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親交のある永六輔の引きで[[2000年]]から『[[週刊金曜日]]』編集委員を務めたことがある。しかし、同性愛者を扱った記事における「オカマ」という言葉が[[ホモフォビア]]表現だとして一部のスタッフと対立した。それが直接の原因となり、2001年に編集委員を辞任している。
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時の東京都知事・[[石原慎太郎]]をたびたび批判している。特に2000年4月9日に、石原が[[陸上自衛隊]][[練馬駐屯地]]の創隊記念式典での挨拶の中で、「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」といういわゆる「[[第三国人|三国人]]発言」を行った際には、どのような文脈で「三国人」という言葉を用いようとも、この発言は[[在日韓国・朝鮮人|在日コリアン]]に対する侮辱であり、人種差別であると激しく批判した。この主張のもと石原慎太郎を辞任させるための「石原やめろネットワーク」をはじめとした活動を行っている。ただし多くの在日韓国・朝鮮人は日本領だった戦前に来日しており、現在の多くの在日韓国・朝鮮人はその子や孫である。
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その一環として、2003年4月5日、[[落合恵子]]、[[佐高信]]と連名で『プレ東京都知事選挙』と題するネット投票サイトを開設した。『プレ東京都知事選挙』サイトには石原ら各候補者のプロフィールが書かれていたが、石原についてはきわめて批判的なものだった。このサイトが2ちゃんねるなどで広められたことなどから『祭り』となった。
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フェミニズム系の新聞『[http://www.jca.apc.org/femin/ ふぇみん]』[[2000年]][[4月25日]]号の編集後記で、「戦争になったら韓国と日本のどちらにつくんだと聞く人がいるけど、戦争が起きたら、在日は真っ先に殺されますよ」と述べた。
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[[ワイドショー|ワイドショー番組]]を嫌っている。テレビ番組で「私はワイドショーが嫌いです」と発言したことがある。辛はワイドショー番組を「人のプライバシーを覗き見する下品な番組」と軽蔑する発言をしていた。ワイドショー番組への皮肉をこめて永と[[NHK衛星放送]]の「わいどしょう番組」をプロデュースし出演していた。永は「こういう人がワイドショーの司会をやればテレビもよくなるよ」と発言するほど高く評価している。
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[[外国人参政権]]には賛成の立場をとっている。NHK「[[真剣10代しゃべり場]]」[[2000年]][[7月8日]]放送回に出演した際、日本の国籍を持たない人も日本の参政権を得られるようにすべきだと発言した。ただし韓国では日本人に自由な参政権は付与されていない。
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[[2001年]][[3月5日]]から[[3月9日]]まで[[国際連合|国連]]人種差別撤廃委員会に参加し、その委員会の集まりにおいて、石原を批判するだけにはとどまらず、在日コリアンが[[日本人]]によってさまざまな人種差別に遭い被害を受けたと主張した。またその委員会の集まりにおいて、日本の法律が[[人種差別]]的に作られていて、日本政府が人種差別をしていると世界に向けて主張した。その委員会において、日本人は在日コリアン(主に子どもや児童・生徒)に対して暴力を振るう、人種差別的な人たちであると考える人に賛同するロビイストが多くなったため、国連人種差別撤廃委員会は日本を批判する勧告を出した。
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2003年、反差別・反ファシズム闘争が評価され、[[多田謡子反権力人権賞]]を受賞する。また、[[韓国挺身隊問題対策協議会]](挺対協)が推進する「戦争と女性の人権博物館」日本建設委員会の呼びかけ人となる。
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2008年3月18日、[[恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟]](会長:[[鳩山由紀夫]])に招かれて講演。日本では血のつながりが重視されるあまり在日韓国・朝鮮人を差別、排除する傾向があり、在日コリアンに日本への所属意識が生まれないと述べた。
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2009年11月18日、[[日本の慰安婦|日本軍慰安婦]]問題の立法解決を求める緊急120万人署名の賛同人になる。
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なお、当の石原は、四期目途中の2012年10月に都知事を突如辞任、衆議院議員に転身した。
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== 生前葬 ==
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[[2007年]][[5月5日]]に[[長野県]][[松本市]]の[[神宮寺 (松本市)|神宮寺]]にて生前葬を行なった。生前葬を行った理由は、日本人への「怒りをぶっつける」ことだという。生前葬で辛は『[[千の風になって]]』をもじって「私は迷惑な千の強風になる!!!!」と宣言した。
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== 批判 ==

2016年9月22日 (木) 11:17時点における版

辛 淑玉
辛 淑玉

辛 淑玉(シン スゴ、女性、1959年1月16日- )とは、東京都生まれの実業家のりこえねっと (ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)共同代表、シューレ大学アドバイザー。東京都立第一商業高等学校卒業。在日韓国人3世。先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人をつとめる。

概要

自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める。

生い立ち

東京都渋谷区生まれ、祖父は労働者として働き、父は弁護士を目指して中央大学法科へ入学し卒業した。母は日本生まれ日本育ちの在日二世だった。

4歳の頃、それまで一緒に遊んでいた友だちが幼稚園に入園、「幼稚園に行きたい」と父にねだったが、幼稚園と交渉した結果、朝鮮人の子どもは入園できないことを知った。この体験は、自分が朝鮮人であることを強く自覚する契機となったという。日本の敗戦後、弁護士を目指していた父(渡日より、既に41年が経過)は、韓国政府の決定により、韓国籍を与えられることになった。終戦後は裕福な家庭ではなかったという。

日本の小学校に入学後、朝鮮総聯活動家の「朝鮮学校は、貧しい人にはちゃんと昼食を支給します」の言葉を信じ、朝鮮学校に転校した。転校直後は半日本人を意味する蔑称であえる「パンチョッパリ」と呼ばれ、「総括」と呼ばれる反省会の場で「思想が悪い」と「自己批判」させられることもあった。また、ジーパンを穿いていたというだけで活動家から暴行された。ヘルニアを患っているのはこれが原因である。

収入を得るため、小学校2年のときから内職をし、小学校4年からはヤクルト販売の仕事に従事した。その後成人してから、ヤクルト販売の女性を見かけるたびにヤクルト販売での苦労を思い出し、ヤクルト1本を買い求めては心の中で「ガンバレ」と念じることが習い性という。

転校ばかり続いた彼女は、教室のみんなに紹介されると、まず、一番強そうな男の子を、カバンでバシーッと殴って「 よろしくなー 」と言ってから、悠然と着席した。そうすると、いじめられなかった。給食当番の時は、天敵には「 おい日本人の男って小食なんだって 」と言ってスープを数滴だけ垂らしてにらみつけた。

中学生の頃、美容室のヘアモデルで収入を得たのをきっかけに、ヘアショーにも出るようになった。中学2年のころ、朝鮮学校で夏の遠足「革命キャンプ」のお金が払えなかった。そのことで朝鮮籍の教師に責められたことに対して反論したため、数人の教師から殴られた。その後に家出し親戚の家に逃亡していたが、すぐに連れ戻された。父は手を尽して転校先を探し、日本人が通う杉並区立泉南中学校に転校した。

中学卒業後、東京都立第一商業高等学校に入学した。新宿の焼肉料理店「名月館」などさまざまなアルバイトの収入で2つの予備校、代々木ゼミナール代々木学院に通った。また高校在学中には就職に向けて、商業英語、珠算、簿記、カナタイプなどさまざまな資格検定を取得。高校卒業後は各種のアルバイトに勤しむ。17歳で銀座のモデルクラブに所属した。翌年映画のエキストラ出演で知りあった 「DJ 」に音楽の仕事を紹介してもらい、しばらくモデルと兼業した。

なお、自身のホームページにおいては、自身の経歴について

小学校:転校、不登校の繰り返し。小学校2年まで通う。
中学校:転校、不登校、家出の末、中学校3年の一年間のみ通う。
高校:卓球と絵が上手だったので合格( いまでいう一芸入学 )。
入学当時、「 ツ 」と「 シ 」、「 ン 」と「 ソ 」の違いがわからなかった。
教師のお目こぼし、配慮にて、なんとか卒業。
卒歴:都立第一商業高校( 実際の学歴…小学校2年? )

と記載していた。ただし、都立第一商業高校に一芸入学に類する入学制度は存在しない。

20歳の時博報堂で契約社員(特別宣伝班)。家族のため、夜間はアルバイトを続けた。勤務中の4年間でおよそ1600回司会を務めたのち、1983年頃に退社、フリーランスの広告業者として独立。この頃、本名(辛淑玉)を名乗ることを決意。

1985年、台東区三ノ輪に女性社員1人を雇って人材育成会社・香科舎を設立した。TBS系テレビ番組「サンデーモーニング」やその他の番組にゲストやコメンテーターとして出演した。

名前とアイデンティティ

韓国籍だが、“在日朝鮮人”あるいは“在日コリアン”を自称している。本名である「辛淑玉」のほか、通名として「新山」を用いた新山節子(にいやませつこ)があり、「せっちゃん」と呼ばれて育つ。またモデル時代に、源氏名として辛節子を名乗ったこともある。東京生まれの東京育ちでサバサバした性格と語り口であり、彼女曰く「チャキチャキの江戸っ子」であるとも語っている。

1987年に帰化を申請をしたが、「辛淑玉」の名義はそのまま使いたいと申し出たところ、担当審査官から「もっと日本人らしい名前にしろ」と言われ却下されたという。“当用漢字にも含まれているしそのまま読み仮名抜きで”と申し出や日本語読みならよいかという譲歩にも、改名しないのは「あなたには、よき日本人になろうという意思が感じられない」と担当者から拒絶されたと主張している。

2003年7月30日に愛知淑徳大学で行なった講演「もう一度人権を考える」では、「チョー・ヨンピルさんも植民地時代に付けられた日本の名前持っているわけ」と発言し、第二次世界大戦後の韓国生まれのチョー・ヨンピルが通名を持っているとの主張を展開した。

社会的活動

親交のある永六輔の引きで2000年から『週刊金曜日』編集委員を務めたことがある。しかし、同性愛者を扱った記事における「オカマ」という言葉がホモフォビア表現だとして一部のスタッフと対立した。それが直接の原因となり、2001年に編集委員を辞任している。

時の東京都知事・石原慎太郎をたびたび批判している。特に2000年4月9日に、石原が陸上自衛隊練馬駐屯地の創隊記念式典での挨拶の中で、「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」といういわゆる「三国人発言」を行った際には、どのような文脈で「三国人」という言葉を用いようとも、この発言は在日コリアンに対する侮辱であり、人種差別であると激しく批判した。この主張のもと石原慎太郎を辞任させるための「石原やめろネットワーク」をはじめとした活動を行っている。ただし多くの在日韓国・朝鮮人は日本領だった戦前に来日しており、現在の多くの在日韓国・朝鮮人はその子や孫である。

その一環として、2003年4月5日、落合恵子佐高信と連名で『プレ東京都知事選挙』と題するネット投票サイトを開設した。『プレ東京都知事選挙』サイトには石原ら各候補者のプロフィールが書かれていたが、石原についてはきわめて批判的なものだった。このサイトが2ちゃんねるなどで広められたことなどから『祭り』となった。

フェミニズム系の新聞『ふぇみん2000年4月25日号の編集後記で、「戦争になったら韓国と日本のどちらにつくんだと聞く人がいるけど、戦争が起きたら、在日は真っ先に殺されますよ」と述べた。

ワイドショー番組を嫌っている。テレビ番組で「私はワイドショーが嫌いです」と発言したことがある。辛はワイドショー番組を「人のプライバシーを覗き見する下品な番組」と軽蔑する発言をしていた。ワイドショー番組への皮肉をこめて永とNHK衛星放送の「わいどしょう番組」をプロデュースし出演していた。永は「こういう人がワイドショーの司会をやればテレビもよくなるよ」と発言するほど高く評価している。

外国人参政権には賛成の立場をとっている。NHK「真剣10代しゃべり場2000年7月8日放送回に出演した際、日本の国籍を持たない人も日本の参政権を得られるようにすべきだと発言した。ただし韓国では日本人に自由な参政権は付与されていない。

2001年3月5日から3月9日まで国連人種差別撤廃委員会に参加し、その委員会の集まりにおいて、石原を批判するだけにはとどまらず、在日コリアンが日本人によってさまざまな人種差別に遭い被害を受けたと主張した。またその委員会の集まりにおいて、日本の法律が人種差別的に作られていて、日本政府が人種差別をしていると世界に向けて主張した。その委員会において、日本人は在日コリアン(主に子どもや児童・生徒)に対して暴力を振るう、人種差別的な人たちであると考える人に賛同するロビイストが多くなったため、国連人種差別撤廃委員会は日本を批判する勧告を出した。

2003年、反差別・反ファシズム闘争が評価され、多田謡子反権力人権賞を受賞する。また、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が推進する「戦争と女性の人権博物館」日本建設委員会の呼びかけ人となる。

2008年3月18日、恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(会長:鳩山由紀夫)に招かれて講演。日本では血のつながりが重視されるあまり在日韓国・朝鮮人を差別、排除する傾向があり、在日コリアンに日本への所属意識が生まれないと述べた。

2009年11月18日、日本軍慰安婦問題の立法解決を求める緊急120万人署名の賛同人になる。

なお、当の石原は、四期目途中の2012年10月に都知事を突如辞任、衆議院議員に転身した。

生前葬

2007年5月5日長野県松本市神宮寺にて生前葬を行なった。生前葬を行った理由は、日本人への「怒りをぶっつける」ことだという。生前葬で辛は『千の風になって』をもじって「私は迷惑な千の強風になる!!!!」と宣言した。

批判