分かれたが、本因坊秀元が一旦二十世本因坊に就いて、1年後に田村に本因坊位を譲ることでこの事態を収拾した。

1908年、34歳で二十一世本因坊秀哉に就任した。襲名は1908年2月27日、 その後1910年井上因碩と十番碁を打ち、9局目で先二に打込むなど、すべての棋士達を先二以下に打込んだ。 1911年に八段昇段。研究会「月曜会」を主宰する。 1914年(大正3年)3月、41歳の時に名人に推挙され、名実ともに棋界第一人者になる。 1917年5月6日、麹町、有楽町の大松園にて名人披露会を開催、参加者は500名に及び、盛会であった。 1919年9月27日、段祺瑞の招待で、広瀬平治郎高部道平らとともに訪中する。11月24日帰国。

1924年日本棋院が創設され、中川亀三郎とともに元老に押される。 1926年赤坂溜池に日本棋院が竣工し、落成式に棋士代表として答辞を述べた。 1926年9月27日、正力読売新聞の企画で、日本棋院対棋正社の争碁に総帥同士として、雁金準一との一局を読売楼上の一室で打つ。結果は10月18日、254手にて雁金の時間切れ負けとなる。 1933~34年、読売新聞主催の「日本囲碁選手権手合」に優勝した呉清源五段と向先で対戦する。読売新聞の大宣伝と、呉の斬新な布石によって大いに注目を集めたが、秀哉は2目勝ちを収めた。 1935年11月9日、台湾記念博覧会から招待され、神戸から台湾全島を1ヵ月余にわたり訪問する。 1938年、木谷実との引退碁を打った。この対局で初めて「封じ手(ふうじて)」制が採用された。 1940年1月18日、実力制初代本因坊の決定を見ることなく熱海のうろこ屋旅館で病没。巣鴨本妙寺(豊島区)で日本棋院葬が執り行われ、歴代本因坊が眠る同寺に葬られた。

棋風。人物

  • 棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。
  • 木谷實との引退碁は小説「名人」(川端康成)を生んだ。観戦記者は川端康成、解説は呉清源六段(当時)。川端康成はこの観戦記を題材にして小説「名人」を書いた。

日本棋院

  • 大正初期に、本因坊門、方円社等各派合同機運が生まれ、1923年1月21日には本因坊家と方円社が合同して、丸ビル7階(方円社新会館)で中央棋院発会式を行うも、4月にふたたび分裂した。しかし関東大震災で各派は大きな打撃を受け、碁界大合同の機運が盛り上がり、1924年07月17日日本棋院が設立された。参加棋士は38名であった。秀哉は棋院最上位者として定式手合(大手合)に出場する。
  • 雁金準一らは日本棋院を脱退し、同年10月25日に棋正社を設立する。両者は読売新聞正力松太郎社長仲介のもと、「大正大争棋」と銘打った大規模な対抗戦を開始する。1926年に行われたその初戦で、秀哉は雁金準一との主将決戦に臨んだ。激しいねじり合い勝負の末に勝利し、不敗名人の名を高めた。読売新聞の発売部数が一挙の三倍になったと言われる。
  • 日本棋院最優秀棋士に贈られる秀哉賞(1963年創設)が創設されている。
  • 命日の1月18日は秀哉忌として、毎年、その時々の本因坊位保持者や関係者による法要が行われている[3]

門下生

門下に鹿間千代治、宮坂寀二、蒲原繁治、村田整弘、小岸壮二林有太郎福田正義増淵辰子村島誼紀前田陳爾、苅部栄三郎、宮下秀洋、武田博愛らがいる。

参考文献

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  1. 1.0 1.1 『本因坊秀哉全集』第5巻,秀哉会,日本棋院,ISBN:4-8182-0158-8,Date:1981-06-10
  2. [『本因坊自伝』,本因坊秀哉著]Private Lands,2015
  3. 囲碁 井山本因坊、「秀哉忌」営む,毎日新聞,Date:2017-01-19