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山口百恵(やまぐち ももえ、本名:三浦 百恵 みうら ももえ(旧姓:山口 やまぐち)、1959年1月17日~)は、日本の元歌手・女優。東京都渋谷区恵比寿出身だが、幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、横須賀市で過ごした。父親は医者だが母親と一緒には暮らしてはいなかった。諸般の事情で非嫡出子として生を受けたが後に百恵が自伝の中で実父を酷評する記載をしてしまったためにいかに前述のような事情があるにせよ実の父親を足蹴にする言動をした事について大きな議論を呼んだ。横須賀市立不入斗中学校卒業。[1]→日出高等学校卒業。
活動時はホリプロ(当時はホリプロダクション。以下現社名の「ホリプロ」と記す)に所属。
以下、氏名の表記は特記を除き「百恵」で統一する。
目次
来歴[編集]
デビューまで[編集]
1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの『回転木馬』[1]を歌い、優勝[2][3] [4]、20社から指名を受ける。
芸能界デビュー[編集]
1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。当時のキャッチコピーは「ひとに目覚める14歳」。
デビュー曲の『としごろ』は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の『青い果実』ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり[3]、それは1974年の『ひと夏の経験』の大ヒットで大きく花咲くこととなった。年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。[5]
『ひと夏の経験』の大ヒットした1974年には青春映画の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した恋人役の三浦友和とはテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。百恵の主演映画13作のうち12作は三浦友和との共演である。
映画デビューした1974年10月からはTBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)でも好演、高い人気を集め、6年にも及ぶ人気ドラマとなる。
1976年 にはブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。この年リリースされた『横須賀ストーリー』から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く。結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。しかし、この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく、百恵本人だったという。
1978年の第29回NHK紅白歌合戦では紅組のトリを務めたが、ポップス系がトリを務めたのは、同年白組のトリを務めた沢田研二と共に初めてのことであった。また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が最初であり、 その後も誰もいない。
所属事務所「ホリプロ」が東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。
1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』という著書を発表するなど、多くの文化人に現代を象徴するスターとして語られた。歌も映画もヒットすることにより、美空ひばりに匹敵するような「女王」という称号も奉られることになる。写真家篠山紀信は百恵のデビュー当時からモデルとして撮り続けて来たが、度々、印象的な写真を発表し、注目を集めた。阿久悠は「時代と寝た女」と評した。
結婚発表と引退宣言[編集]
1979年10月20日、大阪のコンサートでその役柄のイメージのまま、三浦との恋人宣言を発表する。そして翌1980年3月7日には三浦との婚約と引退を公表し、ファンに大きなショックを与える。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1978年のキャンディーズで定着した引退記念興業が大々的に展開されることになった。
1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、最後の歌唱曲となった「さよならの向こう側」で堪えきれず、涙の絶唱となった。その後、百恵がマイクを置いて去っていったシーンは、ファンの間では伝説となっている(なおこのマイクは現在小樽にある石原裕次郎記念館に展示されている。詳細は「三浦友和」の記事を参照)。
ファイナルコンサートの翌日である、10月6日に放送された「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)の引退特集番組では、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、かつて花の中三トリオとして活躍した森昌子と桜田淳子、女性歌手仲間として仲が良かったアン・ルイス・ジュディ・オング・太田裕美・岩崎宏美・高田みづえ、他男性歌手では新御三家の西城秀樹と郷ひろみと野口五郎、ほか沢田研二などが百恵の最後の雄姿を見守った。この夜ヒットの放送は、歌謡番組史上の傑作として現在も語り草となっている。
現役最後のテレビ生出演は、10月13日放送の「山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング」(日本テレビ)である。この時には、もう一切の涙を見せずに晴れやかな笑顔でサラリと手を振って、秋桜の花道の向こうに消えていった。正式な完全引退は10月15日のホリプロ20周年記念式典である。その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動は僅か7年半程だった。
結婚[編集]
結婚式は11月19日に東京都港区の霊南坂教会で行われた(仲人は大映ドラマで百恵の父親役を数多く演じた宇津井健夫妻)。
なお引退後もだめ押し的に「一恵」(11月19日発売)というシングルが発売される等、最後の最後まで所属事務所やレコード会社に利益を与え芸能界を去っている。
同年刊行されたエッセイ『蒼い時』[6]は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や性体験についても赤裸々につづられており、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。同書の仕掛け人といえる残間里江子にも注目が集まった。
引退後[編集]
引退後も常にマスコミやファンからの注目を集めているが、一貫して芸能界とは距離を置いている。ただし作詞家として活動したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。
私生活では2人の息子をもうけた。私生活に執拗に迫るマスコミと小競り合いを起こしたこともある。また三浦・山口夫妻宅に強盗が押し入る事件も発生したが、幸い大事もなく解決している。友和によれば百恵は、プライバシーが脅かされる生活に「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」ともらしたという。長男の通園に備えて、自動車教習所に通い始めたころには、教習所の周りを百恵を狙ったカメラマンが囲み、苦悩したという。友和が人権擁護局に助けを求めた翌日には、カメラマンは一人も来なくなったという。
現在はキルト作家として活躍。作品が東京国際キルトフェスティバル等の展示会に出品されることも多い。元トップアイドルという肩書きによってではなく、その作品の完成度から、支持を集めている。
節目ごとに多くのベストアルバムが発売されている。デビュー30周年にあたる2003年には未発表曲1曲を含む24枚組CD BOX『MOMOE PREMIUM』が発売され、このヒットによりブームが再燃した。レコード会社の商業戦略という側面も否めないが、ブームとは関係なく、時代と国民に愛された永遠のアイドルスターであり、戦後日本の歌謡界においては美空ひばりに次ぐ伝説的存在となっている。 ポスト百恵として歌謡界のトップスターとなったのは、百恵の引退と入れ替わるようにデビューした松田聖子であった。
1980年のシングル「謝肉祭」は、歌詞の中で連呼する「ジプシー」という言葉が差別的表現であるとして1990年代後半以降レコード会社が発売を自粛した。このためベスト盤CDや引退コンサートのCD・DVDも不完全な形で発売され、上記『MOMOE PREMIUM』でも歌詞のみが紹介され音源収録はなかった。しかし2005年5月25日発売の「コンプリート百恵回帰」にアレンジバージョンが収録される形で復活し、2006年1月18日発売のライブCD・DVD BOX「MOMOE LIVE PREMIUM」での、引退コンサートは『謝肉祭』を含むノーカット版が収録された。
引退25年・ホリプロ創立45年にあたる2005年、山口百恵の楽曲を使用したトリビュート・ミュージカル「プレイバックPart2~屋上の天使」が上演された。ホリプロ創業者の堀威夫によれば、ABBAの楽曲を使用したミュージカル『マンマミーヤ』がヒットしたことに刺激され、何れは人々の記憶から薄れていく可能性がある山口百恵の存在を守っていくのが使命であると考えているとのことである。
「記憶から薄れていくことに抗う」という意味の主張を自著「百恵讃~学生たちと先生の山口百恵」を通して展開している、同志社女子大学助教授、影山貴彦との符合性もある。
エピソード[編集]
- 『ひと夏の経験』を歌っていた時期のインタビューでは大抵『女の子の一番大切なものって何だと思いますか』と質問されたという。百恵私は全て『まごころ』という一言で押し通したという。[3]
- 淡谷のり子は一貫して百恵の歌唱力や人間性を批判しており結婚引退した際も「あの鼻声の子に嫁が勤まるのか。」と発言した。
音楽[編集]
シングル[編集]
- としごろ(1973年5月21日)
- 青い果実(1973年9月1日)
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:馬飼野康二
- 禁じられた遊び(1973年11月21日)
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:馬飼野康二
- 春風のいたずら(1974年3月1日)
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:馬飼野俊一
- ひと夏の経験(1974年6月1日)1974年紅白歌合戦で使用
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:馬飼野康二
- ちっぽけな感傷(1974月9月1日)
- 作詞:千家和也、作曲:馬飼野康二、編曲:馬飼野康二
- 冬の色(1974年12月10日)
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:馬飼野康二
- 湖の決心(1975年3月21日)
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:森岡賢一郎
- 夏ひらく青春(1975年6月10日)1975年紅白歌合戦で使用
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:穂口雄右
- ささやかな欲望/ありがとう あなた(1975年9月21日)
- 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:馬飼野康二
- 白い約束/山鳩(1975月12月21日)
- 愛に走って/赤い運命(1976年3月21日)
- 作詞:千家和也、作曲:三木たかし、編曲:萩田光雄
- 横須賀ストーリー(1976年6月21日)1976年紅白歌合戦使用
- パールカラーにゆれて(1976年9月21日)
- 赤い衝撃(1976年11月21日)
- 作詞:千家和也、作曲:佐瀬寿一、編曲:馬飼野康二
- 初恋草紙(1977年1月21日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- 夢先案内人(1977年4月1日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- イミテイション・ゴールド(1977年7月1日)1977年紅白歌合戦使用
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- 秋桜(1977年10月1日)
- 作詞:さだまさし、作曲:さだまさし、編曲:萩田光雄
- 赤い絆 (レッド・センセーション)(1977年12月21日)
- 乙女座宮(1978年2月1日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- プレイバックPart2(1978年5月1日)1978年の紅白歌合戦で紅組のトリとして歌った。
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- 絶体絶命(1978年8月21日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- いい日旅立ち(1978年11月21日)
- 作詞:谷村新司、作曲:谷村新司、編曲:川口真
- 美・サイレント(1979年3月1日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- 愛の嵐(1979年6月1日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- しなやかに歌って(1979年9月1日)1979年紅白歌合戦で使用
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:川口真
- 愛染橋(1979年12月21日)
- 謝肉祭(1980年3月21日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:大村雅朗
- ロックンロール・ウィドウ(1980年5月21日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- さよならの向う側(1980年8月21日)
- 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
- 一恵(1980年11月19日)
- 作詞:横須賀恵(山口百恵)、作曲:谷村新司、編曲:萩田光雄
- 惜春通り(1994年4月21日)
- 作詞:石丸博、作曲:川口真、編曲:萩田光雄
アルバム(ベスト20以上)[編集]
- 百恵の季節(1974年)
- ひと夏の経験
- ヒット全曲集
- 15才(1975年)
- 16才のテーマ
- 百恵ライブ
- ヒット全曲集
- ささやかな欲望
- 17才のテーマ(1976年)
- 横須賀ストーリー
- ヒット全曲集
- パールカラーにゆれて(1977年)
- 百恵白書
- 山口百恵
- GOLDEN FLIGHT
- 百恵物語
- 花ざかり(1978年)
- COSMOS(宇宙)
- プレイバック
- ドラマチック
- ヒット全曲集
- 曼珠沙華(1979年)※ジャケット写真は篠山による、ヌード写真の腋から上のトリミングである。
- ア・フェイス・イン・ア・ビジョン
- L.A.ブルー
- 春告鳥(1980年)
- メビウス・ゲーム
- 百恵伝説
- 不死鳥伝説
- This is my trial
- 伝説から神話へ
- 百恵復活
- MOMOE PREMIUM(2003年)
出演[編集]
映画[編集]
主演映画14本
- 伊豆の踊子(1974年) 三浦友和と共演
- 潮騒(1975年) 三浦友和と共演
- 絶唱(1975年) 三浦友和と共演
- エデンの海(1976年) 南條豊と共演
- 風立ちぬ(1976年) 三浦友和と共演
- 春琴抄(1976年) 三浦友和と共演
- 泥だらけの純情(1977年) 三浦友和と共演
- 霧の旗(1977年) 三浦友和と共演
- ふりむけば愛(1978年) 三浦友和と共演
- 炎の舞(1978年) 三浦友和と共演
- ホワイト・ラブ(1979年) 三浦友和と共演
- 天使を誘惑(1979年) 三浦友和と共演
- 古都(1980年、引退記念作品) 三浦友和と共演
テレビドラマ[編集]
- 刑事くん2(1973年2月、TBS系) - ドラマ初出演作品(ワンカットのみ)
- 顔で笑って(TBS系 1973年10月~74年3月 全26話)
- 銀河テレビ小説 灯のうるむ頃 (NHK 1974年7月 全3話)
- 赤いシリーズ
- 野菊の墓(1977年7月9日)テレビ朝日系列土曜ワイド劇場
- 飛べ!孫悟空(1977年、TBS)
- 人はそれをスキャンダルという(1978年、TBS)
- もうさみしくなんかないぞ(1980年、フジテレビ)
- ほか
CM[編集]
著書[編集]
- 『蒼い時』 集英社 1981年1月 ISBN 978-4087510560
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 公式サイト(ソニーミュージック)
- Yahoo!ミュージック アーティスト情報
- MOMOE☆WORLD ファンサイト。詳細な活動記録あり
- シングルチャート大辞典・山口百恵
脚注[編集]
- ↑ 後に花の中三トリオを組むことになる桜田淳子も、同年、同じ『スター誕生!』で牧葉ユミの「見知らぬ世界」という曲を歌って合格していた。
- ↑ 百恵はこの時、「発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していた」という。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 山口百恵 『蒼い時』 集英社 1981年
- ↑ 残念ながら、この決戦大会出場時の映像は現存していないという。ちなみに、この時、百恵と最後まで優勝を争い敗れたのが、後に女子プロレスラーとなるマッハ文朱(現:女優・タレント)であった。
- ↑ CBSソニー(現:「ソニー・ミュージックエンタテインメント」)のプロデューサー・酒井政利は第二弾として「青い果実」を出すときに、作詞家の千家和也に対して、「より過激な表現」を求めたものの、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」と自問したものの、「ストレートに表現することも一つの行き方だ」と思い直したという。
- ↑ 巻末のあとがきは百恵自身の万年筆による手書き原稿が印刷されている。