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[[アラビア語]]はある程度喋れるらしいというのは嘘であり、アラビア語はできない。なぜならば、高遠がユーチューブの映像でイラクで話している言語は英語であり、アラビア語ではない。また、高遠の公式ブログでも通訳を募集していることを考えれば、高遠がアラビア語ができないということは明らかである。支援対象者も10代男子のみのストリートチルドレン(ジャンキー)に限定されていたことなどで波紋を呼んだ。 | [[アラビア語]]はある程度喋れるらしいというのは嘘であり、アラビア語はできない。なぜならば、高遠がユーチューブの映像でイラクで話している言語は英語であり、アラビア語ではない。また、高遠の公式ブログでも通訳を募集していることを考えれば、高遠がアラビア語ができないということは明らかである。支援対象者も10代男子のみのストリートチルドレン(ジャンキー)に限定されていたことなどで波紋を呼んだ。 |
2017年6月24日 (土) 10:33時点における版
高遠 菜穂子(たかとお なほこ、1970年1月14日 - )は、日本のプロ市民。住所は北海道千歳市上長都1058。国に多大な損害を与えたキチガイである。
アラビア語はある程度喋れるらしいというのは嘘であり、アラビア語はできない。なぜならば、高遠がユーチューブの映像でイラクで話している言語は英語であり、アラビア語ではない。また、高遠の公式ブログでも通訳を募集していることを考えれば、高遠がアラビア語ができないということは明らかである。支援対象者も10代男子のみのストリートチルドレン(ジャンキー)に限定されていたことなどで波紋を呼んだ。
人物
1970年1月14日 に北海道千歳市に生まれる。麗澤大学外国語学部英語学科を卒業する。千歳市にあるカラオケボックスの経営にたずさわる。
2000年にインドに行き、カルカッタにある「マザーテレサの家」でボランティア活動を行う。2001年にカンボジアを訪れ、エイズホスピスで活動を始める。2003年5月にイラクに初めて入国する。その後、その当地で、NGOとは別に、個人の立場で、「人道支援」活動に関わる。
外務省からの渡航延期勧告が出ているにもかかわらず、4回目にイラク訪問した最中の2004年4月7日に、他の日本人男性2名とともに、「サラヤ・ムジャヒディン」と名乗る武装勢力に監禁され、そのビデオが公開された(イラク日本人人質事件)。日本の外務省が現地のイスラム聖職者協会に働きかけるなど尽力した結果、4月15日にイスラム聖職者協会のクバイシ師の交渉により解放された。
高遠は「12歳で煙草を覚え、13歳でトルエンにはまり、15歳でガンジャマンになった」と『週刊新潮』2004年4月22日号に執筆した。そして、高遠はイラクから帰国後に日本で記者会見を行う際に、飴を舐めていたことがきっかけで「アメウマー」という愛称がつけられた。また、高遠が日本でDQNな行動を行ったことにより、ほぼすべての日本人が高遠を激しく批判したことを題材とした「バッシング」という映画が2005年にリリースされた。
さらに、イラク人質事件に関して深い関心をよせている伊藤めぐみ監督は、2013年に人質になった高遠や今井のその後に関する『ファルージャ、イラク戦争日本人人質事件…そして』と称するドキュメンタリー映画を制作し、高遠と今井はこの映画に出演したが、高遠らとともに人質になった郡山はなぜかこの映画に出演しなかった。
一緒に行ったのは、
- 今井紀明(18) - 1985年6月15日札幌市西区生まれ。「NO!!小型核兵器 サッポロ・プロジェクト」代表・フリーライター。父は小学校の教師、母は看護師で共産党系・勤労者医療協会札幌西区病院勤務。高校時代から劣化ウラン弾に関心を持って市民団体での活動に没頭。早稲田大学のAO入試に挑んだが落ちて、進路未定のままだった。当然大学入試の勉強は出来てないだろうから英語も喋れない。ましてアラビア語が喋れるわけでもない。この時点では出版経験もない。今井はその後立命館アジア太平洋大学に入学して卒業し、食肉を扱う商社に就職したが退職し、現在は関西において「D×P」と称する特定非営利活動法人を立ち上げて活動を行っている。そして、今井は立命館アジア太平洋大学後、高遠らと同様に激しいバッシングを受けたことが原因で鬱がひどかった時に、今井と仲良くしてくれた在日朝鮮人とは現在もD×Pの活動をともに行っている。
- 郡山総一郎(32) - 1971年11月16日宮崎市生まれ。フォトジャーナリスト、元自衛官、日章学園高校自動車科卒業後、陸上自衛隊入隊。美容師の女性と結婚、二児の父となるも自衛隊除隊後に離婚。30歳近くになってフリージャーナリストを志願し、週刊朝日などに写真を寄稿。写真はともかく、この時点でジャーナリストとしてのキャリアは限りなくゼロといえる。郡山はイスラエルに関する写真集を出版した際に我が国における戦場カメラマンの第一人者である広河隆一も受賞した「よみうり写真大賞」を受賞した経験があり、東日本大震災の後は福島に関する取材を行ったり、現在は写真家として孤独死した自宅などを撮影し活動を継続している。
事件当時「ノーコイズミ」Tシャツを持参しており、VTRでの「ノーコイズミ」の合唱もこれに由来していた。
しかし解放後ほどなくして「再びイラクに戻りたい」という内容の発言をしたことについて、日本の一般市民から非難を浴び、当時の総理大臣の小泉純一郎からも批判を浴びた。また、政府の渡航延期勧告を無視した上での「人道支援」を標榜する個人、団体の活動について「自己責任」についての議論があった。
その後は日本各地で講演会活動をしている。イラクの隣国のヨルダンからのイラク支援活動にも参加する。2009年4月に、政府の渡航延期勧告を再び無視してイラクを再び訪れる。その後もイラクにおいて、路上生活者の自立支援プロジェクトに参加する。また、週刊金曜日に「イラクの現状」とイラク駐留アメリカ軍の批判を掲載している。
高遠はイラクにおいてIHOと自称するNGOのような組織を一人で立ち上げて活動を行っており、高遠がイラク人たちを支援するための物資には「ARI-KATO」や「i-h-o」や「iho-net」などと記載されたシールが貼られている。しかし、このシールを制作して貼るための経費は高遠のポケットマネーから出ているのか、またはイラク人に食糧や医薬品などを供給するために用いられるべき貴重なカンパから出されているのかに関しては不明である。
また、高遠は2004年に行った愚行によりほぼすべての日本人から嫌悪されているが、高遠によるイラク「支援」活動に理解を示す数少ない人物は、岡真理、志葉玲(本名:金井玲)、広河隆一、増山麗奈などであり、いずれもイラクなどへの渡航歴があるプロ市民に限定されている。
家族
- 母:高遠京子
- 妹:井上綾子
- 弟:高遠修一
弟は拓殖大中退後ステンドグラス職人を経て、現在はテレクラ経営、社団法人千歳青年会議所専務理事。妹は「イラクの声を届ける会」実行委員長、嫁ぎ先はスーパー銭湯。
著書
- 『愛してるって、どう言うの? ―生きる意味を探す旅の途中で―』文芸社、2002年6月。 - ISBN 4835540743
- 『戦争と平和 それでもイラク人を嫌いになれない』講談社、2004年8月。 - ISBN 4062125412
番組
2010年3月3日に、NHKのクローズアップ現代で、高遠の活動を好意的に報じた番組「終わらぬイラク〜高遠菜穂子さんの6年〜」が放映された。
関連項目
外部リンク
- イラク・ホープ・ダイアリー
- 高遠菜穂子(@NahokoTakato)- Twitter