「人物叢書 織田信長」の版間の差分

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(書評)
(第8章 家臣団と知行制)
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*近江に柴田勝家(尾)・中川重政(尾)・'''磯野員昌(近江)'''が抜けている。
 
*近江に柴田勝家(尾)・中川重政(尾)・'''磯野員昌(近江)'''が抜けている。
 
*越前に'''前波吉継(越前)'''が抜けている。
 
*越前に'''前波吉継(越前)'''が抜けている。
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*山城に明智光秀が抜けている。
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*和泉、河内が存在しない。
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**和泉は蜂屋頼隆、河内は北半分が野間長前・池田教正・多羅尾常陸介(すべて河内)、南半分が三好康長(不明)である。
 
*いったいいつ、松永久秀の出身が山城ということになったのか。まあ松永は譜代でないのが明らかだからどうでもいいが。
 
*いったいいつ、松永久秀の出身が山城ということになったのか。まあ松永は譜代でないのが明らかだからどうでもいいが。
 
*著者はこの譜代重用が荒木村重の謀反の一因になったと言うのだが、荒木村重の謀反は1578(天正6)年である。<br>
 
*著者はこの譜代重用が荒木村重の謀反の一因になったと言うのだが、荒木村重の謀反は1578(天正6)年である。<br>

2013年6月22日 (土) 19:11時点における版

織田信長 (人物叢書)とは、左翼偏向学者・池上裕子が書いたトンデモ歴史本である。

書評

はしがき

※五木寛之は小説家である。だから文章がうまい。そこのところを警戒してから読んでほしい。

信長と敵対者について、作家の五木寛之さんが『朝日新聞』に連載の「みみずくの夜メール」で興味深い記述をされているのに出会い、私は強く惹かれた。
少し長いが、みなさんにぜひ伝えたいと思うところを引用してみよう。
(以下引用)
……ところが東京中心のジャーナリズムには、その違和感がない。日本全国みんな一定の物の見方をしているように思い込んでいるふしがある。……
たとえば、織田信長という人物は、だれでもが英雄氏していると決めこんでいるような気配がある。……しかし私が日本各地で出会った人たちの中には、
「信長許すまじ」
と、平成のいまでも眉をつりあげ、言葉が激する人びとが少なくなかった。いや、むしろ松代まで信長を憎み続けると公言する人たちがたくさんいたのだ。
北陸、東海、近畿、中国地方など、ことにその傾向がつよかったように思う。
瀬戸内の島々の人びとのなかには、信長勢と戦う一向宗の応援に水軍としてはせ参じた船の民の末裔があちこちにいて、ご先祖の船乗りたちがいかに水上戦で信長軍を翻弄したかを、
きのうのことのように唾をとばして語ってくれる人たちがいた。
(引用おわり)
私はこの文章に深く共感し安堵の思いを持った。近年は、平和が勝者=権力者も含めて多数の希求していた絶対的な価値であるかのようにみなして、
平和のために統一をめざし実現したから民衆に支持されたという権力象を描く立場もある。そうなると、信長や統一政権に抵抗した人々の立つ瀬がないのである。
五木さんの文章からは、誰もが権力による「平和」を待望し、統一政権の戦争をそのための戦争と称賛していたわけではなかったことがわかる。
命を懸けて戦った人々には、抵抗し戦うべき立場があったからこそ闘ったのである。それなくして、どうして四00年以上もの間、「許すまじ」意識が生き続けてこられようか。
私はこれまで「英雄」の歴史を書きつつ、敗者・抵抗者の思いを気にかけてきたが、その思いを描き出せたわけではなかった。
そしてこの先は、信長の側に立って天正十年六月一日までの勝者の歴史を描くことになるのだが、私の立場は、民衆のために平和=統一をめざしたかのごとき権力像を描こうとするものではなく、
また、敗者・抵抗者を歴史の「進歩」を見誤った愚者のように扱うものでは決してないことを表明しておきたい。

評論

  • 五木寛之は「蓮如物語」「親鸞」という小説を書いている。一向宗(=浄土真宗)側に偏った視点になっているのではないか。
  • 北陸、中国地方はまあ分かる。近畿は数年でほぼ制圧されてしまったが、まだ分からんでもない。しかし東海は信長(と家康)の本拠地である。信長を憎んでいる人が多くいるとは全く思えない。
  • 「末代まで信長を憎み続ける」・・・日本人が本当にこんな事を言うものだろうか? 朝鮮人や中国人ではあるまいし、400年前の人間を恨み続けるなど、およそ日本人の価値観とはかけ離れている。
    もし本当に憎んでいるとしても、それはおそらく実際の信長ではなく、江戸時代以降に創作によって作り上げられた信長像ではないのか。
  • 抵抗した人々の立つ瀬がないと、著者にとってなにか不都合なことでもあるのだろうか。
  • 「平和を待望していた人々」に抵抗し、命を賭けて戦うことはむしろ不名誉なことではないのか。
  • 「信長許すまじという意識」は、本当に400年間生きてきたものなのか。江戸時代200年の平和、そして明治維新後の激動の中、特に目的も無くそんな意識を持ち続けていられるとは。ちょっと思えない。
  • 要は「自分は反・信長の立場から本書を著す」と宣言しているのである。これではとても中立的な内容は期待できない。


第一章 尾張・美濃平定

一、大うつけ信長 ~ 四、稲葉山城攻略

  • 初めっから史料の丸写しのような文章が目立つ。「武者始」くらい現代語訳したらどうなのか。(初陣のこと)

五、信長の人柄

このように絶対君主のような性格の人はどの時代にもどこでも大なり小なり存在すると思うが、信長は時代の波に乗って、そうした面を抑制することなく人々に君臨することができ、大きな成果をあげたといえようか。
信長は敵を討った後、戦果を誇示する手紙の中で、「近年の鬱憤を散じ候」のように書くことが少なくない。
本音であろう。
逆らう者、抵抗を続ける者に憎しみ、怒りをつのらせ、徹底的に叩くとか、根切り、なで切りの殲滅戦をするとか、狂気のような沙汰に走ってしまうところがあった。
まことに多くの人を殺したのであった。
  • なんとも時代遅れの信長評である。これは一体いつの時代の本なのだろう?
  • 信長の行った事績を性格に帰している。さすがに幼稚すぎるだろう。
  • ちなみに戦国時代に、権力強化を図って失敗した大名は何人かいる。有名なのは武田信虎斎藤道三
    信長は彼らと比べ自分を抑えてうまくやったから成功したのだ、と推測できる。
  • 敵を徹底的に叩くことが狂気の沙汰???わけがわからない。ちなみに敵を殺してその数を減らせば、味方は安全になる。
  • この項はたった3ページ未満しかない。人物叢書・・・?
  • 上に書いた部分以外は、全てフロイス日本史と信長公記からの抜き書きである。あまりにも貧相である。


第二章 幕府の再興と天下

一、義昭を奉じて上洛

だから信長は美濃平定が終わらないうちから、上洛供奉の意向を積極的に表明して、義昭を自分に引きつけておこうとした。
将軍家の者を擁立しなくては、京都に入って軍勢を動かしても、その正当性を認められないのが現実であった。
  • まったくの事実である。しかし、この著者はあとで「信長は全国統一を目指したのではなく、ただ自分の領地を拡大しようとしただけ」などと書くのである。
    だったらなんで信長は京都に入ることを目指したのか?この時点での京都は、信長の領地からは国1個を隔てた場所にある。
    自分の領国拡大以上の意図がなければおかしいではないか。完全に矛盾している。
    自分の頭の中身を整理してから書いてもらいたいものである。

二、幕府再興

ただし、信長が幕府・守護体制とか、義満が樹立した、室町将軍を頂点とする公武一統政権をつくることをめざしていたと私は考えない。
信長自身が義昭から分国の守護に任じられてはいないし、幕府が守護を任命する体制はすでにない。
信長は京都・畿内の秩序維持機能を幕府に期待したにすぎない。
  • 恒例の信長sage。
  • 「信長は守護に任じられてはいない」というが、上の『一、義昭を奉じて上洛』にはこう書いてある。
なお、「古今消息集」には同日付で義昭が信長を主筋の管領家斯波氏の家督とし、武衛(左兵衛督)に任じるとした文書写も載っているが、信長はこれを辞退したようである。

任じられているではないか。任じられたのに(著者の解釈によれば)信長が断ったのである。

  • 「幕府が守護を任命する体制はすでにない」ことと、信長が何を目指すかは全く別の話である。前者は現状、後者は未来の話だからだ。
  • 幕府に秩序維持機能があるなら、信長が上洛し、幕府の役人に様々な指示を与える必要はなかったはずである。
    信長が期待したのは自身が天下を支配するという大義名分だ。この「天下」は従来通り「日本国」という解釈でいいだろう。

三、公家・寺社領安堵政策

なぜなら、信長は京都を本拠地にする気はなく、みずからが将軍になる木もなかった。
将軍になっても、それだけでは全国の大名を従えることはできないことをわかっていたからである。
天下布武によって天下静謐を実現した後は幕府に静謐維持を担わせ、みずからは分国支配・分国拡大戦に邁進し、全国を平定しようと考えていたのである。
  • もっともな考え方だが、1つ上で指摘した通り、自分の主張同士で矛盾している。

四、天下と分国

神田千里氏は「中世末の『天下』について」で、天下の意味や範囲についてくわしく述べている。
それによれば、天下が京都あるいは京都と五畿内をさす場合、将軍をさす場合、「将軍が握っている幕府政治」
あるいは「将軍というものに象徴される秩序」をさす場合などがあるという。
(中略)
一五八二年十一月五日付ルイス・フロイス書簡は信長の死を報じる中で「後には公方さえも都から放逐して日本の君主国、
すなわち天下と称する近隣諸国の征服に乗り出した」とあり、同人の一五八四年一月二日付書簡にも
「天下、すなわち、都に隣接する諸国からなる君主国」とある。
都に隣接する諸国とは五畿内のことと考えてまちがいないだろう。それが「天下」の範囲とされている。
以上の史料は「天下」が日本全国を意味するものではないことを示している。
もちろん、この時代に「天下」の語に日本全国を意味する用例がなかったわけではない。
ことに朝廷や寺社・幕府関係者には伝統的に全国を意味する用法が観念上存在したであろう。
しかし、現実の政治的状況の中では、信長と信長を取りまく人々や大名において、
「天下」の語は通常右に述べた意味内容で意識され使われていたといってよい。
(中略)
三好三人衆とその与同者、敵対者の城を攻略し、あるいは制札銭・矢銭などを賦課することで、それらの国を平定したという形をとった。
それから京都にもどって義昭が将軍になった。
これを『公記』は「畿内の逆徒ら」を退散させて「天下御存分に属し」たと書いた。
逆徒らを追い払い平定すべき範囲は畿内であり、それが「天下」でもあったことを示している。
(かなり中略)
そうして、天正元年の義昭追放を機に「天下」であった五畿内が分国になった段階を経て、さらに分国が拡大していくと、
天下は全国を意味する語へと飛躍していった。
天正八年三月に本願寺の屈服が確定してまもなく、柴田勝家は「天下一統」といって全国平定を展望した(補208、これについては後述)。


  • 天下という単語に2つの意味があったことは否定しないが、もっと単純に考えていいだろう。
    つまり我々は、国政と地方行政が区別されている環境に慣れているせいで、戦国時代もそうだったと思い込んでいるのである。
    実際は違う。天皇にしろ将軍にしろ、自分の直轄領というのがあった。
    つまり当時の「天下人」とは、京都府知事が内閣総理大臣の両方の権利を持った役職である、ということである。
    こう考えれば矛盾がない。
  • それを抜きにしても「全国を意味する語へと飛躍していった」はおかしい。
    回帰していった、なら分かるが。
  • どうでもいいが、ずいぶん文章が安っぽい箇所がある。自分の主張にあまり関係ないところはどうでもいいのか。

第3章 反信長同盟の結成と戦い

一、浅井・朝倉・本願寺の同盟

比叡山焼き討ちにしても、古い体制を象徴する宗教勢力を否定するという目的のために破壊・殺戮をおこなったのではない。
信長に味方せず敵方を利して、信長を窮地に陥れたから、敵を徹底的に破砕する信長流の報復戦をしたのである。
もちろん、そこには計算があった。
天皇・都の鎮護を担って公武の手厚い保護をうけ、信仰の対象でもある比叡山でさえ容赦なく攻め滅ぼすというメッセージである。
わが身と言えの存続をひたすら願う天皇・公家らは信長の期限を損ねないようにつとめるしかない。
  • 要するに単なる見せしめだというのだ。いくらなんでも理解の仕方が低レベルすぎないか?

二、武田信玄動く

正月、六角承禎父子が一向一揆と組んで蜂起し、南近江の金森・三宅の両城に立て籠もった。
この地域を支配する佐久間信盛は、信長の命令をうけて、一向宗の僧や荘・郷村の指導者である「地士長」らに、一味内通をしない旨の起請文を提出させた。
(中略)
もし敵方になれば手ごわい人々である。
  • どこが手ごわいのか。この後の一向一揆に対する処置を知らないのか。事実、信長にあっさり起請文を提出しているではないか。

三、反信長連合を解体

(末尾)

  • 相変わらず安国寺恵瓊の書状を予言扱いしている。

   この点については他の研究者も同罪だが、いい加減どうにかならないものか。

  • 文言が曖昧すぎる。「信長の代は持たない」とは、「高転び」とはいったい何を指しているのか。
    • 「高転び」というのが本能寺の変の事を言っているのなら、年数がハズレている。(3年5年ではなく9年)
    • 揚げ足取りレベルでいいなら、信長の代は2年後に確かに終わった。信忠に家督を譲って。
      • さらに、あまり知られていないが、恵瓊は数年後に織田家との和睦を毛利家に進言するのである。高転びはどこへ行った???
  • 秀吉が「さりとてはの者」と言うが、どの程度の者なのか。
    • 恵瓊は公家になる事を否定的なニュアンスで記しているが、彼の言う「さりとてはの者」=秀吉は、今更言うまでもなく、公家になることで天下を取ったのである。
    • 恵瓊が「周公旦太公望などのごとく」と絶賛した朝山日乗は、数年後に失脚した。
    • のちの関ヶ原の戦いで、恵瓊は西軍について敗北し、斬首された。

   この時、西軍の敗因となったのは、吉川広家と小早川秀秋の内通である。
   つまり恵瓊は、毛利家中の人間といってよいこの2人の動向を、見極めることができなかったのだ。

  • そもそも、たった1回会っただけで相手の事がどこまで分かるというのだろう。

   それもこれだけ人物眼のない人間が。


第4章 一揆を殲滅し、右大将に

四、安土城を築く

信長の王権構想は日本と天皇とを超えんとするところにあった。

どうでもいいが私はこの意見には反対である。 どうでもいいが。

第6章 絶頂期へ高揚

四、本能寺の変

これに関してはガスパル・コエリョの一五八八年度日本年報の中の文が興味深い。
(少略)
 統率権の大部分は、特に都の周辺に位置する五畿内なる五つの領国を占領した武将と領主の手中に帰するのが常である。
 (中略)
また、「天下とは日本の主権のことである。都および周辺の支配権を握ることをそう称する」とある。
  • 第2章の四での「天下」もこれと同じ解釈で問題ないはずである。京を含む畿内の支配が、他の地域の支配に優越するのは当たり前だろう。

第8章 家臣団と知行制

三、譜代重用と新参国人の没落

また、信長が分国支配や京都支配で重用した顔ぶれを見ると、尾張出身者が圧倒的に多く、美濃出身者は少しだけいる。
この両国出身者を譜代家臣と規定してよいだろう。
  • ぜんぜん良くない。なんで美濃が譜代なの?
    • ならば武田信玄にとって信濃衆は譜代なのか。

さて、問題の表である。

近江 佐久間信盛(尾)・丹羽長秀(尾)・羽柴秀吉(尾)・明智光秀
越前 柴田勝家(尾)・前田利家(尾)・佐々成政(尾)・不破光敗(濃)金森長近(濃)原長頼(濃)
若狭 丹羽長秀(尾)
加賀 簗田広正(尾)
能登 前田利家(尾)
越中 佐々成政(尾)
丹波 明智光秀
丹後 細川藤孝
京都 村井貞勝(尾)・明智光秀
山城 細川藤孝・塙直政(尾)
大和 松永久秀(山城)・塙直政(尾)・筒井順慶(大和)
摂津 荒木村重(摂津)
播磨 羽柴秀吉(尾)
甲斐 川尻秀隆(尾)・穴山梅雪(甲斐)
信濃 森長可(尾)・毛利長秀(尾)・滝河一益(近江)木曽義昌(信濃)
上野 滝川一益(近江)

太字が外様(譜代でない家臣)。 しかしこの表には間違いがいくつもある。

  • 村井貞勝の出身は尾張じゃない。少なくとも尾張に村井という苗字の領主はいない(谷口克広「信長の天下所司代」)。唯一の史料は「太閤記」の近江説。

   よって村井は外様として扱う。

  • 近江に柴田勝家(尾)・中川重政(尾)・磯野員昌(近江)が抜けている。
  • 越前に前波吉継(越前)が抜けている。
  • 山城に明智光秀が抜けている。
  • 和泉、河内が存在しない。
    • 和泉は蜂屋頼隆、河内は北半分が野間長前・池田教正・多羅尾常陸介(すべて河内)、南半分が三好康長(不明)である。
  • いったいいつ、松永久秀の出身が山城ということになったのか。まあ松永は譜代でないのが明らかだからどうでもいいが。
  • 著者はこの譜代重用が荒木村重の謀反の一因になったと言うのだが、荒木村重の謀反は1578(天正6)年である。

   この時点では「能登 前田利家」や「越中 佐々成政」はまだ存在しない。
   村重の謀反のことを語るのに本能寺の変直前のデータをもってくるのは、時期的におかしいのである。

  • もし本能寺の変直前までを時間的範囲とするというなら、実質的に家臣同然である徳川家康(三河)北条氏政(相模)も含めて良いはずである。
    • さらに言うと、本能寺の変後にでは周防・長門を大友義鎮(豊後)、備前などを宇喜多直家(備前)など、他国者にいくつもの国をあてがう事が予定されていた。